古
典を読もう
山岡洋一
『国富論』の新訳を考える理由
経済学部の志願者の数が増えているという話を聞いた。入試がやさしいからだろうという自嘲ぎみの話だったが、そんなわけがないと思う。米国
では1930年代に経済学部がまともな学部として認知されるようになり、志願者が増えたという。理由は考えるまでもない。日本でいま、経済学を学びたいと
いう若者が増えているとしても、何の不思議もないはずだ。
何かがおかしい、たぶん経済にその根があるのだろうという感覚は、たぶん誰でももっている。だから経済に興味をもつ人が増えているはずだし、経済学を学
んでみようと思う人も増えているはずだ。経済書の読者も増えているはずである。少なくとも潜在的には。
何かがおかしい、先が読めない、足元がぐらついているようだ。いまほどそうした感覚が強い時期はそうそうあるものではないと思う。何とか現状を理解し、
突破口を見つけたい。そう考えるのが当然である。ではどうすればいいのか。
過去に同じように壁にぶつかった時期のことを考えてみると、基本に戻る動き、昔に戻る動きが突破口になって、前進できるようになる例が多いことに気づか
される。復古の動きが前進をもたらすのだ。古くは明治維新がそうだし、ルネサンスや宗教改革などもそうだ。もっと最近にも、1970年代にアメリカやイギ
リスがインフレと不況に苦しんでいたとき、突破口になったのは19世紀の経済学、いわゆる古典派経済学に戻る動きであった。こうして登場した新古典派が、
現在でも経済学の主流になっている。
昔に戻り基本に戻る方法で行き詰まりから抜け出せることが多いのだから、経済がどこかおかしくなっているように思える現在、経済学の基礎を築いたといわ
れ、古典中の古典と呼ばれている『国富論』を読んでみようと考えるのはごく自然である。200年以上も昔に書かれた本をいま読むことはないだろうと思える
かもしれないが、古典に戻る方法が遠道のようにみえて、じつはいちばんの近道なのではないかと思う。
古典のつねとして、誰でも名前は知っているが、ほとんどの人が読んだことがないのが『国富論』だともいえる。たぶん、『国富論』と聞くと、自由放任、神
の見えざる手、市場原理などの言葉がすぐに頭に浮かんでくるはずだ。だが、これらはある意味で、上述の新古典派の解釈を一般向けのスローガンに仕立て上げ
た結果である。実際に『国富論』を読めば、印象がまったく違うことに驚く人が多いはずだ。
翻訳者という立場上、ここで『国富論』をどう読むべきか講釈をたれようとは思わない。だが、ふたつの点だけを指摘しておきたい。第1に、『国富論』を読
むと、ものごとをどう考えていくべきか、ヒントが得られる。第2に、『国富論』は経済学の専門家向けにではなく、一般読者向けに書かれたものなので、経済
学の知識がなくても楽しく読める。
ものごとをどう考えるのか
意外に思われるだろうが、アダム・スミスは『国富論』でeconomyという言葉を使っていない。いやたしかに使っているという人もいるだろうが、それ
はスペルを現代式に修正した版で読んでいるからだ。スミス自身はoeconomyと書いている。「経済」ではなく「經濟」と書かれているようなものではな
いかと思われるかもしれないが、そうではない。スペルが違うだけでなく、意味も違う。たいていは、語源とされるoikonomiaやoikonomosに
近い「家計」「倹約、節約」の意味で使われている。第4編を中心にpolitical
oeconomyが何度か使われていて、この場合だけは明治の翻訳家が「経済」という訳語を作る際の語源になった「経世済民」に近い意味になる。
この本の性格を知りたければ、oeconomyがどのような頻度で使われているかもみてみるべきだろう。1000ページ近い経済書なのだから、数千回使
われていても不思議ではないはずだ。だが調べたかぎりでは、約38万語の『国富論』全文で、oeconomyは31回しか使われていない。うち
political
oeconomyが18回である。1000ページ近くで31回、総語数に対する比率でみると0.008%、約12,000語に1語の割合である。だから意
外や意外、アダム・スミスは「経済」について論じているわけではないとも言えるのだ(ちなみに、「神の見えざる手」は一度しか使われていないし、「自由放
