翻訳批評
3年前の2005年に『星の王子さま』の 翻訳ブームが起こった。この年の1月に日本での著作権保護期間が切れて、岩波書店の内藤濯訳の独占権がなくなったからだ。 その年に10点近くの新訳があらわれ、翌年にもさらに10点近くが出版されている。読 者にとって、選択の幅が一気に広がったのだから、ありがたいことだ。
著作権は複雑怪奇だが、日本で は基本的に死後50年までが保護期間になっている。英米仏などの第2次世界大戦の連合国で出版され た書物ではこれに、いわゆる戦時加算の約11年半が加わる。ケインズは1946年4月になくなっているので、2007年終わりには日本での著作権保護期間が切れているはずである。もちろん、ケインズの著作 は『星の王子さま』とは違って、数百万部の大ベストセラーになる本ではないし、翻訳も容易ではないので、新訳がつぎつぎに登場する状況になるはずはない。 それでも、『一般理論』で塩野谷親子の独占権がなくなるので、新訳があらわれるのは予想されたことであった。『一般理論』は原著が1936年に発行されてからわず か5年 後の1941年に、東洋経済新報社から塩野谷九十九訳が出版され、1983年に同じ東洋経済新報社 から、『ケインズ全集第7巻』として、息子の塩野谷祐一の訳が出版されている(1995年にソフト・カバーの普 及版がでている)。70年近くにわたった塩野谷親子の独占権がようやく切れて、新しい訳がでてくる状況になった のだ。
それに、岩波文庫で間宮陽介訳 が出版されることは、前から分かっていた。準備は整っていて、著作権の保護期間が切れればすぐに出版されると、2006年5月に発行された伊東光晴著『現 代に生きるケインズ』(岩波新書)に書かれていたからだ。だから、2008年1月についに上巻が出版されたとき、待望の新訳があらわれたと喜んだ読者が多かったのでは ないかと思う(下巻は2008年3月に出版予定)。
間宮陽介訳が出版されたのは1月半ばだが、意外なことに入手
が難しく、実際に買えたのは1月末であった。すぐに読みはじめた。だが、期待が大きすぎたという面もあるだろうが、深
く失望することになった。塩野谷九十九訳と比較すればともかく、塩野谷祐一訳と比較した場合には、少なくとも翻訳のスタイルでは進歩がないし、翻訳の質と
いう点ではむしろ後退していると思えたからだ。いくつか、典型例をあげて説明していこう。
間宮訳には、第一篇第一章の第1センテンスですっかり失望する 結果になった。こう書かれていたからだ(なお、下線は引用者による)。
例1
私は本書を『雇用、利子および
貨幣の一般理論』と名づけた。一般という接頭辞に力点をおいてである。(間宮陽介訳『雇用,
利子および貨幣の一般理論』岩波文庫5ページ)[1]
間宮陽介は「訳者序文」で、こ の翻訳は「逐語訳」であり、ケインズの原文を「できるだけ平明な日本語」に換えることに苦心したと述べている。だが逐語訳は通常、翻訳調、学者訳などとも いわれ、「平明な日本語」とは矛盾するとみられている。この「接頭辞」という訳語をみると、間宮のいう「逐語訳」は、やはり翻訳調のことなのかと思わざる をえない[2]。塩野谷九十九訳、それを受け継いだ塩野谷祐一訳と変わらない翻訳スタイルを間宮は採用 している。後に触れるように、塩野谷訳の場合には、これが時代の要請にあっていたとみられる。だが、21世紀の新訳に相応しいスタイルだとは思えない。
翻訳のスタイルが変わらないの だから、翻訳の質を判断する際には、2つの点に重点をおくしかない。第1に、既訳の間違いを訂正できているか、第2に、既訳と比較して、新しい解 釈が示されているかである。そこで、既訳と違う点はどこなのかを中心に、読み進めていくことにした。比較したのは主に『ケインズ全集第7巻』の塩野谷祐一訳であり、必 要に応じて塩野谷九十九訳第3版(1960年)を参照した。既訳との違いは意外に少なく、そのなかで、この2点で既訳より前進したと思える 箇所は少ないようだった。逆に、後退したと思える箇所の方が多かった。
まずは比較的簡単な問題、andの処理を取り上げる。第六 章付論につぎの部分がある。
例2
間宮訳
塩野谷祐一訳
間宮訳と塩野谷祐一訳では「利 子率」の部分の解釈が違っている。一読すると、間宮訳ではこの部分の理解が難しく、塩野谷祐一訳の方が理解しやすいように思うが、その点は無視して、純粋 に英文解釈という点から考えてみよう。
原文は、A and B over Cという形になっている。このandが何と何を並列しているの かが問題である。英文法ではandは同一の形のものを結ぶのが原則なので、(A and B) over Cが 原則だ。それでは意味上、矛盾がある場合には、例外としてA and (B over C)と考える。塩野谷祐一は原則を採用し、間宮訳は 例外を採用したことになる。どちらが正しいかは通常、原文の「形」だけでは分からない。原文の「意味」から判断するしかない。だが、これを言い換えた表現 があれば、「形」から判断できる場合もある。
つぎの段落にも同様の表現があ り、やはり解釈が違っている。そのつぎの段落では、表現が少し違っているので、塩野谷祐一訳と間宮訳のどちらが正しいかを、原文の「形」だけから判断でき るようになっている。段落の全体をみてみよう。
例3
間宮訳
塩野谷祐一訳
ここでもandの並列について、間宮訳と 塩野谷祐一訳で解釈が違っている。
間宮訳
(its estimated replacement cost discounted at the
percentage rate of its interest)
and
(current supplementary costs to the prospective date
of ...)
