翻訳批評
山岡洋一
新訳はどこまで新しい
のか
− 加藤節訳ジョン・ロック著『統治二論』
資本主義の考え方の基礎を築いた本として、アダム・スミスの『国富論』とともに取り上げられることが多いのが、ロックのこの本だ。
翻訳でとくに有名なのは鵜飼信成訳『市民政府論』(岩波文庫)だが、2007年9月に同じ岩波書店から加藤節訳が単行本として出版された。この訳は鵜飼
訳とは決定的なところで大きく違う。鵜飼訳が『政府二論』のうち後編だけを訳したものであるのに対して、加藤訳は『統治二論』という題名が示すとおり、全
訳版であることだ。
加藤訳の『統治二論』には長い副題がついている。「前篇では、サー・ロバート・フィルマーおよびその追随者たちの誤った諸原理と論拠が摘発され、打倒さ
れる。後篇は、政治的統治の真の起源と範囲と目的とに関する一論稿である」というものだ。ここでいう「誤った諸原理」とは、いわゆる王権神授説である。い
まではほとんど知られていないフィルマーという思想家が、聖書を論拠に王権神授説を説いたのに対して、やはり聖書を論拠にそれを批判したのが前編、アメリ
カ独立宣言や日本国憲法に影響を与え、資本主義を支える政治思想を確立したのが後編である。
加藤訳は後編だけでなく、前編も訳した全訳版であることが特徴だが、全訳版は始めてではない。戦後すぐに松浦嘉一訳『政治論』がでているという。10年
前にも柏書房から伊藤宏之訳『全訳統治論』が出版されていて、いまでもすぐに買える状態になっている。だから、通常は後編だけの鵜飼訳が読まれていると
いっても、全訳版という点に価値があるわけではない。何らかの点で既訳を超えていなければ、新訳を出版する意味はない。加藤訳は既訳を超えているのだろう
か。
その点を考えるヒントとして、まず、加藤節訳の特徴を示す事実をひとつあげておこう。本書の第1篇は前述のようにフィルマーの著書への批判なので、ほと
んどの段落でフィルマーの主張について論じている。加藤節訳の最後にある「人名索引」に、「頻出するアダム、フィルマーは割愛した」と書かれているほど
だ。
ところが、である。加藤訳を読んでいくと、「フィルマー」は頻出しているどころか、ほとんどでてこない。第1篇の冒頭(1−1)に「サー・ロバート・
フィルマーの『パトリアーカ』は……」という記述がある(なお、原著には第1編と第2編に分けて段落番号がついており、1−1は第1編第1段落を意味す
る)。1−4と1−5、1−6にも「サー・ロバート・フィルマー」と「サー・フィルマー」いう言葉がある。だが、その後は第1編の終わりまで、「フィル
マー」はでてこない(見落としがあるかもしれないが)。第2篇には2−1、2−22、2−61にでてくるだけのようだ。第1篇の全169段落、第2篇の全
243段落のうち、これしかないようなのだ。ではなぜ、「人名索引」で割愛するほど、「頻出」しているといえるのか。
理由は簡単である。「フィルマー」ではなく、別の言葉が使われているのだ。たとえば、「サー・ロバート」という言葉が第1篇の前にある3ページほどの
「緒言」に何度もでてくる。どのような人物なのだろうと首を捻る読者も少なくないだろうが、第1篇に入ると、1−4に「サー・ロバート・フィルマー」と
「サー・ロバート」が同じ文に入っている箇所があり、注意して読めば、これが同一人物であることが分かる仕組みになっている。そして、第1篇の終わりま
で、頻出しているのは、この「サー・ロバート」と、もうひとつ、なんともまぎらわしい「われわれの著者」という言葉だ。
なぜ、このような言葉を使っているのか。この理由もじつに簡単だ。原著にSir Robertとあれば「サー・ロバート」と訳し、原著にour
authorと書かれていれば「われわれの著者」と訳しているのである。「サー・ロバート」についていうなら、英語ではSirがつくとSir
