出版業界の現状
山岡洋一
田園 将蕪


  最近、ふとしたきっかけで、古い記憶がいくつか蘇った。ひとつはもう二昔以上も前のことだ。日本人はすごいという話を、東南アジアの若者か ら聞いた記憶である。石油関係のプラントで働いていたとき、ある日本人の活躍を見て、日本人に対する見方が一変したというのだ。

 何しろ20年以上も前に聞いた話だから、真偽を確かめる術もない。技術的にありうる話なのかどうかも分からない。だから、これは一種のフォークロアとし て読んでいただければと考えている。だが若者は、自分の目でその様子を見たと話していたし、戦争の思い出がまだ強く残っていた時期に、日本人に対する見方 が一変したというのもおそらく、事実なのだろう。

 話の大筋はこうだ。ある日、プラントにサイレンが鳴り響き、全員退去の命令が出された。フレアの火が消えたというのだ。フレアというのは、30メートル ほどの鉄塔の上にある装置で、プラントの排ガスを燃やす仕組みになっている。火が消えると、ガスが地上に下りてくる。これに火がつけば、プラントが爆発す る。何基もある大きなタンクに火がまわれば、大爆発になって、何千人かが犠牲になりかねない。だから全員退去、一刻も早く近くの丘の向こうに逃げろという のだ。

 車で逃げる人、乗り遅れて走って逃げる人で混乱するなか、逆にフレアに向かっていった男がいた。プラント増設工事を請け負っている日本企業の職人だ(だ ぶだぶのズボンをはいて、安全靴ではなく、変わった靴をはいていたというから、鳶職なのだろう)。フレアの周囲は危険なので、サッカー場ほどの広さの空き 地になっていて、フェンスで囲まれている。フェンスを乗り越え、鉄塔の下まで行き、立ち止まった。ヘルメットを脱ぎ、タオルを頭に巻いて、鉄塔を上りはじ めた。ガスが噴出している装置のところまで行き、修理し、火をつけ、鉄塔を下り、ヘルメットをかぶり、何事もなかったように現場に戻って仕事を続けたとい う。

 建設業界には少しは知り合いもいるので、ありうることだと思う。義理と人情の古い世界、といえばたしかにそういう面があるだろうが、古い人間の良さを受 け継いでいる。義を見てせざるは勇なきなりという言葉があるが、いざというときに損得を考えず、この話のように、命まで懸けて行動する。そういう心意気を 示す逸話はたくさんある。東南アジアの若者を感激させた鳶の話もそうだが、事故や災害のときなどに真先に駆けつけるのはたいてい建設業界の人間だ。

 大がかりな例をあげれば、阪神大震災のとき、建設業界が一斉に救援に駆けつけている。倒壊したビルで人命の救助にあたり、傾いたビルを解体して、危険を 取り除いていった。鮮やかな仕事ぶりだったという。

 ところが、建設業界はその勇気と心意気を称賛されたというわけでもなかった。もちろん、感謝した人が多かっただろうが、かなりの陰口をたたかれてもい る。手抜き工事がばれないように、あっという間に証拠を隠滅してしまったというのだ。なぜそんな陰口をたたかれたのか。たぶん、小さな手抜き、大きな不祥 事がたくさんあって、業界全体が不信感をもたれていたからだろう。不信感をもたれるようになっていれば、どんな行動をとっても、すべて裏目にでることにな りかねない。阪神大震災のときの建設業界がその好例なのだろう。

 こんなことを思い出したのはもちろん、耐震強度偽装問題があったからだ。建設業界への不信感がこれでまた強まり、たぶん10年以上の年数が経過しなけれ ば、業界が何をやってもいっても裏目にでる冬の時代が続くだろう。建設業界にとって気の毒な状況になっている。

 だいたい、マンションの構造計算書なんて、誰も重視していなかったという意見もある。書類が整っていれば、中身をみることもなかったというのだ。たぶん そうなのだろう。だから、少しばかり手を抜いても文句をいう人はいない。建設コストが低くなるから、施主に喜ばれ、買い手にも喜ばれ、仕事が増えて収入が 増える。収入が増えれば何だってできる。外車を買い、ぱりっとしたスーツを買えば、人間だって偽装できるのだ。損得を考えたら、続けない手はない。稼ぐが 勝ち、ばれさえしなければ……。

