出版翻訳の現状   
山岡洋一

編集 者に期待するもの

 先月号の「翻訳者の役割と編集者の役割」に読者からコメントをいただいた。とく に、編集者の役割についてのコメントが多かったので、いくつかの点を補足しておきたい。

 
 プロデューサーとしての編集者
 まず指摘しておくべき点をあげるなら、先月号の記事は、翻訳者と編集者の関係のうち、校正作業で起こる問題を扱っているので、編集者の役割の全体像は論 じていない。編集者の仕事のなかで、校正作業はごく一部にすぎない。校正作業ですら、後述のように、翻訳者との関係で問題になる部分、つまり表記や文章に 関する点は一部でしかない。

 編集者は出版の事業でさまざまな役割を担っている。出版の事業は多品種少量生産という性格をもっており、個々の本やシリーズに対しては、編集者がいうな らば全体を企画し遂行する役割を担っている。たとえば、最近創刊された光文社古典新訳文庫は、編集者の企画からはじまったと聞いている。かなり大がかりな シリーズなので、経営陣の承認を受け、いうならば全社をあげてのプロジェクトになったようだが、それでも全体を企画しているのは編集者なのだという。

 シリーズですらこうなのだから、たとえば個々の翻訳書を例にとると、大量にある原著のなかから翻訳するタイトルを選ぶのも、訳者を選ぶのも、装丁やレイ アウトを決めるのも、すべて編集者である。編集者は、本という商品のプロデューサーである。本を設計し、制作の過程全体を指揮する。

 だから、たいていの出版翻訳者は編集者との付き合いをとくに重視している。出版翻訳者だけではなく、物書きはたいてい、出版社と付き合うのではなく、編 集者と付き合う。編集者が別の出版社に移るのは珍しくない。その場合、編集者との付き合いは続くのが普通だが、元の出版社との関係は切れてしまうこともあ る。重要なのは出版社ではなく、編集者なのだ。

 以上を前提に、前回取り上げた校正作業に関しても補足すべき点がいくつかある。

ゲラと校正に関する提案
 原稿用紙を使う書き手が珍しくなり、パソコンで原稿を書くのが一般的になったいま、校正作業をそれに見合ったものにすべきだと提案した。だが、具体的に どうするべきか、明確になっていないという指摘があった。そこで、ひとつの例を示すことにする。図表などが少ない本であれば、以下のようにすることができ る。

(1) 事前に字数と行数などのレイアウトを暫定的に決めておき、訳者はそのレイアウトで原稿を印刷して推敲を行う。推敲が終わった原稿のファイルを編集者に送 る。

(2) 編集者はファイルをそのまま印刷し、ゲラの初校にあたるものとして校正作業を行う。

(3) 校正者と編集者の赤や鉛筆が入った初校を訳者に戻す。

(4) 訳者は赤や鉛筆のうち取り入れるべきと判断したものを取り入れて、ファイルに訂正を加え、最終原稿を作る。最終原稿のファイルを編集者に送る。

(5) 編集者は最終原稿のファイルに一字一句も変えることなく、入稿作業を行う。通常のゲラを再校として扱う。

 以上の方法であれば、訳者にとって、編集者が相談なく訳文を変える恐れがなくなるので、安心して校正の作業ができる。また、初校の段階でパソコン上で データを自由に修正できるので、大幅な修正もやりやすくなる。

 編集者にとって、とくに訳者が新人に近い場合、校正作業を通じて訳者を教育する機会になる。編集者が自分で訳文を直した方が早いと思うかもしれないが、 少し長い目でみれば、訳者の実力を高める方がはるかに効率的である。通常の方法では、訳者は赤や鉛筆が入ったゲラを読むだけになりかねないが、この方法な ら、訂正すべき点をひとつずつ確認しながらデータを修正するので、問題点をはるかによく理解するはずである。次回からは同様の問題が減るはずだと期待でき る。実力がある訳者の場合には、もちろん教育の必要はないわけだが、原稿の段階で注文をつけやすくなるし、初校戻しの際にオペレーターではなく、訳者が データの訂正を行うので、校正作業の時間と費用を節減できるはずだ。

 ちなみに以上の方法は、編集者の了解が得られれたときに、実際に使っているものである。いまのところ、これでとくに問題はでていない。

 もっとも、この方法がいつも使えるというわけではない。本の性格、編集者、校正者、訳者の考え方などで、従来の方法が最善だという場合もあれば、別の方 法が最善だという場合もある。したがって、これは一例にすぎないとみるべきである。

