エッセイ 言葉の裏側
津森優子
翻訳
できない言葉こそおもしろい
どうしても翻訳しきれない言葉というのがある。その言葉の背景にある精神が根づいていないため、しっくりと対応するフレーズが見つからない
のだ。
最近、英語に訳せない日本語として有名になったのが「もったいない」である。ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんが、まちがって調合した試料をそのま
ま捨てるのはもったいないと思って実験を続けたところ、それが受賞研究につながったというエピソードがある。田中さんは海外向けの英文スピーチを書いてい
て、「もったいない」の訳に苦労したという。
試しに和英辞典を引いてみると、What a
waste.と出ている。「なんて無駄な」。似ているけどちがう。「捨てるのは惜しい」という意味を出すとしたら、It’s a shame to
waste
this.くらいだろうか。ひとことではすまなくなってくる。「もっといい使い道があるんじゃないか」「まだ役に立つんじゃないか」という、「もったいな
い」の持つポジティブであたたかいニュアンスまで出すのは難しい。
このエピソードがきっかけとなったのか、環境問題を考えるキーワードとして、「もったいない」が注目されている。ゴミの減量、リサイクルをうながす素晴
らしい言葉として、ノーベル平和賞を受賞したケニアの副環境相ワンガリ・マータイさんを中心に、MOTTAINAIを世界に広げようという動きが出てきて
いる。定着するかどうかはわからないが、こうした精神をひとことで表現し、日常的に使っている人々がいるということを、多くの人に知ってもらうのは有意義
なことだと思う。
ふだん英語の文章に接していて、これは翻訳しきれないけれど、その精神は取り入れたいと思う言葉に出会うことがある。ここでは、そんな言葉を二つ紹介し
よう。
ひとつめは、もともと英語ではなくハワイ語だけれど、aloha。これは世界で最も美しい言葉なのではないかと思う。「こんにちは」「さようなら」など
の挨拶のほか、「愛」という意味でも使われるこの言葉は、興味深いなりたちをしている。
aloは「分かち合う」「目の前の」という意味で、haは「呼吸」「命の息吹」という意味。alohaで「呼吸を合わせる」「目の前の命を尊重する」と
いった意味になる。ハワイの人たちがaloha spiritと言うときには、この精神を指している。他者を敬って受け入れ、調和していこうという精神。
こうした精神は、もともとは日本にも根づいていたのではないか。でも悲しいかな、カタカナの「アロハ」からは、その精神はほとんど感じられない。もっと
ハワイの文化が広く知れわたれば、事情も変わってくるのだろうけれど。
この美しい精神をいまの日本に取り入れるには、美しいと言われる日本語の挨拶「おはよう」や「さようなら」を口にするときに、ひそかにaloha
spiritをこめてみるといいかもしれない。
もうひとつの言葉は、count one’s
blessings。これは、あまり耳慣れない言葉かもしれない。直訳するなら「恵みを数える」。いいときではなく、悪いときに使う言葉だ。つらいことが
あって、嫌なことばかり考えていると、なかなか立ち直れない。必要以上に落ちこみかねない。そんなとき、あえて自分の恵まれている点を思い返して、苦境を
乗りきろうというわけだ。
たとえば信頼していた友人に裏切られたとき。ショックだけれど、私は健康だし、信頼できる家族がいるし、ほかに友人もいる。恵まれているじゃないか、と
思って自分をなぐさめる。こういう精神を持ち合わせていれば、思いつめて早まった行動を起こさないですみそうだ。
いい言葉なのだが、これがまた訳しにくい。「自分の恵まれているところを思い返す」。ずいぶん冗長になってしまう。ここはぜひ、ひとことですむ「恵みを
数える」を流行らせたいものだ。話題の小説かドラマにでも使ってもらって……というのは無理だろうから、せめてこれを読んでいるみなさん、今度つらいこと
があったら「恵みを数えて」みてください。
2005年8月号