 だが、ばれるのだ。構造計算書など誰も理解できなくても、財務諸表など誰も精査しなくても、本人の言動だけから、世間は何かあると感じとる。目先の損得 を優先し、世間が要求する職業倫理を軽視したとき、どこかでかならずしっぺ返しを受ける。だから、天網恢恢という言葉がある。

 だから、世間の期待を裏切ってはいけない。世間の期待をはるかに超える仕事をしなければいけない。そうしなければ、翻訳のように何の資格も特権もない仕 事で食べてはいけないと、我が身に引きつけて考える。翻訳という業界、そして出版という業界は、建設業界の不祥事を他人事としてみていられるのだろうか。

 たとえば、出版翻訳には下訳という仕組みがある。翻訳書には訳者名が書いてあるが、著名人が訳者になっていたら、疑ってかかった方がいい。もちろん本人 が訳している場合もあるが、たいていは下訳者が訳したものだからだ。実際には訳していない著名人を訳者に仕立て上げるのは、もちろん、著名人の名前で売ろ うと考えるからだ。一種の偽装である。

 それがどうしたという意見もあるだろう。たとえば、耐震強度計算を実際には事務員がやっていて、一級建築士がチェックをしただけであっても、耐震強度が 十分にあるのであれば、とくに問題はないのではないだろうかという意見だ。だが、著名人の名前を掲げて、別人の訳文を読ませるのでは、羊頭狗肉の誹りは免 れない。また、少し考えてみれば分かることだが、質の高い仕事ができる翻訳者なら、こういう形の下訳を引き受けるはずがない。下訳を引き受けるのは、翻訳 者として力不足の人だけだ。だから、力不足の下訳者の訳文を、頭にきたとか何とかいいながら、編集者が必死になって直していないかぎり、悲惨な翻訳のまま 出版されるのが普通だ。

 著名人が訳者ということになっているが、実際には力不足の下訳者が訳したという本は、以前よりかなり減っているように思える。読者もそう何度も騙される ほどお人好しではないので、著名人の名前で翻訳書を売ろうという考えが通用しにくくなってきたからなのだろう。

 いまでもかなり目立つのは、翻訳家の名前かそのペンネームを訳者名として掲げているが、実際には下訳者が訳している場合である。ベストセラーになった翻 訳書を読んでいて、翻訳の質があまりに低いので驚いたことがあった。若手ではあるが、実力があるとされている翻訳家が訳したものだったからだ。やがて疑問 が解けた。ある翻訳学校で、その翻訳家のクラスに受講生が殺到しているという話を聞いたからだ。殺到しているわけは……、じつに簡単だ。そのクラスの受講 生があのベストセラーの下訳にあたったと、翻訳学校が宣伝したのだ。

 もちろん、下訳者と元訳者の関係はさまざまであり、それによって翻訳の質に違いがでてくる。極端な場合、元訳者は何人かの下訳者に仕事を割り振るだけ で、できあがった訳文を読みもしないことがある。元訳者というのは名ばかりで、実際には手配師にすぎないわけだ。これでは質の高い翻訳になるはずがない。 また、下訳を読み、修正をくわえている場合もある。修正の程度はさまざまだが、下訳に手を入れるという形では、ほんとうに質の高い翻訳はできないと思う。 だが、下訳者がいるから、元訳者がひとりで翻訳した場合より質が高くなると思える場合もある。それは、下訳者というのがじつは名前のうえだけで、実際には 元訳者とほぼ対等の立場に立つ共訳者である場合だ。名目上の元訳者と名目上の下訳者がたとえば半分ずつを訳し、二人で遠慮なく、徹底的に議論して訳文を磨 いていけば、翻訳の質が向上する可能性がある。このように、下訳者と元訳者の関係はさまざまだが、訳者偽装だといえるものが多いのが現実だろう。