 この方法を使う場合、いちばん重要なことは、書き手としての訳者が、商品になる文章を書くことである。前回に触れたように、書き手が書いた原稿は一字一 句変えてはならないというのが、出版の大原則だ。だが、この原則のもとで、書き手は、まったく変更しなくても商品になる原稿をだす責任を負っている。この 責任を果たせないのであれば、ほんとうなら、出版のための執筆や翻訳に手をだすべきではない。いまの時代には、インターネットのブログなどで、大量の人が ものを書き、無料で公表している。無料の文章がいくらでもあるなかで、有料の本を出版しようというのだから、買う価値があると読者に思ってもらえる文章を 書かなければならない。この点を忘れてはならない。

 念のために付け加えるなら、通常のゲラをすべてなくして訳者のファイルを印刷したものだけで済ませるというわけにはいかない。ゲラには、文字や文章の校 正以外にも、たとえばレイアウトの確認と微調整という目的があるからだ。編集者はゲラをみて、フォントや級数、字間や行間、空白、ノンブル(ページ番号) の位置など、じつにさまざまな点を確認し、微調整している。訳者や読者はレイアウトの影響を意識することはめったにないが、実際には、ごくわずかな調整で 本の印象が大きく変わることがある。上下の空白を1ミリ動かしただけで、紙面の印象が大きく違ってくることすらある。読みにくさがなくなって、読むのが楽 しい本になることすらあるのだ。レイアウトは微妙であり、編集者の創造性が重要になる部分である。

画面をにらみながら文章を変える編集者
 上の提案は、通常のゲラが印刷会社から出されてくることを前提としている。だが、DTPが使われることが多くなって、いまでは編集者がみずから組版を行 い、出版社内のプリンターで印刷して確認するケースが増えているという。印刷会社がだすものという意味では、ゲラを使わなくなっているともいえる。その場 合、別の問題がでてくる。

 以前なら、編集者は原稿やゲラを、つまり紙をにらんでいる時間が長かったのだが、いまでは編集作業は画面をにらんで行う人が増えているという。たとえ ば、画面上でレイアウトを調整し、確認しているのである。だが、それだけではない。画面上で文章を変える編集者が増えているようなのだ。編集作業のペー パーレス化が進み、原稿やゲラを読む作業のうちかなりの部分も紙を使わないようになってきているのである。

 画面上で文章を変えていくのは、ある意味できわめて合理的だし、効率的だと思えるのだろう。典型的な例が前回にも取り上げた表記の統一である。ゲラで表 記のゆれを確認していくのは大変な作業だが、画面上でなら、じつに簡単に短時間に行える。ワープロ・ソフトには表記の不統一を探しだす機能がついているの で、機械的にできる。エディター・ソフトの検索置換機能では正規表現が使えるので、ワープロ・ソフトより細かく条件を設定することができる。

 そもそも日本語では正書法が決まっておらず、表記が書き手の自由に任されているので、どれほど気をつけていても、表記にばらつきがでてくるのは避けがた い。そして、画面上で編集作業を行えるようになったのだから、コンピューターの得意技である検索と置換の機能をうまく使って表記の統一の作業を効率的に進 めていくのは当然ではないか……、そう思えるはずである。

 だが、忘れてはならない点がある。漢字があり、平仮名と片仮名があり、ルビや英数字を使うことができ、表記をさまざまに変えることができるからこそ、日 本語の表現力が豊かになっていることである。この特徴は、表現を重層的にするために使える。読者の理解を助けるためにも、安易な理解をいましめるためにも 使える。速読を促すためにも、熟読を促すためにも使える。

 たとえば、「善し悪し」という言葉では、「良し悪し」「よし悪し」「善しあし」「良しあし」「よしあし」という表記も使えるし、ルビを使えば、さらに何 通りもの表記が使える。文脈によって、何通りもの表記を使い分けることができるのである。せっかく使えるものを捨ててしまうのは何とももったいない。

 表記の統一の作業を画面上で、効率的、機械的に進めていったとき、こうした点はすべて無視さることになる。表記に不統一があるのは、もちろん、単純に間 違えたという場合もあるだろうが、意識的に使い分けている場合もあるし、無意識のうちに使い分けていることもある(無意識だから間違っていることもあるだ ろうが、正しい場合も多い)。だから、機械的に統一していく方法をとるべきではない。

