翻訳批評

訳注という厄介物

山岡洋一

  昔の翻訳書を読むと、割注と呼ばれる訳注が文中に挿入されていることが多い。1行を2つに割って小さな字で注釈をつけるから割注という。たとえば「セントラル・パーク」に「ニューヨーク市マンハッタン島の中央にある有名な公園」といった注がついていたりする。たいていはあらずもがなの蘊蓄であり、たまに知らない言葉や事柄がでてくると、多くて数十字の割注を読んでもさっぱり分からないということになる。

 最近は割注の小さな字が嫌われるようで、訳注として巻末や段落の末につける方法をとるのが通常になっている。このため、字数の制約がなくなったわけだが、それでも性格が変わるわけではない。たいていは不要かそうでなければ役立たずであり、読書の妨げになるだけで、何の益もない。割注にしろ訳注にしろ、ないのがいちばんだと思う。

 またまた『国富論』かと思われるかもしれないが、水田洋監訳・杉山忠平訳の『国富論』(岩波文庫)から、厄介な訳注の例をあげてみよう。

 この訳書は2000年5月に第1編の第1刷が刊行された。「凡例」によると、訳者が前年に死去したため、水田洋が監訳者として訳稿の点検や訳注の作成を行ったという。奇妙なことだが、わずか2年後の2002年4月には全面的に改訂した第2刷が刊行されている。以下では第2刷を使っている。何十年も前に刊行されたものではなく、21世紀に入ってから新訳として刊行されたものであることを指摘しておきたい。

『誤訳』のトラウマ
 水田・杉山訳の第1編第5章に以下のような訳文と訳注がある。
 

……銅貨は現在でも、少額の銀貨にたいするつり銭のばあい以外は(1)、法貨ではない。……
(1) 銀貨の金額にたっしないかぎりの銅貨は、法貨であるということ。(79ページ)


 じつに奇妙ではないだろうか。「少額の銀貨にたいするつり銭」という訳文が正しければ、「銀貨の金額にたっしないかぎりの銅貨」という訳注は間違いだし、訳注が正しければ、訳文は間違っているのだから。

 なんとも分かりにくいと思われるかもしれないが、銀貨を紙幣(1000円札)に置き換え、銅貨を硬貨(500円硬貨、100円硬貨など)に置き換えると、なんのことはないと思えるはずだ。もうひとつ、「法貨」の意味を確認しておこう。これは「強制通用力を法律上与えられている通貨」(『有斐閣法律用語辞典』)であり、要するに、それで支払う人がいたとき、支払いを受ける側が拒否できないお金である。逆の場合、つまり「法貨ではない」のがどういうときかを考えてみる方が分かりやすいだろう。たとえば、1万円の商品を売ったとき、1円玉で支払われたのでは面倒でかなわないと思うのは当然だ。だから、商店の側は紙幣で払ってくださいという権利が法律上認められている。正確には、硬貨が法貨として通用するのは「額面の二十倍まで」である(『有斐閣法律用語辞典』)。

 以上を前提に訳文と訳注の意味を考えると、こうなる。訳文に従うなら、たとえば400円の買い物をするとき、1000円札で払うと、500円玉1個と100円玉1個の釣銭をだされる。これは法貨だから、客は拒否できない。ところがある。400円の買い物に100円玉を4個だすと、店の側は拒否できる。なぜなら、硬貨は「紙幣にたいするつり銭のばあい以外は、法貨ではない」からだ。これが訳文の意味だ。

 ところが、訳注には違うことが書いてある。「紙幣の金額にたっしないかぎりの硬貨は、法貨である」。紙幣がある1000円に達しないかぎり、つまり999円までの支払いには、硬貨が使える。400円のものを買うときは100円玉を4個だせばいい。これが訳注の意味だ。

 こう考えると、訳文の「少額の銀貨にたいするつり銭」が間違いであることはまず確かだと思える。釣銭として使えるが、支払いに使えないのでは通貨にならない。だから、はじめから訳注のように訳すのが正解のはずなのだ。ところが水田洋はそうはできなかった。そうはできなかったが、いくらなんでもこの訳文ではおかしいことに気づいていた。だから、訳注で補足する方法をとったのだろう。そう考えなければ、訳文と訳注の矛盾を説明できない。