Robertと呼びかけるのが通常なので、ロックがこう書いたのは理解できる。だが、日本語でたとえば、「サー・アイザックの物理学」とが「第2次世界大
戦でのサー・ウィンストンの指導力」とかの言い方をするだろうか。「ニュートン」「チャーチル」というに決まっているではないだろうか。だが、加藤節はそ
うは訳さない。読者にはいかにも不親切であっても、原著にSir
Robertと書かれていれば、「サー・ロバート」と訳す。この1点をみるだけで、加藤節がどのような姿勢で翻訳に取り組んだかがよく分かる。
明治半ばから戦後すぐにかけては、「サー・ロバート」と訳すことで、「サー」という言葉がどう使われるか、読者が学べるという考え方があった。欧米に関
する情報が圧倒的に不足していた時代には、この種の情報すら貴重だったのだ。だが、いまでは時代が変わっている。ジョン・ロックのこの本を、イギリスの風
俗習慣や英会話について学ぶために読む人はいない。だから、余分な負担を読者にかけないようにしてほしいと思う。加藤節が書いた「解説」には「サー・フィ
ルマー」が1回、「フィルマー」が10回以上でてくるが、「サー・ロバート」は一度も使われていない。日本語では「フィルマー」と書くのが常識なのだ。翻
訳では違うという理由があるのだろうか。原文にSir Robertと書かれていれば「サー・ロバート」と訳すのは、英文和訳であって、翻訳ではない。
加藤節の姿勢を示すものにはさらに、大量につけられた訳注がある。訳注のおそらく半分以上は、「原語は○○である」というものであり、この○○のところ
に、stateやpeopleなどの単語か連語が入っている。原著者の主張を理解するには原文に何と書かれていたかを知り、原文で意味を考えなければなら
ないと、読者に諭しているのである。明治半ばごろ、欧米の進んだ考え方を理解することなどとてもできないという前提のもとに作られた翻訳の考え方を忠実に
受け継いでいるのだろう。
だから、翻訳は原著者の内容を日本語で読み、日本語で理解するためのものだとは、考えてもいないようだ。この種の翻訳を読むと、訳注に頼らず、解説や訳
者後書きに頼らず、本文の翻訳だけで、原著の内容を伝えるように試みてはどうかといいたくなる。そうすれば、翻訳という仕事は格段にむずかしくなるが、そ
の結果、はるかに質の高い訳文が書けるかもしれないと思うからだ。
翻訳の考え方という点では、加藤節訳には新しさはない。学界という特殊な世界で、100年間にわたって延々と使われてきた考え方を使っているのだから。
では、既訳との違いはどこにあるのか。既訳があるのに新訳を出版する意味はどこにあると加藤節は考えているのか。その点を考えるヒントになる箇所を引用し
よう 。
それでは、君主の命令に抵抗してもよいのだろうか。誰かが、自分は君主によって苦し
められているということを発見し、君主は権利もなく自分にそうしてのだということを想像するたびに、君主は抵抗を受けてもよいのだろうか。そういうことに
なれば、すべての政治体は攪乱され、転覆されて、統治と秩序の代わりに、無統治状態と混乱としか残らないのではないだろうか。(2−203)
古くからの考え方にしたがった翻訳に特有の「難解な」訳文にはなっていないと思えるかもしれないが、その点は後で取り上げる。ここで注目したいのは、
「無統治状態」という言葉だ。加藤節の訳注を真似るなら、この部分の原語はanarchyである。だったら「無政府状態」でいいようなものだが、加藤節は
そう訳さない。おそらく「政府」という言葉を嫌ったためなのだろう。本書の原題はTwo Treaties of
Governmentであり、岩波文庫の鵜飼信成訳が『市民政府論』になっているように、「政府」について論じた本だと考えてもおかしくないのだが、加藤
節は「解説」でこう論じている。
……法学者であった鵜飼氏が、文学者であった松浦教授の場合と同様に、政治学用語の邦
