出
版の現状
山岡洋一
原点
に戻る
先月号の「統計にみる出版不況」についていくつもの反響があったが、なかでも目立ったのは「今年前半はもっとひどい状況だ」と話してくれた
出版関係者が多かったことだ。出版の市場規模が縮小するなかで出版点数が急増する現象が、今年は去年よりさらに鮮明になっているというのだ。出版不況が長
引いている現状では、市場の状態が急激に悪化しても不思議ではないし、悪いことだとも言い切れないように思う。出版各社が危機感を募らせれば、新しい動き
がでてくる可能性もあるからだ。「命がいくばくもないことが分かれば、神経を一点に集中できるようになる」と、サミュエル・ジョンソンも語っている(これ
も、あのボズウェルが伝えた言葉のはずだ)。
先月号では、出版業界の統計を使って、「本が売れない→新刊点数を増やす→本がますます売れなくなる」という悪循環に陥っていることを確認した。しか
し、悪循環を確認しただけでは問題は解決しない。統計では分からない点、そもそもなぜ本が売れなくなったかを考えなければならない。
本が売れなくなったという点では、出版関係者の意見は一致している。ごく少数の大ヒットはあるが、それ以外はさっぱり売れない、とくに良書が売れないと
いう。以前なら着実に売れていた良書が売れなくなった。いま売れているのは、テレビのワイドショーで取り上げられる本だけだ。だからタレント本やトンデモ
本に頼るしかなくなっているのだと。
なぜ良書が売れなくなったのか。若者の活字離れとか、新古書店とか、携帯に食われているとか、本が売れない理由としてよく耳にする話では、この点は説明
できない。新古書店で売られているのはいわゆる良書ではないし、若者のなかでも活字離れといわれている層や、携帯に小遣いを使い果たす層はもともと、いわ
ゆる良書の読者だとは考えられていないはずだ。
ではどこに原因があるのかと考えていくと、根っこはノーパンしゃぶしゃぶにあるといいたくなる。いや、ふざけているのではない。ノーパン何とかで本が売
れなくなったというのは、風が吹けば桶屋が儲かるどころではない荒唐無稽な話だと思われるだろうが、結構まじめにそう考えている。なぜそう考えるのか、少
し説明してみよう。
そもそも、良書とは何か。良い本だろうというのでは答えにならない。良書とは良い本ではない。良いといわれてきた本だ。なぜ良いといわれてきたのか。内
容が良いからか。そういう場合もあるだろうが、たいていはそうではない。そこまで深く考えて良書とそれ以外を区別していたわけではない。はるかに簡単な基
準で区別されていた。権威という基準だ。権威ある地位の人が書いた本か、権威ある地位の人が薦める本が良書とされてきたのだ。
権威ある地位の人が書くか薦めた本が良書だというと、いかにも馬鹿げていると思えるかもしれないが、そんなことはない。ある人が権威ある地位につくの
は、もともと、優れた本を書けるほど、あるいは選べるほど優れた人だったからだ。優れているから権威があると世間に認められるようになり、権威ある地位に
ついたのだ。まず内実があり、その結果として地位が与えられ、権威が認められるようになる。
ところが、時代の移り変わりとともに内実と地位が乖離することがある。内実がない人物が権威ある地位につくこともあるし、もともとは内実があった人物で
も、権威ある地位に安住して腐敗堕落してしまうこともある。内実と地位が乖離していても、世間はそう簡単にはその事実に気づかない。だから、地位に伴う権
威がいつまでも通用することがある。
権威というと、それだけでおぞましいものと考える人もいるだろうが、問題は権威の中身であって、権威そのものではない。しっかりした権威がなければ、世
の中はうまく動かない。
その典型例が政治だ。日本の政治は民主主義という原則のもとで動いていることになっているが、民主主義は現実的とはいえない想定に基づいていると思え