 もっと目立つのは、大学教授など、その分野の専門家らしき肩書の訳者や、翻訳家という肩書の訳者が実際に翻訳しているようなのだが、いかにも力不足だと いう例だろう。後に触れるように、いまでは出版点数が以前とは比較にならないほど増えているので、翻訳担当の編集者は翻訳者を探すのに苦労している。力不 足でも、目をつぶって発注し、目をつぶって出版しなければならないことが少なくない。鉄筋が不足していることは重々承知しているのだが、それでも工事を進 めなければならないような状況に陥っているのだ。鉄筋が少なくて耐震強度が不足していても、運悪く地震が起こって倒壊でもしないかぎり、誰にも分かりはし ないといった人がいるそうだ。翻訳の場合には、訳者の力不足は読者にすぐに分かる。厄介なことに、読者にすぐに分かるのに、訳した本人にだけは分からない 場合が多い。このままなら偽装ではなく欠陥だ。しかし、担当編集者が欠陥に目をつぶるわけにはいかないと判断して訳文を書き直していれば、訳文に最終責任 を負っているのは「訳者」ではなく、編集者になる。その場合は訳者を偽装している。

 翻訳出版から日本人著者による出版に目を移すと、ここにも偽装の例がいくつもある。たとえば、話題のベストセラーのひとつについて、「著者」が新聞のイ ンタビューに答えて、自分が話した内容を編集者がうまくまとめてくれたと語っている。「著者」は何時間か話しただけで、実際に書いたのは編集者だというの である。じつのところ、「著者」が実際には書いていない本はそれだけではない。小説の場合にはさすがにそういう例はめったにないだろうが、小説以外の分野 では、気軽に読めて評判のベストセラーが実際には、編集者やフリーのライターが書いたものだという例がたくさんある。100点を超えるほどの「著書」があ る有名な「著者」について、本人が書いたのはごく初期の1点か2点だけだという話を聞いたこともある。気楽に読んですぐに捨てる本なのだから、めくじらを 立てるほどではないかもしれないが、一種の偽装であるのは確かだ。それに、書店に行っても著者偽装本ばかりが目立つところに並んでいるのだから、少しも楽 しくない。書店にいこうとは思わなくなる。

 有名人が何時間か話した内容に基づいて本を作ること自体が悪いというのではない。有名人の「著書」ではないことが明確になっていれば、読者を裏切ること にはならない。そのための方法がいくつかある。たとえば、「述」「口述」「談」「原案」とする方法がある。そして実際に執筆した人を、「著者」として表示 すればいい。

 別の例をあげれば、著者の原稿の質が低く、編集者が著者の了解を得て、文章に徹底して手を入れた場合、編集者の名前を少なくとも共著者として表示すべき だ。そう表示すれば、偽装にならない。「監修者」、「監訳者」などの表示にも同じことがいえる。実質を伴わないのであれば、このような表示を使うべきでは ない。読者の信頼や期待を裏切ってはいけない。

 下訳を使った翻訳書、実際には編集者かライターが書いた本がベストセラーになっているではないかという意見もあるだろう。100万部を超える大ベストセ ラーになった本もある。編集者にとって、100万部の大ベストセラーがいかにありがたいかはよく理解できる。赤字が吹き飛ぶ。給料が遅配になっているとい う噂ですが大丈夫ですか、などと聞かれることもなくなる。人員整理や身売りの噂も消える。交際費だって使えるようになる。雑誌部門が儲かっていて、そんな 心配はなかった出版社でも、社内で肩身の狭い思いをしなくてもよくなる。売れればいい、稼ぐが勝ちだ。それに、お客さまは神さまだ。読者が求める本を作る のが当然ではないか……。

 そう主張するのなら、はっきりいおう。読者は神さまではない。全知全能の神が本を読むはずがない。人間が書いた物語に感動の涙を流すはずがない。どんで ん返しやトリックに驚くはずがない。読みやすく分かりやすい解説書、気軽に読めるエッセーなどに飛びつくはずがない。読者は向こう三軒両隣にちらちらする ただの人だ。ただの人だから本を読む。本を読むとき、テレビや映画、新聞やインターネットなどでは得られない何かを求めている。自分の知識や想像力が及ば ない何かを求めている。自分を高めてくれる何かを求めている。そうした読者の期待にこたえられない本がベストセラーになったとすると、喜ぶべきではない。 悲しむべきだ。100万人がそういう本を買ったとき、本という媒体には魅力がないと感じる人が90万人増えた可能性があるのだから。

 文は人なりという。同じテーマを扱い、同じ主張をしていても、人によって文章が違う。だから本は面白い。だから、著作権法という特別の法律で著者の権利 を守っている。「著者」や「訳者」の表示が有名無実になり、実際には編集者やライターが文章を書いているか書き直しているとどうなるか。編集者やライター にももちろん、個性があるから、自分の名前で本をだすのであれば、それぞれの個性を発揮する文章を書く。だが、ゴースト・ライターとして書くときには、個 性をなるべく消そうとする。何らかの基準、規範にしたがって書いていくか、書き直していくしかない。

