仁木めぐみ
本格ミステリと翻訳の賞味期限
はじめまして。仁木めぐみと申します。「翻訳通信」の主宰者山岡洋一さんから「翻訳」と「ミステリ」をキーワードに何か書いてもいいとお許しをいただき、だいたい10回の予定で大好きな海外ミステリについて書かせていただくことになりました。格調高い「翻訳通信」の中では異色のコーナーになってしまいますが、ミステリはエンターテインメントですので、肩のこらない、気軽に読んでいただけるコーナーを目指していきたいと思います。
ミステリと一口に言ってもいろいろなジャンルがあります。私は一般に「本格ミステリ」と呼ばれているジャンルで、少し古めのものが好きです。本格ミステリ(英語ではpuzzler)とはいったいどんなミステリかというと、謎解きを中心にした小説で、事件を推理し解決する探偵役となる人物が、結末近くで関係者一同を集めて自分の推理を発表する、というのが古典的なパターンです(「名探偵みなを集めてさてと云い」という川柳もあるくらいです)。ミステリの元祖と言われるエドガー・アラン・ポーからシャーロック・ホームズ、アガサ・クリスティにエラリー・クイーン、新しいところではコリン・デクスターやピーター・ラヴゼイなども本格ミステリの作家です。
本格ミステリの黄金期と呼ばれる第一次大戦から第二次大戦の間、イギリスとアメリカを中心に、まさに百花繚乱という感じで、次々と本格ミステリが発表されました。専業のミステリ作家ではない人物が書いた傑作も多く、大学の英文学の教授であるマイケル・イネスや、あの『くまのプーさん』の作者A.A.ミルン(余談ですが、『くまのパディントン』の作者マイケル・ボンドもミステリを書いています)、イギリスの桂冠詩人セシル・デイ・ルイス(ミステリ作家としての名前はニコラス・ブレイクで、俳優ダニエル・デイ・ルイスの父親でもあります)などもミステリ作品を残しています。
こうした本格ミステリ黄金期の作品群は第二次大戦後に大量に日本に紹介されました。あの少年探偵団の生みの親、江戸川乱歩も評論活動を通して、海外ミステリの紹介に尽力しています。「古典的名作」がミステリの全集や文庫などまとまった形で刊行された時代です。
その後ハードボイルドや社会派といった新しい形のミステリに押され、一時本格ミステリがかえりみられない暗黒時代がありました。この時期に、今まで刊行された黄金期の名作の翻訳本の多くが絶版などで入手困難になってしまいました。私事で恐縮ですが、私が大人の本を読める年齢になったのはちょうどこの時期で、右をむいても左をむいても「幻の名作」だらけの絶望的な世の中でした。
しかし時代はまた変わりました。国内ミステリで新本格のミステリが隆盛するのと呼応するかのように、海外の古いミステリも振り向かれるようになりました。各社から次々と黄金期のミステリの復刊や新訳が出るようになりましたし、未訳作品の発掘も盛んです。本当に喜ばしい限りです。
では今、翻訳ミステリ界に問題はないのかというと、私はいわゆる賞味期限の問題があると思います。ミステリの場合、なんといっても娯楽作品ですから、これは大きな問題です。気軽に楽しんで読むはずのミステリが、訳のせいでひどく難解になってしまっていたりします。原文である英語は日本語ほど変化していないので、英語圏の読者が感じない違和感を日本の読者が感じることになってしまっているのです。ミステリに限らずエンターテインメントは知識を得るために読む本ではありません。読んでいる間のひとときの時間を楽しむための本です。どれだけドキドキ、ワクワク、そして時に悲しく(ミステリの場合はびっくりも)させてくれるかというのが一番大事なところです。だから文体や雰囲気に違和感があるというのは、とても問題なのです。
実例として長らく幻の名作であったドロシー・L・セイヤーズの『ナイン・テイラーズ』の一部を引用させていただきます。この作品はイギリスミステリの四大女流作家の一人セイヤーズの代表作といってもいい作品で、イギリスの小村の情景を鳴鐘術(いわゆる日本の鐘つきとは全然違います)の薀蓄[うんちく]とからめていきいきと描いた傑作です。
またまた私事で恐縮ですが、この本は長い間私にとってメアリー・ロバーツ・ラインハートの『螺旋階段』と並んで、「幻の名作」の代表格でした。昭和33年(1958年)に平井呈一訳(東京創元社世界推理小説全集36)が出て、その後絶版になっていましたが、98年に浅羽莢子訳(東京創元社創元推理文庫)、99年に門野集訳(集英社集英社文庫)があいついで出ました。まったく、いい時代になりました。