る。何年に1回かではあるが、子供を除く国民が全員、各政党と候補者の主張と行動を慎重に調べ、合理的に判断し、誰に政治を託すかを理性的に選択すること
になっている。だが現実的に考えてみれば、そのような選択をするために時間とエネルギーを使えるほど暇な人がそうたくさんいるわけではなし。有権者は賢明
だから、自分の一票で日本の政治の方向が決まるなどという幻想をもっていない。現実的に考えれば、信頼できる人たち、つまり内実を伴った権威のある人たち
に政治を任せるしかない。そして日本国民は戦後、権威ある人たちに政治を任せる方法をとってきた。任せた相手は政治家ではない。官僚だ。政治家はお飾りで
いい。官僚が優秀だし、しっかりしているので、政治家をうまく誘導してくれるはずだ。だから、選挙はどうでもいい。現実的に考えれば、選挙はせいぜいのと
ころ、地元と支持者の便宜をうまくはかってくれる人を選ぶだけのものでいい。こう考えられるのは、官僚の権威が内実を伴ったものだという安心感があったか
らだ。
そこに登場したのがご存じテリー伊藤だ。たった一言、ノーパンしゃぶしゃぶと叫ぶだけで、誰もなしえなかったことを達成した。官僚のなかの官僚、大蔵官
僚の権威を木っ端みじんに砕いてしまったのだ。権威に内実が伴っていないことを一言でさらけだした。この一言で、戦後の日本を支えてきた数々の権威のう
ち、最後まで残っていた官僚の権威が地に落ちた。
先生と呼ばれる人たち、小学校から大学までの教師や、医師、弁護士などの専門家や、政治家、評論家などの権威はすでにかなり以前から揺らいでいるか、地
に落ちていた。企業経営者の権威も落ちていたし、とくに銀行などの金融機関の権威はバブル後の惨状でまったくなくなっていた。そして、ノーパンしゃぶしゃ
ぶだ。権威というものを誰も信用しなくなったのも、驚くには値しない。
権威とされてきたものがすべて信認を失った時代に、権威を裏付けにしてきた良書が売れなくなったのは当然であり、驚くようなことでも嘆くようなことでも
ない。良書が良い本であるとはかぎらないことに読者が気づいただけの話なのだから。そういうわけで、ノーパンしゃぶしゃぶの一言で、良書と呼ばれてきた本
が売れなくなったということもできる。
だが、権威とされてきたものがすべて信認を失ったとき、世の中はどうなるのか。歴史を少しでもかじったものなら、どうなるかを知っている。それまでの権
威が内実を伴わない偽物だったことが白日のもとにさらされたとき、内実を伴った新しい権威が確立するまでの間、世の中は混乱する。魑魅魍魎の活躍する世
界、百鬼夜行の世界になる。日本の現状はまさにそうだ。政治の世界でそれが目立つのは、官僚の権威という支えがなくなったためかもしれない。マスコミの世
界でそれが目立つのは、学者や評論家が信用されなくなったからかもしれない。こういう現状を考えれば、出版の世界でタレント本かトンデモ本しか売れないの
も当然のように思える。
魑魅魍魎の活躍する世界、百鬼夜行の世界は、内実を伴った新しい権威が確立するまで続くだろう。では、新しい権威はどのようにして確立されていくのか。
このように視点を切り換えたとき、出版という世界、そのなかでも翻訳出版という世界に少しでも関与していたのはつくづく幸運だったと思える。新しい権威の
確立のためには、まず古今東西の優れた考え方を学ぶ。とくに外国から学ぶか、半ば忘れられてきた古い時代から学ぶ。いつの時代にも、混乱期にはかならずこ
の方法がとられてきた。そして、外国から学ぶにしても、古い時代から学ぶにしても、書籍ほど優れたメディアがあるとは思えない。なかでも、翻訳書ほどすぐ
れた方法があるとは思えない。出版業界は、いまの時代の要請にこたえられる最高のメディアを握っているのだ。
テレビに取り上げてもらおうなどと考える必要はない。短く、分かりやすく、読みやすい本にしようなどと考えることはない。本には本の良さがある。本の良
さを活かして、ほんとうに内容のある本、新しい時代に良書と呼ばれる本を作っていけばいい。
(2003年8月号)