任」はたぶん一度も使われていない。「市場原理」もでてこないし、marketなら数えきれないほど使われているが、たいていは抽象的な「しじょう」より
も具体的な「いちば」に近い意味で使われている)。
では、何について論じているのか。翻訳という仕事をしており、物書きの端くれともいえるので、たとえばこういう記述が印象的だ。スミスによれば、文人や
物書きはたいてい、公費で教育を受けたのに何らかの理由で聖職につけなかった人で、人数が多いのでみな貧乏であり、印刷技術の発明で本を書く仕事ができる
以前には、乞食とほとんど変わらなかったというのだ。
これにかぎらず、『国富論』には世の中の現実についての記述がきわめて多い。たとえばこの物書きの話は第1編第10章にでてくるが、この章は職業総覧と
いえるほど、各種の職業についてくわしく取り上げている。こうした話がどの章にも大量にでてくるので、アダム・スミスの関心は経済学にも経済にもなく、
「世の中」にあったのではないかと思えてくる。世の中の現実から出発し、いまの言葉でいえば「経済」を切り口に、世の中の仕組みを解きあかそうとしたのが
『国富論』ではないかと思えるのだ。
アダム・スミスが取り上げている現実はもちろん、18世紀後半までの世の中の現実だから、いまの日本の読者にとってかならずしもピンとくるものばかりで
はない。上述の物書きの話でいえば、「聖職」という言葉がそうだ。だが、この言葉を「定職」と読みかえれば、たったいまの現実を語っているように思えて、
思わず苦笑するのではないだろうか。
スミスが関心をもったのが「世の中」の現実だといっても、『国富論』はいうまでもなく、現実を紹介しただけの本ではない。現実を現実としてみていって
も、世の中の仕組みは分からない。だから、現実から出発して抽象的な理論を精緻に組み立てて、世の中の仕組みを解きあかしていく。そして、それ以前にあっ
た考え方、とくに金が大切だとする考え方を根底から批判する。だからこそ、『国富論』は古典中の古典と呼ばれているのだ。
この本に描かれた現実を自分の身の回りにある現実にあてはめて考えていき、抽象的な理論がどのように組み立てられ、応用されているかをみていけば、もの
ごとを考えるとはこういうことなのかと感動するはずだ。ものごとの考え方を学ぶ、これがたぶん古典を読む最大の理由だろう。古典を読んでいれば、さまざま
な論者がいまの経済について論じているのを読んだとき、本物と偽物を見分ける目が養われるはずだ。
はったりもこけおどしもない
そしてありがたいことに、『国富論』は経済学の専門家に向けて書かれたわけではない。世の中の現実に関心をもち、世の中の仕組みを知りたいと考える読者向
けに書かれているのだ。経済学は『国富論』からはじまったといわれているのだから、ある意味ではこれは当然でもある。『国富論』以前にも経済について論じ
た本はあるが、経済学が専門分野として確立していたわけではない。だから、経済学の専門家という読者層はなかった。
といっても、『国富論』が簡単に読めるとか、やさしくて分かりやすいとかいいたいわけでない。世の中の現実から出発して、世の中の仕組みを明らかにするた
めに抽象的な理論を精緻に組み立てているのだから、やさしくて分かりやすいはずがない。スミスが「忍耐強く、注意深く読むよう」読者に求めているほどだ。
それに、原文で1000ページ近く、訳書では文庫本で3〜5冊にもなるほど長い。だが、長くて難しいのは、世の中の仕組みが簡単には理解できないほど難し
いからだ。
本を読んで難しいと感じるとき、たいていは難しく書いてあるから難しいのである。つまり、一般の読者には理解できない専門用語を使い、もっと簡単に説明
できることをわざわざ複雑に書いてある。はったり、こけおどし、目くらまし。これらを駆使しているから難しいのだ。
だが、スミスはそういう方法をとらない。何のけれんみもなく、ごく普通の言葉を使って、ごく普通に書く。書くというより、説明するという印象すら受け
る。原文を読むと、スミスが目に前にいて、とくに専門知識があるわけではない聴衆に向けて、世の中の仕組みを丁寧に説明してくれているように感じる。スミ
スは書いたのではなく、講義をしたのだと思えてくる。だから、難しい本なのに楽しく読める。
既訳はいくつもあるが