訳に問題を残していることは別としても、……ロックが用いるcicilを「市民的」と訳し、governmentを「政府」と訳す氏の観点には、
civilをpoliticalの同義語として使い、governmentに十八世紀以降に一般化する政治機構の意味を与えなかった『統治二論』に関する
誤解を広げる面がなかったとは言えないからである。(407ページ)
念のために記しておくが、governmentを「政府」ではなく「統治」と訳すのは、なにも加藤節の独創ではない。たとえば前述の伊藤宏之訳も『全訳
統治論』だし、中央公論の『世界の名著27』の宮川透訳も「統治論」である。それ以前に出版された鈴木秀勇訳、浜林正夫訳も『統治論』だ。鵜飼信成の方
が、常識に逆らって思い切った訳語を使っているといえるようだ。だが、いくつかの点を指摘しておくべきだろう。
第1に、ロックはgovernmentという語をかなり幅広い意味で使っている。たしかに「統治」という訳語が相応しいように思える場合もあるが、なか
には「政治機構」に近い意味で使っている場合もあり、加藤節は「統治体」という訳語をあてている。第2に、「政府」という言葉もgovernmentとい
う語と同様に、かなり広い意味で使われる。たとえば、「無政府状態」という場合の「政府」はいってみればかなり広義のものであり、加藤節のいう「統治体」
に近い。逆に、もっとも狭義の「政府」は「内閣」や「首相官邸」を意味するが、その責任者がストレスに耐えかねて病院に逃げ込んだとき、「無政府状態」と
表現するわけではない。いずれにせよ、ヤング・アダルト向けの小説ではないのだから、「無統治」などという言葉を使う理由はないように思う。
では加藤節はなぜ、「無統治状態」などと書くほど、「政府」という言葉を嫌ったのだろうか。これは想像でしかないが、「統治」という言葉に対する抵抗感
があるからではないだろうか。この点はたとえば、ロックの思想を受け継いだアメリカの政治思想を代表するともいえる有名な言葉について考えてみると、よく
分かるかもしれない。リンカーンの言葉、government of the people, by the people, for the
peopleにはさまざまな解釈があり、さまざまな訳があるが、「人民の人民による人民のための政治」が一般的だろう。このgovernmentを「統
治」として、「人民による人民のための人民統治」とすべきだとする主張があるが、これが定着するとは思えない。なぜかというと、「統治」という言葉には自
由、平等といった理念に相応しくない語感があるからだ。上が下を支配するという語感である。リンカーンの言葉で「統治」に抵抗があるとすれば、ロックの言
葉でも「統治」に抵抗があっても不思議ではない。抵抗を強いて押しきろうとすると、行き過ぎになることがある。たぶん、「無統治状態」はそういう行き過ぎ
のひとつなのだろう。
もう一か所、加藤訳の特徴を示す部分を引用し、既訳と比較してみよう。2−87の冒頭部分の訳を4種類紹介する 。
鵜飼信成訳『市
民政府論』(岩波文庫、1968年)
人間は、前に証明したように、生まれながらにして世界の何人(一人または多数の)とも平等に、完全な自由と自然法上の一切の権利特権を無制限に享受する
権限をもっている。それ故に彼は本来、ひとり自分の所有すなわちその生命自由および財産を他人の侵害襲撃に対して護る権力をもっているばかりでなく、他人
がこの法を侵犯した場合には、その事実があまりに凶悪で彼の見るところによれば死刑を必要とするというのであれば、その当に値すると確信するがままに、す
なわち死罪を以てさえ断罪し、これを処刑する権力を有するのである。
宮川透訳「統治論」(『世界の名著27』中央公論、1968年)
すでに明らかにしたように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、すなわち世界中の数多くの人間と平等に、完全な自由を所有し、自然の