塩野谷祐一訳
its estimated replacement cost discounted at the
percentage rate of
its (interest) and (current supplementary) costs
to the prospective date of ....
原文の「形」をみると、間宮訳 ではcostがなぜ複数形になっているか、説明がつかなくなる。上の原文でもそうだが、current supplementary costは一貫して単数形で使われているからだ。ここで複数形になっている理由は、interest costとcurrent supplementary costを並列しているから考えるのが普通だろう。また、interestになぜitsがついているのか、説明が つかない。「利子率」であればits rate of interestになるはずだ。さらに、current supplementary costになぜ冠詞がついていな いのかも、説明できない。上の原文でも他の箇所でも定冠詞がついており、ここに定冠詞がついていないのは、その前にitsがあるから、つまり、このandがits interest costとits current supplementary costを結ぶものであるからと 考えるのが自然である(もちろん、誤植か間違いという可能性はあるが)。
要するに、以上2つの例では塩野谷祐一が正し く、間宮陽介が間違っている可能性が高いといえよう[5]。間宮訳にはこれと同様に、andの解釈が塩野谷祐一訳と違っている箇所がいくつも目につく。たいていは塩野谷祐一が原則 を採用し、間宮訳は例外を採用したことによる違いであった。ここではそのうち、原文の「意味」を考えるまでもなく、「形」だけを手掛かりにすることができ る例を取り上げた。
つぎにとりあげるのは、間宮訳 では解読が不可能だと思われる箇所である。意外なことに、間宮訳にはこうした部分が少なからずあった。典型例を紹介しよう。第一二章のうち、資本市場の性 格を論じた有名な部分に、以下の注がついている。
例4
間宮訳
塩野谷祐一訳
それ以上の問題がある。塩野谷 祐一訳は原文のほぼ正確な逐語訳になっている。ところが間宮訳では、この原文からこの訳がなぜでてくるのか、理解に苦しむ。たとえば、「このような業務は ふつうは節度を旨とすると考えられているが」という訳がどうしてでてくるのか分からない。また、原文のtend toをどう解釈したか が分からない。
以上の例を取り上げたのは、じ つはこの注がついている段落の解釈に問題があると思えるからだ。長い段落なので、前半と最後を除いて紹介するが、それでもかなり長い。
例5
間宮訳
塩野谷祐一訳
もうひとつ指摘しておきたいの は、訳語の選択をめぐる問題である。間宮訳は既訳とそれほど違っているわけではなく、違っている点のうちいちばん多いのは訳語である。だから、訳語の選択 の問題は間宮訳の評価にあたって大きな要因になる。まずは第一五章の例をとりあげる。
例6
間宮訳
塩野谷祐一訳
翻訳を一種のフィードバックの 過程だと考えたとき、この段落はじつに面白い実例になるのではないかと思う。
こうしたフィードバックにはさ まざまな水準のものがあるが、この段落はそのうちもっとも簡単な訳語のレベルの好例だといえよう。ここで訳語が問題になるのはconventionだ。間宮は 『ケインズとハイエク』(ちくま学芸文庫)で、この言葉を中心にケインズ理論の再構築を試みたとしているので、どういう訳語を選択しているのか、興味をも つのは当然だといえる。
例7
間宮訳
個人の貯蓄行為は――いわば――今日は夕食をとることをやめようと決意することを意味 する。しかし、それは一週間後あるいは一年後に夕食をとるとか、一足の靴を買うとか、特定の日に特定のものを消費するという決意を必要にするものではない。したがって、それは今日の夕食の用意をするという仕事をへらすだけで、将来のなんらかの消費行為を準備するとい う仕事を刺激するものではない。貯蓄は現在の消費需要の代わりに将来の消費需要を選ぶということではない。――それは現在の消費需要の純粋な減少である。 そればかりでなく、将来消費の期待は現在消費の現行の経験に大きく依存しているから、後者の減退は前者をおそらく抑圧するで あろう。その結果、貯蓄行為は消費財の価格を押し下げ、現存資本の限界効率を無影響のままに残すというだけでなく、実際にはそれを減少させる傾向をもつで あろう。この場合には、貯蓄は現在の消費需要を減退させるとともに、現在の投資需要をも減退させることになる。(同上208ページ)
間宮訳を読むと、塩野谷訳に代 表される翻訳調の世界がいまだにいかに強い影響力をもっているか、あらためて印象づけられる。例としてあげた部分を読めば分かるように、間宮訳で使われて いる言葉や表現はほとんど、翻訳調の世界のものである。単語のレベルでいえば、上記の「経験」もそうだし、「利子率」や「期待」といった言葉も、翻訳調の 世界のものだ。
(2008年3月号)
[1] 例1原文
I have called this book the General Theory of Employment, Interest and Money, placing emphasis on the prefix general. (John Maynard Keynes, The General Theory of Employment, Interest and Money, Prometheus Books, p. 3)
[2] 「接頭辞」と書かれていよう がいまいが、ケインズの経済理論を理解するうえで妨げにはならないという意見もあろう。だが、同じ姿勢はたとえば、increaseという語の訳し 方にもあらわれる。この語は数量の増加にも、率の上昇にも使われるが、英和辞典にはなぜか、「増加、増大」といった訳語しかでていない。そこで、数量の場 合も率の場合もかまわず「増大」と訳すのが逐語訳である。この場合には、経済理論の理解を妨げることになりかねない。たとえば、間宮訳の60ページを参照。
[3] 例2原文
.... If, however, there is redundant equipment, then the user cost will also depend on the rate of interest and the current (i.e. re-estimated) supplementary cost over the period of time before the redundancy is expected to be absorbed through wastage, etc. (Op. cit., p. 70)
[4] 例3原文
In the same way the user cost of a ship or factory or machine, when these equipments are in redundant supply, is its estimated replacement cost discounted at the percentage rate of its interest and current supplementary costs to the prospective date of absorption of the redundancy. (Op. cit., p. 71)