これほどの本だから、もちろん、既訳は何種類もある。古くは明治時代に出版された石川暎作訳『冨國論』があるようだが、まだ入手できていない。大正以降
に出版された竹内謙二訳をはじめ、ごく最近に出版された水田洋・杉山忠平訳まで、8種類の訳は入手できた。これらの既訳については、これまでに何度も取り
上げてきたので、ここで改めて論じようとは思わない。だが、いくつかの要点だけには触れておきたい。
どの分野のものでも、古典の翻訳は積み重ねによって成り立っている。つまり、先人の翻訳を学び、その良い点をとりいれ、悪い点を改良して新しい訳が生ま
れる。したがって、普通ならもっとも新しい訳がもっともすぐれていると考えてまず間違いないはずである。
そこで、『国富論』を読むのなら、2000年に出版された最新の水田洋・杉山忠平訳(岩波文庫)を読もうと考えるのが普通だろう。ほぼ四半世紀ぶりの新
訳なので、それ以前の訳にあった問題点を解決した決定版になっていると期待するのが当然だからだ。だが、そう思って水田・杉山訳を読んで失望した。既訳の
問題点を解決するどころか、何倍にも濃縮したような訳だと思えたからだ。
おそらく最大の問題は、ごく普通の言葉を使って、ごく普通に書かれている『国富論』を、専門分野の翻訳に使われる一対一対応型の方法で訳したことだろ
う。スミスは一語を一義に用いてはいないし、一義を一語で表現してもいない。ごく普通の英文でみられるように、一語をいくつもの意味で使い、一義をいくつ
もの語で言い換えていく方法をとっている。これを一語一義、一義一語の原則を想定して訳していくと、英文和訳の回答のような文章ができあがる。読者には意
味が伝わらなくなる。
要するに、『国富論』の翻訳では積み重ねで質が高まるどころか、逆に低下してきたようなのだ。ではどうすればいいのか。こういう問題にぶつかったとき
は、基本に戻り、昔に戻るのがいちばんだ。そこで既訳を調べていくと、昭和2年発行の氣賀勘重訳『國富論上巻』が素晴らしい訳であることに気づく。氣賀訳
については『翻訳通信』2003年6月号で詳しく紹介した。何よりも「原文の意義を可及的明瞭に邦人に傳へんとする」姿勢が名訳を生み出す原動力になって
いると思う。ただし、旧字旧仮名の文語体で訳されていて、簡単に読める本ではない。
翻訳の歴史が長い本、たとえば『聖書』がどのように訳されてきたかをみてみるのもいい方法だろう。『旧約聖書』はヘブライ語で、『新約聖書』はギリシャ
語で、どちらも当時の庶民が理解できるように書かれていたはずだ。ローマ時代にラテン語に訳されたが、これも当時の信者が理解できる言葉であったはずだ。
中世になると、ラテン語は庶民の言葉ではなくなり、専門の教育を受けた聖職者だけが理解できる言葉になった。そして宗教改革の時代に、ドイツ語、英語な
ど、庶民の言葉で訳されるようになった。
日本では『国富論』にかぎらずたいていの古典が、一対一対応型の翻訳のために作られた人工言語ともいえる言葉で訳されてきた。翻訳調は普通の日本語とは
違うので、特別な学習をしなければ読めない。中世のヨーロッパで使われていたラテン語のようなものだと思えばいい。宗教改革の際に『聖書』が庶民の言葉で
訳されるようになったのと同様に、いまの日本でも、古典をごく普通の言葉でごく普通に訳すことが求められているはずだと思う。
閉塞感が強まっている現状では、基本に戻り、昔に戻るためにさまざまな古典を読んでみるのがよい方法になりうる。だから読むべきは『国富論』だけではな
い。古今東西に書かれた多種多様な古典がもっと読まれるようになっても不思議ではない。だが、たいていの古典が一対一対応型の翻訳調で訳されている現状で
は、古典など読めたものではないと考えるのも当然であり、健全な感覚だといえるはずである。だからいま、基本に戻り昔に戻って翻訳をやりなおすべきなの
だ。すでに長谷川宏訳のヘーゲルなど、そのような新訳が登場してきている。この流れをもっともっと大きくしていくべきだと思う。
それはともかく『国富論』に関していうなら、現在入手できる翻訳では時代の要請に合わないことがはっきりしているように思う。これだけの名著にまともな
翻訳がないのは不幸なことだ。だれも取り組まないのであれば、『国富論』を訳してみようと、大それたことを考えている。
(2003年9月号)