法の定めるすべての権利と特権を、抑制されずに享受する資格を与えられている。したがって人間は、自分の所有物、すなわち、生命、自由、資産を、他人の侵
害や攻撃から守るための権力だけではなく、また、他人が自然の法を犯したときには、これを裁き、またその犯罪に相当すると信じるままに罰を加え、犯行の凶
悪さからいって死刑が必要だと思われる罪に対しては、死刑にさえ処しうるという権力を生来もっているのである。
伊藤宏之訳『全訳統治論』(柏書房、1997年)
すでに明らかにしたように、人間は生まれつき、他の人あるいは世界の人々と平等に、完全な自由と自然法の定めるあらゆる権利と特権を無制限に享受する権
原とを与えられているのだから、彼の所有物、つまりその生命、自由、財産を他の人による侵害や攻撃から保全する権力を生まれながらに持つだけでなく、他の
人が自然法を侵したときにはそれを裁き、当然にその罪にふさわしいと信じるままにこれを罰する力、犯罪が凶悪であり死刑が必要だと思われるときには死刑に
さえ処しうるという力、を生まれながらにして持つのである。
加藤節訳『統治二論』(岩波書店、2007年)
すでに示したように、人間は生まれながらにして、他のどんな人間とも平等に、あるいは世界における数多くの人間と平等に、完全な自由への、また、自然法
が定めるすべての権利と特権とを制約なしに享受することへの権原をもつ。それゆえ、人間には、自分のプロパティ、つまり生命、自由、資産を他人の侵害や攻
撃から守るためだけでなく、更に、他人が自然法を犯したときには、これを裁き、その犯罪に相当すると自らが信じるままに罰を加え、自分には犯行の凶悪さか
らいってそれが必要だと思われる罪に対しては死刑にさえ処するためにも、生来的に権力を与えられているのである。
このように比較してみると、鵜飼訳と宮川訳には大きな断絶があることに気づくはずだ。鵜飼訳は実際には宮川訳より5か月ほど遅く出版されているのだが、
翻訳の時期は戦前から戦中にかけて、京城帝国大学に在職していたときだというから、かなり早い。そのためもあるだろうが、鵜飼訳は古い翻訳文体を使ってい
る。それに対して、宮川訳は1968年という出版時期にしては、かなり新しい文体になっている。
そして、加藤訳は40年近くも前の宮川訳によく似ている。宮川訳を下敷きにしたのではないかと思えるほどだ(伊藤訳にも同じことがいえる)。翻訳につい
ての考え方は古いが、文体はそれほど古くないという印象を受けるのはそのためだ。では、宮川訳、伊藤訳と加藤訳の違いはどこにあるのかといえば、おそら
く、最大の違いは原文のpropertyを「所有」や「所有物」とは訳さず、「プロパティ」と片仮名にしたことにあると思える。
加藤節は第1篇第4章への訳注(2)でpropertyについて、「あきらかにモノを所有する権利を指す場合には所有権、ときに所有物、人間の身体や人
格に関わるより広い意味で用いられていると考える場合にはプロパティと訳し分けた」と書いている。さらに、巻末の「解説」に「二 神学的義務の基体−『プ
ロパティ』論の意味」と題する項を設けて、この言葉の意味をくわしく論じている。
だが、翻訳という観点に立つなら、片仮名を使うのは逃げであり、たいていの場合はあまり得策だとはいえない逃げだといえる。とくに、定着した訳語がある
ときに片仮名を使うのは、最悪の方法であることが多い。
ジョン・ロックがこのpropertyに独特な意味をこめていることは、加藤節に指摘されるまでもなく、周知の事実である。引用した部分を読めばあきら
かなのだから。この部分を読んで気づかなかったとしても、2−173に「ここでもほかの所でも、私が所有物と言うとき、それは財産だけではなく、身体をも
意味していると理解してもらわなくてはならない」(宮川透訳)と書かれている