「ナイン・テイラーズ」のあらすじというかさわりを紹介させていただくと、難事件を解決するのが趣味のピーター・ウィムジイ卿は従僕のバンターとともに自動車で走っている途中、小村フェンの近くで吹雪の中で車が故障し、立ち往生してしまいます。助けを求めた教会では、ちょうど新年の鐘をつく人数が足りず、困っていました。頼まれるといやといえないお人よしのウィムジイ卿は(しかもたまたま(!)鳴鐘術の心得もあったので)、疲れているのに徹夜で鐘つきをします。そして時は流れ春、ウィムジイ卿のもとにフェンのあの教会の墓地で身元不明の死体が発掘されたとの一報が届き、ウィムジイ卿はさっそく事件の捜査に乗り出すのでした・・・・・・。
引用は冒頭、車が故障し、寒風の中で途方にくれている場面でウィムジイ卿がバンターに言った台詞です。
原文
"Thank god," said Wimsey. "Where there is a church, there is civilization...... I bet that Kingsley welcomed the wild north-easter he was sitting indoors by a good fire, eating muffins. I could do with a muffin myself. Next time I accept hospitality in the Fen-country, I'll take care that it's at midsummer, or else I'll go by train...."平井訳
「おい、しめたぞ!」とウィムゼーはいった。「教会のあるところなら、ちっとは開けているだろう。・・・・・・きっとなんだなキングスリーのやつ、今ごろはぬくぬくと炉端で暖まりゃがって、饅頭[マッフィン]でも頬ばりながら、北風ござんなれとばかり、ふんぞり返っているにちがいないぞ。見ろ、こっちはお前、うっかりすると自分が饅頭になりかねない始末だ。・・・なんだな、こんど沼沢地方[フェン]でお恵みにあずかるんだったら、せいぜい気をつけて、夏場にするこったな。でなきゃあ、汽車で来るこったよ。・・・」浅羽訳
「助かった! 教会のあるところ人家あり。・・・・・・キングズリイ(英十九世紀の詩人)は荒々しい北東の風を歓迎しているが、どうせうちの中で、暖かい火のそばに坐り、マフィンでも食べながら書いたんだろう。マフィンなら僕だって食べたいよ。今度フェン地方への招待を受ける時には夏至の頃だと確かめてからにしよう。でなければ汽車で来る。・・・・・・」門野訳
「ありがたい!」ウィムジイは言った。「教会のあるところ、人里ありだ。・・・・・・キングズリーに、荒ぶる北東の風を歓迎するなんていう一節があるが、あれは暖炉の前に座り、ぬくぬくとマフィンでも食べながら書いたに違いない。私だって、マフィンを食べながらなら、それくらい言ってもいい。つぎにフェン地方への招待を受けるのは、真夏に限ろう。さもなければ汽車を使うかだ。・・・・・・」
平井訳でマフィンが饅頭[マッフィン]になっているのは時代的にしょうがないとしても、お育ちのいい貴族であるウィムジイ卿の「キングスリーのやつ」とか「暖まりゃがって」とか「お恵みにあずかる」などの言葉遣いにはどうも違和感があります。やはり21世紀の読者には平井訳のウィムジイ卿より浅羽訳、門野訳のウィムジイ卿の方がぴったりくる気がします。これは優劣ではなく、感覚の時代性の問題でしょう。
そういう意味において、50年代から60年代頃に翻訳されたミステリのほとんどは賞味期限を過ぎていると言ってもいいかもしれません。たとえばエラリー・クイーンの国名シリーズのように、「必読」とされるミステリにも、30年以上前の訳しかないものが数多くあります。最近国内ミステリの人気作家の作品を通じて、クイーンなどに興味を持つ若い読者も多いのですが、そうした新しい読者にとって古い訳文はとっつきにくいというのが正直なところだと思います。
しかしクラシック・ミステリの場合、ただ読みやすく現代的な訳文であればいいというものではありません。作品の雰囲気にふさわしいものではなくてはならず、やはり古き良き時代の雰囲気を感じさせてほしいものです。難しいことですが、その両立を目指すべきだと思います。
近年多くの作品が発掘されているとはいえ、まだまだ「未訳の名作」や「幻の名作」はたくさんあります。そこで勝手ながら第2回以降、私が大好きで、でも日本ではまだ日の目をみていないミステリを中心に紹介していきたいと思っていますので、おつきあいのほどよろしくお願いいたします。