 問題はなぜ、はじめから訳注のように訳せなかったのかだ。その理由はかなりはっきりしている。水田洋は原著初版の抜粋訳について、竹内謙二の『誤訳?大学教授の頭の程』(有紀書房、1964年)でこの部分を誤訳だと指摘された。さらに、原著初版の全訳を刊行した後、別宮貞徳の「欠陥翻訳時評」で同じ部分を取り上げられて論争になった(別宮貞徳著『翻訳と批評』講談社学術文庫を参照)。竹内の『誤訳』によれば、ここで原文にあるchangeを「釣銭」と訳したのは水田洋だけである。このような経緯があるので、ここで「釣銭」以外の訳語を使えば誤りを認めることになる。だから「釣銭」にし、訳注をつけた。これがおそらく、はじめから訳注のように訳せなかった理由なのだろう。

 それにしても馬鹿げていないだろうか。訳注のように解釈するのであれば、「銅貨は現在でも、少額の銀貨に満たない小銭のばあい以外は、法貨ではない」とすればいい。「小銭」という訳語はたいていの辞書のchangeの項にある。それに竹内謙二は「両替」という訳語をあてており、「釣銭」と変わらぬほど奇妙だと思えるので、「小銭」なら竹内に屈伏したことにはならない。なぜ、「釣銭」にこだわるのだろうか。

 それはともかく、ごく普通に考えれば、訳文で間違った(少なくとも不適切な)言葉を使い、訳注で意味を説明するというのは、何とも不親切な方法ではないだろうか。訳注などはやめにして、はじめから意味が通じる訳文を書いてほしいというのは、無理な注文なのだろうか。

蘊蓄を傾けるのなら……
 第1編第8章にはもっと奇妙な訳注がある。139ページの訳文に「チャールズ二世の時代に本を書いた高等法院長ヘイルズは(3)」とあり、141ページの訳注にこう書かれている。
 

(3) ヘイルズはヘイル(Matthew Hale, 1609-76)の誤記。ヘイルは革命期からチャールズ二世時代にかけての裁判官で、スミスが言及しているのは、Discourse touching provision for the poor, London, 1683である。


 ここには奇妙な点がふたつある。第1に、イギリスの高等法院は19世紀に設立されたものなので、時代があわない。原文にあるChief Justiceは当時、Chief Justice of the King's Bench(王座裁判所首席裁判官)であった。

 第2はもっと深刻な問題だ。ヘイルは有名な法律家だし、原文にあるHalesが誤植であることははるか昔から指摘されてきたことなので、ここであらためて指摘する意味はない。誤植だと分かっているのだから、訳文では「ヘイル」か「ヘール」と表記するのが当然ではないだろうか。ところが水田洋は本文に「ヘイルズ」と書いて、訳注で間違いを指摘する方法をとった。

 自分が原著者だと想定して、どう思うかを考えてみると、怒るか不快になるか、赤面して原文の訂正をお願いするかは分からないが、水田・杉山訳の方法だけはとらないよう求めるはずである。つぎに読者としてこの部分を読んでどう思うかというと、まったく不要な訳注だと感じる。本文が正しく書かれていればいい。どうしても訳注が必要だというのなら、訳文は「ヘイル」にして、訳注には「原文にあるHalesは誤植であり、正しくはHale」と書いてほしかった。

 だが、なぜこのような訳注が必要なのだろう。思いつくのは2つの点である。ひとつは、蘊蓄を傾けたいという欲求が訳者にあったというものだ。そうかもしれないし、そうではないのかもしれない。

 もうひとつは、読者が原著を読むものと想定しているというものだ。読者は原著を正面において読むはずであり、訳書を横において参考にしているはずだと想定しているのだ。その場合でも、上述のように訳文では「ヘイル」にして、訳注で誤植を指摘するのがせいぜいだとは思うが、それ以上に重要な点として、そのような読者はいるはずがないと指摘しておきたい。研究者なら、訳書なぞに頼らす、原著を読むべきだし、研究者以外の読者なら原著か訳書かどちらか一方しか読まないはずである。翻訳は訳書だけで読もうとする読者のために行うべきだ。そうした読者にとって、この訳注はまったく余分だとしかいえないはずだ。

訳注は不要
 以前に指摘したことがあるが、たぶん最悪の訳注は、原文の洒落や地口を解説するものだろう。小説の学者訳にはこのような訳注があることが少なくない。それこそ洒落にならないやり方であり、それを読んだだけで白けて本を放り投げたくなる。お勉強でも研究でもなく、楽しみのために読んでいるのだから。

『国富論』の訳注はそこまで極端ではない。だが、読書の途中に余分な注釈を読まされるのはかなわない。無視すればいいのだが、それ以前に訳注が不要になるように訳してほしいと思う。

(2003年3月号)