言葉の周辺
山岡洋一 

モラル・ハザード再考

「震災の不条理に原子力施設の事故が加わると、もうこれは人間の耐えられる限度を超えて いくだろう。原子力の問題が難しいのは大事故を起こしたら終わりだからですよ」高村薫(新潟日報社特別取材班著『原発と地震 ―柏崎刈羽「震度7」の警告』講談社、209ページ)

 高村薫がこう述べたのは数年前 だ。20077月の中越沖地震のとき、東京電力の柏崎刈羽原発で火災が発生し、動いていた原発4基がすべて止まった。その数か 月後の発言である。

 現状はまさにそういう状況に なっているというのが、大方の見方ではないかと思う。これだけの事故を起こしたのだから終わりだと。しかし、そうではないという見方もあるようだ。「ただ ちに」健康被害がでるような状況にはなっていないのだから、「大事故」ではないということのようだ。そして、原発がなければ電力供給が不足し、現在の生活 水準を維持できなくなると主張されている。原発事故で生活の基盤を根こそぎ破壊された人がたくさんいるというのに、こう主張されているのである。

 原子力はもうダメだというのは 素人さんの意見であって、技術を後退させることはできないとも主張されている。事故を防ぐ技術を発達させるしかないのだという。科学技術に関する一般論と してはその通りなのだろうが、原発技術という具体論にこの論理が適用できるとする理由を示さないかぎり、笑うべき暴論にしかならない。多数の技術のなかか ら取捨選択を行うのは当然であって、原発技術を選ばなければならない理由がはたしてあるのだろうか。

 これにかぎらず、東電をはじめ とする電力業界の主張には素人には理解しにくい点がたくさんある。そして、東電の行動には理解しにくい点がもっと多い。とくに理解しがたいのは、とった行 動ではなく、とらなかった行動だ。原発施設の中と外に分けてみていくことにしよう。

 原発施設内では、事故防止のた めにとるべきだったのにとらなかった行動がいくつもある。たとえば、今回の津波の規模は想定外だったと主張するが、想定を設けたのは50年ほど前だ。その後に想定の 甘さを指摘されても見直さなかった。全電源喪失と炉心溶融の可能性を指摘されても、動かなかった。利害関係のない研究者から指摘を受けても、誰よりも事故 防止に積極的なはずの東電が動かなかったのである。地震と津浪に襲われた後の初動対応に問題があったというが、それ以前にとるべき行動をとらなかったこと の方が不思議ではないだろうか。

 原発施設外では、事故後に被害 の拡大を防ぐための行動をあまりとらなかったようだ。この点は、自宅か自分が経営する企業の施設で事故が起こり、周辺住民が避難を強いられたときに何をす るかを考えてみるとよく分かる。避難先に駆けつけて、できることは何でもしようとするのではないだろうか。報道をみるかぎり、東電はごく常識的な対応を 怠ったようだ。東電の社員が駆けつけて、炊き出しをしただろうか。保養所や社宅、社員寮などを提供しただろうか。社有地に仮設住宅を建設しただろうか。避 難区域内の家畜やペットの世話をしただろうか。校庭や公園で子どもたちが安心して遊べるように最善の措置をとっただろうか。そうした点はすべて政府と地方 自治体が対応するはずだと考えて、他人事のような姿勢をとっているというのが、現実ではないだろうか(マスコミがそれほど報じていないだけという可能性は ゼロではないが)。

 要するに、東電は事故の発生確 率を引き下げ、事故後に被害の拡大を抑える行動をとる責任を果たしてこなかったようなのだ。そうであれば、東電バッシングが起こるのは当然であり、メディ アの報道は不十分だとすら思える。問題は東電がとるべき行動をとらなかったとすればなぜなのか、再発を防ぐために何をすべきかである。この点を考えるとき に「モラル・ハザード」の概念が参考になる。

モラ ル・ハザードは「倫理観の欠如」ではない
 モラル・ハザードという言葉は金融危機のたびにメディアに登場している。危 機の原因になる行動を理解し、再発防止策を考えるうえで有益な概念を示す言葉だからだが、誤解と誤訳を繰り返してきた言葉でもある。通常は「倫理観の欠 如」などと訳されているが、これは間違いであり、概念の本質を見失うことになりかねない。この点については「翻訳通信」20035月号 2期第12号)で指摘したが、今回の原発事故を理解するうえでも役立つ概念だと思うので、再度とり あげることにしよう。