 では、どういう基準、規範を使うのか。現状ではおそらく、「読みやすく分かりやすい」と呼ばれる基準、規範を使うはずだ。「著者」や「訳者」が誰であっ ても、「読みやすく分かりやすい」文体を使う。編集者やライターが悪いのではない。著者や訳者を偽装しているときにはたぶん、これ以外に方法がないのだ。 月並みな文体にするしかないのだ。

 読みやすく分かりやすい本でなければ売れないという意見もあるだろう。だから、読みやすく分かりやすい本にする。骨がなく、筋もなく、歯ごたえのない本 ばかりだす。歯が悪くても大丈夫、顎が弱くても大丈夫、安心して食べられる流動食のような本ばかりだす。これでは読者は鍛えられない。咀嚼力がつかない。 読者をしっかりと育てていないのだから、読みやすく分かりやすい本でなければ売れなくなる。英語では、こういう状況をself-fulfilling prophecyという。

 流動食のような料理では、食事の楽しさが半分なくなる。だから秋刀魚は目黒に限るというのだ。読みやすく分かりやすい本では、本を読む楽しみが半分なく なる。「著者」や「訳者」が書いていないのだから、著作権の意味もなくなる。出版業界は存立基盤をみずからの手で掘り崩している。これでは本が売れなくな るのも不思議ではない。

 本はたしかに売れなくなっている。出版科学研究所の発表によれば、2005年の書籍の推定販売額は前年比2.5%減の9197億円、新刊点数は同 2.6%増の7万6528点であった。この数値が何を意味するかは、「翻訳通信」2003年7月号の「統計にみる出版不況」で触れている(データは 2002年までなので、古くなっている。また、『出版年鑑』の統計を使ったので、ここで紹介するものとは数値に若干の違いがある)。ここではいくつかの要 点を指摘するに止めておこう。

  書籍の推定販売額がピークになったのは1996年であり、1兆931億円であった。2005年には9197億円だから、過去9年間に15.9%減少してい る。それだけではない。1996年には新刊点数が6万3054点だった。2005年には7万6528点だから、過去9年間に21.4%も増えている。過去 9年に市場規模が16%弱縮小し、新刊点数が21%強増加しているのだ。新刊1点当たり市場規模は、1996年には1734万円だったが、2005年には 1202万円になり、なんと30.7%も縮小している(書籍にはもちろん、新刊本以外に既刊本があるので、新刊本だけの市場規模は、実際にはもっと小さ い)。

 ちなみに、2005年の書籍の推定販売額は15年前の1991年の水準にほぼ等しい。当時、新刊点数は約4万5000点であった。この15年に、書籍の 推定販売額は増えていないのに、新刊点数は70%近くも増えている。つまり、新刊点数を15年前の1.7倍に増やしてようやく、15年前と同じ売上を確保 しているのである。

 要するに本は売れなくなっているのだ。売れないから、点数を増やして売上を維持しようとする。その結果、書店は何匹目かの泥鰌〔どじょう〕を狙う新刊本 であふれかえり、ますます売れなくなっている。じつに分かりやすい悪循環に陥っているのだ。その点を考えると、いまでも書籍の販売額が年に9000億円を 超えていることの方が驚きだといえるのかもしれない。書店の店頭が荒れているのをみれば、もっと売れなくなっても不思議ではない。

 長期的な視点で考えるなら、短期的にはもっと苦しくなった方がいいのかもしれない。追い詰められれば、人は誰しも真剣に考えるようになる。さまざまな媒 体があるなかで書籍の強みは何かを考え、文化を扱う出版事業の本来の役割を考え、職業倫理を考えるようになる。読者の期待と信頼を裏切らない出版とはどう いうものかを真剣に考えるようになる。偽装をして売上を確保していれば、とんでもないしっぺ返しをくらうことを実感するようになる。

 出版翻訳の関係者、出版の関係者はみな、もともと本が大好きなはずである。本は心の故郷だ。その故郷がいま、将〔まさ〕に蕪〔あ〕れようとしている。稼 ぐが勝ちというかもしれないが、本の市場が蕪れはてれば、稼ぐことなどできなくなる。

(2006年3月号)