ある顛末記
山岡洋一

学生もすなる……

 
 高血圧に不整脈、軽度のメタボに重度のニコチン中毒と、基礎疾患が4つもあるのだから、怒ってはいけないと医者にいわれた。ストレスをなるべく減らしな さいともいわれた。命取りになりかねないというのだ。どこまで本気なのかは分からない。何しろ、我怒る、故に我ありといえるほど、いつも何かに立腹してい るので、からかってやろうと思われたのかもしれない。それでも命にかかわるといわれては、無視するわけにいかない。だが、怒らないようにしていると、それ はそれで問題も起こる。それこそ腹ふくるゝわざ、ストレスがたまる一方になりかねない。

 昨年後半、どうやらインフルエンザにやられて、寝込むほどではないが、頭に負担がかかることは何もする気になれなかったとき、年末締め切りで書かなけれ ばいけない文章があり、その資料になるものがないかと、インターネットでいろいろと検索して時間をつぶしていた。そのときにでてきた文書のひとつをみて、 目を疑った。自分が何年か前に「翻訳通信」に書いたのとじつによく似た文章があったからだ。

 全文をプリントアウトして読んだところ、猛烈に腹が立ってきた。いけないいけない、怒ってはいけないのだ。冷静になっていくつかの点を確認した。まず、 この論文は比較的最近に書かれていて、自分の文章の後に書かれたことがはっきりしている。つぎに、「翻訳通信」の該当する部分もプリントアウトして比較し た。全体で12ページほどの論文のうち1ページ強、ほぼ10%が「翻訳通信」の記事ときわめてよく似ていることが分かった。そして、その記事のために作成 した表が、そのままの形で掲載されていた。出典は書かれていない。参考文献がいくつかあげられていたが、そこにも「翻訳通信」はない。

 つぎに著者について調べた。インターネットのお陰ですぐに分かった。某有名大学を卒業し、某有名大学大学院博士課程を満期退学の後、某有名大学助教授を 経て、現在は同大学大学院教授だという。そこそこの実績と権威のある学者なのだろう。この論文が勤務する大学の刊行物に収められていることも確認した。

 こういう件は「無断引用」と呼ばれることが多い。じつに奇妙な言葉ではないだろうか。「引用」というのは、著作権法で万人に認められた権利だ。公表され た著作物を引用する際に、原著者に断りを入れる必要はまったくない。そして「翻訳通信」は公表された著作物なのである。だが、引用は「公正な慣行」に合致 し、「正当な範囲内」で行われなければならない。この条件を満たしていない場合には、「引用」とは認められない。だから、問題は無断かどうかではなく、引 用かどうかなのである。今回の件は引用なのだろうか。

 引用でないことは明らかだと思えた。まず、教授本人の文章との間に明確な区別がされていない。本人の文章だと思える形になっている。引用だとは書かれて いないし、出典も明記されていない。参考文献にすらあげられていない。そのうえ、偶然の一致にしては似すぎているが、まったく同じではない。いくつかの追 加や変更がある。追加のなかには明らかな間違いや、疑問符が付く言葉がある。変更によって、趣旨が逆になっている。だから腹が立ったのだ。

 もうひとつ、黙示的な引用とでも呼ぶべきものがある。出典を明記するまでもないほど有名な言葉なら、クレジットなしで引用することがある。ただしこれが 可能なのは、ごく短い言葉だけである。今回の件が黙示的な引用でないことも明らかだ。短くはないし、有名な言葉でもないからだ。

 黙っていては怒りが募ってくる。どうするべきか。学者の世界というのは馴染みがないので、何人かの知り合いに意見を聞いてみることにした。刊行物の編集 責任者に抗議するか、本人が所属する学会で問題にしてもらうようにすべきだという強硬な意見もあった。メール・アドレスが本人のサイトに明記されているの で、メールで知らせればいいという穏当な助言もあった。結局、穏当な助言に従うことにした。