 モラル・ハザードは本来、physical hazard(実体的危険)と対比される保険用語である。火災 保険を例にとれば、ある建物で火災が起こる可能性はつねにある(これをphysical hazardという)。だから保険を掛けるのだが、その結果、 所有者の損得勘定が変わり、火災を防ぐ努力や火災が発生したときに被害の拡大を防ぐ努力を怠ることになりうる。保険があることで、火災が発生する確率と被 害が大きくなる確率が高まるのである。これを保険用語ではmoral hazardと呼ぶ。要するに、保険を提供する側からみたときに、どこに危険があるかを示す言葉なの である。

 金融危機のときにモラル・ハ ザードが問題になるのは、政府が銀行に預金保険を提供しているからであり、「大きすぎて潰せない」金融機関に対しては、預金保険の枠を超えて政府が救済に 乗り出すはずだとみられているからである。政府が(最終的には国民が)金融機関に保険を提供しており、その結果、金融機関は経営破綻を防ぐ努力を怠り、高 リスクの取引で利益を増やそうとする危険がある。これがモラル・ハザードである。金融機関経営者の「倫理観の欠如」を非難する言葉ではなく、ハイリスク・ ハイリターンの追求を促す仕組みを表す言葉である。
 

 この概念を使って原発事故に対 する東電の対応をみていくと、上述の疑問が解けるのではないだろうか。原発事故の損害賠償については原子力損害賠償法という法律で、事業者(つまり東電) が責任を負うことになっているのだが、「異常に巨大な天災地変」で事故が起こった場合には事業者は賠償責任を免除され、政府が保険を引き受ける仕組みに なっている。そのうえ、東電はまさに「大きすぎて潰せない」とみられているので、大手金融機関と同じく、事故が起これば政府が何とかしてくれる考えるよう 促す仕組みが二重に作られていたといえるはずである。このため、事故の防止に真剣に取り組もうとはしなくなるし、事故が起こったときも他人事のような対応 になる。こういう見方を生み出す仕組みがモラル・ハザードである。

 事故の直後に今回の地震と津波 が「想定外」だったと東電が強調した理由も、以上の点を考えればよく理解できるはずだ。技術の観点からの発言ではなく、法律と経営の観点からの発言だった はずである。つまり、今回の事故は「異常に巨大な天災地変」によるものだから、免責されるべきだという主張だと考えるべきだろう。損害賠償は政府の責任で あって、東電の責任ではないというわけだ。この見方からすれば、東電の社員が避難所に駆けつけて被害の拡大を抑えるためにできるかぎりのことを行う理由な どないといえる。保養所や社宅を提供する理由もない。東電は当事者ではない。すべて政府の責任なのだから。

 だが、今回の原発事故では、モ ラル・ハザードは東電だけに止まらなかったようにも思える。東電の思惑通り、政府が保険を引き受けていれば、今後は政府が当事者になり、原発の安全性を確 保するために全力をつくすはずだと安心できたかもしれない。ところが、政府はそういう姿勢をとっていないようなのだ。東電の免責を認めるのは、「国民感情 から許されない」と判断し、原子力損害賠償法の規定はともかく、東電に損害賠償の責任を負わせることにしたからだ。個人的な感情では、たしかに東電に免責 を認めるなどとんでもないと思う。しかし、日本は法治国家なのだから、法律にしたがって方針を決めていくべきだとも思う。悪法も法なのだから、法律上の議 論がないまま、「国民感情」で方針を決めるのはとても危険なことだとも思う。法律上、東電が賠償責任を負うというのは正しい判断なのか。法律については疎 いので、この点はよく分からない。だが、ここで指摘したいのは、東電につづいて、政府も事実上、当事者としての責任を回避したことである。東電も政府も、 最終的な責任は自分にはないと考えているようなのだ。

 二重のモラル・ハザードだとも いえる状態。こういうことが許される仕組みを変えなければ、原発事故は再発しうる。そのときの原因は津波だとは限らない。
(2011年6月号)