。既訳では、この点を踏まえたうえで「所有」や「所有物」という訳語が使われていたのである。
原著に使われているひとつの語をさまざまに訳し分けるのは、翻訳という観点からは当然のことだ。だから、訳し分けた点は一歩前進だといえるだろうが、
「プロパティ」はいただけないと思う。
それにしても、と思う。それにしてもなぜ、ここまで単語にばかりこだわるのだろう。加藤節の訳書の帯には大きく「画期的新訳」と書かれているが、既訳と
違っているといえる点は、propertyの訳語、governmentの訳語、politicalの訳語、civilの訳語など、単語の訳語ばかりのよ
うなのだ。巻末の「解説」に既訳の「問題点」が指摘されているが、そのほとんどは訳語に関することだ。鵜飼訳に関する批判はすでに引用したので、他の2人
の訳に関する批判を紹介しておこう。
松浦嘉一訳には、「主として氏が英文学者であったことに由来する政治学用語の訳の不適切性や、politicalとcivilを区別して後者を『市民
的』とする問題性が認められる……」(405ページ)という。伊藤宏之訳に関しては、「政治思想史家による『統治二論』の初めての本格的な業績」(405
ページ)だと評価しながら、「モノに対する所有権だけには還元しえない『プロパティ』概念の微妙さをその訳業に十分に反映させていない点、また、氏がロッ
クにおいてpoliticalの同義語として用いられたcivilをほぼ例外なく『市民的』と訳し」た点を批判している(406ページ)。
ジョン・ロックの政治や私有財産に関する思想を理解したいと思うとき、propertyやgovernment、politicalなどの言葉をヒント
にしようとするのは、ある程度までは当然だといえるだろう。だが、ここまで単語にばかりこだわるのは本末転倒ではないだろうか。言葉に何か神秘的な力があ
るかのように思っているようで、言霊信仰から抜け出せていないのではないかと感じる。言葉は移ろいやすい。だから単語についてはもっと柔軟に考えて、ロッ
クの思想を日本語で伝えることに力を注いだほうがいいのではないだろうか。そのためには、訳注や解説に頼る方法から脱却するべきだろう。
もうひとつ、不思議に思う点がある。ジョン・ロックは政治学用語を使って書いたのだろうか。そんなわけがないと思う。ロックは政治学者ではない。『人間
知性論』『教育論』『利子・貨幣論』などの著作で知られるように、言葉の真の意味での哲学者である。つまり、森羅万象について自分の頭で考えた人だ。そし
て、普通の言葉で読者に自分の考えを伝えようとした。政治学用語、哲学用語などを使っているわけではない。そういうロックの著作を、政治学用語で書かれて
いるかのように考えて、政治学用語を使って翻訳することに、そもそも無理があるのではないだろうか。加藤節の「新訳」を読むと、そう感じる。
お断りしておくが、これは、一般読者向けの翻訳という観点での感想である。加藤節はおそらく、そのような読者は想定していない。政治学や政治思想を専攻
する学生や、これらの分野の専門家を読者として想定しているはずである。そうであれば、翻訳という形態を選んだのが適切だったかどうか、疑問に思う。
たとえば、ジョン・ロックのこの本を原著で読む読者を想定して(伊藤宏之訳『全訳統治論』を読む読者でもいいが)、段落ごとに詳細な注釈と解説を記した
コメンタリーの形にした方がよかったのではないだろうか。これに似たものには、たとえば松下圭一著『ロック「市民政府論」を読む』(岩波書店)があるが、
書名が示すように、鵜飼信成訳『市民政府論』の読者向けであって、前編はほぼ無視されている。また、解説が中心で、注釈として役立つ部分はあまりない。加
藤節訳の『統治二論』のうち、訳注と解説を切り離して膨らませれば、はるかに役立つ本になるはずである。翻訳という形態は窮屈なので、加藤教授の学識を活
かしきれていないようで、残念でならない。
(2007年11月号)