 なぜかというと、有名大学大学院教授にしてはあまりにお粗末だと思ったからだ。学生じゃあるまいしと思うと、実際の執筆者が本人ではなく、大学院生か助 教なのではないかと思えてきた。もしそうなら、教授本人のみならず、若い研究者が将来を失うことになりかねない。腹が立つのは教授本人に対してなので、こ こでリスクをおかすことはないと思えたのだ。

 そこで12月初めに、控えめなメールで事実関係を問い合わせ、善処を求めることにした。1ページ強の本文と表について「翻訳通信」のサイトに掲載されて いる拙稿を参考にされたかどうか、事実関係をお教えいただい、参考にされたとすればクレジットがなく、参考文献にもあげられていないのは遺憾であり、わた しの側が写したわけではないことを示すためにも、参考文献に追加していただきたいという趣旨であった。

 いまになって振り返ると、控えめすぎたようだ。教授からはすぐに返信があり、何度かやりとりがあった。どうやら大学院生や助教が書いたのではないような ので、その点では安心したのだが、とくに重要だとも思えない表について語るだけで、肝心の本文については触れようとしない。表は出典を示せば問題は終わり だが、本文はそうはいかないからなのかもしれない。また、資料として書いたもので、公開されることを忘れていたとも釈明しているので、本文はたいした問題 ではないと考えたのかもしれない。いずれにせよ、表の出典を示し、参考文献に「翻訳通信」を追加するだけで決着をつけようという意向のようだった。

 そこで、かなり厳しい警告を書くことにした。こういう問題にくわしい友人によれば、学会か学内で問題にされれば「完全にアウト」だとのことだと指摘し、 しかるべき人に相談されるように勧めた。それでも相手の姿勢が変わらないようなので、同様の警告を再三繰り返すことになった。

 だがそれでも変わらなかった。1月に入って、サイトの担当者と連絡が取れて修正が終わったという連絡がきた。案の定、表の出典を示し、参考文献に「翻訳 通信」を追加しただけであった。

 それにしても不思議な対応だ。当初の形であれば、元の文章を書いた本人以外の人が気づく可能性はきわめて低かったはずだ。問題の論文は当人にとっては資 料にすぎないということのようだが、それにしても、インターネットで読む人がいて、その人がつぎに参考文献を読む可能性だってある。その場合、本文がおか しいことにすぐに気づくはずだ。学会か学内で問題にされればどうなるだろうか。「完全にアウト」だというのは少し大げさだとしても、苦しい立場に追い込ま れるのではないだろうか。参考文献に明示したことで、そうなる可能性が高まったと思えるのである。

 今回、知り合いから受けた助言のひとつは、名誉毀損で訴えられる可能性があるので注意するようにということであった。実際にそういう例もあるという。じ つのところ、そうなれば面白いという気持ちもある。友人に弁護士がいる。検事も頭を下げる辣腕ぶりだという評判だ。訴えられれば、その腕をこの目で見る機 会になるかもしれない。幸いというべきか、いまのところ裁判には縁がないから、そんな機会もなかった。

 しかし、フリーの翻訳者にはそんな馬鹿げたことに時間を使うような余裕はない。だから、ここでも、本人の名前や論文のタイトルなどを知る手掛かりになる ようなことは何も書いていない。

 長年フリーの立場で仕事をしてきた別の友人がよくこう語っている。フリーの人間にとって、板子一枚下は地獄だと。ひとつ間違えれば、もうそれで終わりな のだ。学会で問題にされるまでもない。だからいつも緊張して仕事をしている。

 国立の有名大学の教授ともなると、まるで違うようだ。自分の立場は安泰だと安心しきっているのだろう。だから、講演か何かのために資料を書く必要に迫ら れたとき、インターネットで見つけた文章をよく読みもせずに気楽に使う。どこかの馬の骨が書いた駄文だから、誰も読んでいるはずがないということなのだろ うか。そう思うならそれも結構。医者の助言だかからかいだかに従って、怒らないことにしよう。命を大切にして、残された時間に納得できる仕事をすることに しよう。板子一枚下は地獄の人間の心意気を示してやろう。

(2010年2月号)