[5] なお、塩野谷九十九訳は、例2では間宮訳と同じ解釈に、例3 では塩野谷祐一訳と同じ解釈になっている。この2つの箇所で矛盾があるように思える。そこで塩野谷祐一は例2を修正し、間宮は例3を修正したのだろう。
[6] 例4原文
1 The practice, usually considered prudent, by which an investment trust or an insurance office frequently calculates not only the income from its investment portfolio but also its capital valuation in the market, may also tend to direct too much attention to short-term fluctuations in the latter. (Op. cit., p. 157)
[7] 例5原文
.... Furthermore, an investor who proposes to ignore near-term market fluctuations needs greater resources for safety and must not operate on so large a scale, if at all, with borrowed money -- a further reason for the higher return from the pastime to a given stock of intelligence and resources. Finally it is the long-term investor, he who most promotes the public interest, who will in practice come in for most criticism, wherever investment funds are managed by committees or boards or banks.[1] For it is in the essence of his behaviour that he should be eccentric, unconventional and rash in the eyes of average opinion. (Op. cit., p. 157)
[8] 例6原文
It might be more accurate, perhaps, to say that the rate of interest is a highly conventional, rather than a highly psychological, phenomenon. For its actual value is largely governed by the prevailing view as to what its value is expected to be. Any level of interest which is accepted with sufficient conviction as likely to be durable will be durable; subject, of course, in a changing society to fluctuations for all kinds of reasons round the expected normal. In particular, when M1 is increasing faster than M, the rate of interest will rise, and vice versa. But it may fluctuate for decades about a level which is chronically too high for full employment; --particularly if it is the prevailing opinion that the rate of interest is self-adjusting, so that the level established by convention is thought to be rooted in objective grounds much stronger than convention, the failure of employment to attain an optimum level being in no way associated, in the minds either of the public or of authority, with the prevalence of an inappropriate range of rates of interest. (Op. cit., p. 203-204)
[9] 塩野谷祐一は「慣行」と訳し ているが、塩野谷九十九訳では「惰性」になっている。「惰性」はもちろん、一般的な訳語ではないが、捨てがたい魅力があるように思える。
[10] 例7原文
An act of individual saving means--so to speak--a decision not to have dinner to-day. But it does not necessitate a decision to have dinner or to buy a pair of boots a week hence or a year hence or to consume any specified thing at any specified date. Thus it depresses the business of preparing to-day's dinner without stimulating the business of making ready for some future act of consumption. It is not a substitution of future consumption-demand for present consumption-demand,--it is a net diminution of such demand. Moreover, the expectation of future consumption is so largely based on current experience of present consumption that a reduction in the latter is likely to depress the former, with the result that the act of saving will not merely depress the price of consumption-goods and leave the marginal efficiency of existing capital unaffected, but may actually tend to depress the latter also. In this event it may reduce present investment-demand as well as present consumption-demand.(Op. cit., p. 210)