 ではどうするのか。上に提案した方法を使う場合、表記のばらつきについて、校正者から指摘を受けた言葉や自分で気になっている言葉に下線をつけてから印 刷する(検索置換機能を使えば、たとえば上の「良し悪し」の例であれば、「良」という字にすべて下線をつけることができ、縦書きで印刷した場合には傍線に なる)。こうして印刷したゲラを読んでいき、表記を変えるかどうかを個々に確認していく。

 以上は訳者の立場での方法だが、編集者の立場でもほぼ同じ方法がとれるはずである。肝心な点は、コンピューターの検索置換機能をうまく使いながら、画面 上でではなく、紙に印刷したものを読んで、じっくり、しっかり確認していくことだ。表記の統一を機械的に行うと、使い分けるべき部分、使い分けた方が良い 部分まで統一することになるし、思わぬ間違いもでてくる。だから、画面上で処理しない、紙に印刷して読むというのが、出版の編集では絶対の原則だと思う。

 そうは考えていない編集者が少なくないのは事実だろう。だからこそ、画面上で表記の統一をはかり、訳者が書いた文章まで変える編集者がいるのだ。その方 が効率的だというのだろうか。あるいは、画面上で文章を読むことに慣れているからというのだろうか。だが、そういう編集者に忠告しておきたい点が2つあ る。

 第1に、目を大切にすべきである。画面で文章を読むと、目を傷めることになりかねない。紙に印刷して読む方がはるかに目に負担がかからない。紙は金で買 えるが、目は買えない。目は2つしかないのだから、大切にすべきだ。

 第2に、はるかに重要な忠告がある。画面をにみながら文章を変える編集者への忠告はこうだ。正直にいって、出版の編集者には向いていない。だから、一刻 も早く職を変えるべきだ。

 なぜそう忠告するのか。理由はこうだ。本という媒体は、紙に印刷された形で読むものものなのだ。読者は紙に印刷された形で読む。だから、編集者も紙に印 刷された形で読むべきである。そして、画面上で読む媒体が別にある。代表的なものはインターネットだ。インターネットは原則として無料の媒体だ。出版業界 はいま、画面上で読む無料の媒体、インターネットと競争している。紙に印刷された有料の媒体という出版の特徴を活かして、画面上で読む無料の媒体であるイ ンターネットに勝つことができないのなら、出版の明日はない。画面をにらみながら文章を変えるのは、紙に印刷された媒体である本の良さが分かっていない証 拠であり、出版の編集者に向いていない証拠なのだ。だから、一刻も早く職を変えた方がいい。

 他の産業の例をみると、参考になるかもしれない。2006年のプロ野球日本シリーズで優勝した北海道日本ハムファイターズは、前身が東映フライヤーズ だった。そういえば、2005年優勝の千葉ロッテマリーズはその昔、大映スターズだった。横浜ベイスターズは以前、松竹ロビンスだった。いま情報通信関連 の企業がプロ野球球団をもっているように、戦後の初期には映画会社が球団をもっていた。戦後の早い時期、日本映画は一大娯楽産業だったのだ。どの町にも映 画館があり、東映、大映、松竹、日活、東宝などの新作を上映していた。だが、1960年代半ばになると、当時の最新メディアであるテレビとの競争に負け て、衰退への道を歩むようになっていた。映画は有料、テレビは無料だから勝負にならないというのであれば、ハリウッドをみるべきだ。テレビには映画にない 利点があるが、映画にはテレビにない利点がある。映画の強みを活かしたハリウッドは生き残り、活かせなかった日本映画は衰退した。

 出版産業はどうだろう。出版の市場規模は1996年をピークに、この10年間、わずかずつだが減少を続け、いまではピーク時より15%ほど縮小してい る。出版社は売上の減少を補うために、点数を増やしつづけている。いまでは10年前より20%ほど出版点数が多くなっている。編集者が忙しくなり、原稿を 印刷する暇さえ惜しんで、画面上で編集作業をしているのは、そのためだともいえる。

 だが、だからこそ、出版のプロデューサーである編集者への期待は大きくなっている。紙に印刷された媒体としての本の強みを活かして出版業界の再活性化を はかるのは、編集者の役割なのだ。本だからこその楽しみ、深み、重みのある商品を作るのは編集者の役割だ。商品になる文章が書ける書き手や翻訳者を育て、 活躍の場を提供するのは編集者の役割だ。日本の出版業界が映画産業の轍を踏まないようにするのは、編集者の役割だと思う。編集者の活躍に期待したい。

(2006年11月号)