翻訳出版の現状

古典翻訳の鼓動

山岡洋一


 昨年暮れに翻訳出版関連の忘年会に出席し、たくさんの翻訳者や編集者と意見を交換することができた。とくに強い印象を受けたのは、古典翻訳への関心が高く、しかも数年前とは考え方が大きく変わっていたことだ。

 古典翻訳というと、数年前まではごく一部の出版社が数十年前の改訳を増刷しているだけで、ときおり新訳がでることはあっても、たいていの出版社は興味を示そうとはしなかった。ところがいまでは、かなりの数の出版社が少なくともラインナップのひとつとして、古典の新訳を考えているように思える。

 出版という事業はもともと多品種少量生産であり、多様性が命といえるものなので、100万部の大ヒットを狙う「売れる本」ばかりに関心が集まる方が異様だったのだともいえる。派手な本も地味な本も、「分かりやすい」本も歯ごたえのある本も、軽い本も硬い本も、多様性をもたせるために重要なのだと思う。最近、「ベストセラー作り100の法則」と銘打った井狩春男著『この本は100万部売れる』(光文社)という本を読んだが、こう考えていては著者が勤めていた取次がつぶれたのも当然だと、妙に納得した。多様な読者に多様な本を届けるのが出版の原点だから、古典というある意味で地味な分野にも関心をもつ出版社が増えるのは、健全なことだと思う。

 もうひとつ、大きく変わったと思ったのは、専業の翻訳者が古典を翻訳するという考え方に、編集者のほとんどが何の疑問も感じていないように思えたことだ。ほんの10年ほど前には、ノンフィクション分野の大部分、フィクションでもかなりの部分は、専業の翻訳者が入り込めない分野だった。学者や専門家が訳すものだというのが常識になっていたからだ。いまでは、学者の牙城だった古典翻訳ですら、専業翻訳者を起用するのが不思議ではなくなっている。

 たとえばイギリスの古典とされる小説を新訳で出版しようとするとき、編集者はこの人は英文学者じゃないから無理ではないかとは考えなくなったようだ。もちろん、翻訳家だからいいというわけではない。英文学者だろうが翻訳家だろうが、肩書にはこだわらなくなったというだけである。だが、肩書にこだわらず訳者を選ぶのは、10年少し前には考えられなかったことだ。その点で、時代は大きく変わったといえる。専業の翻訳者の実力が向上し、認められるようになった結果なのだろう。

 もちろんこれが逆に、学者や研究者が海外のすぐれた知識を伝える役割を果たせなくなってきた結果だとすれば、喜んでばかりはいられない。そうかもしれないと思わせる逸話がある。数か月前にクーンの『科学革命の構造』の翻訳とそれに対する批判について論じた。学者や研究者ばかりが投稿する掲示板にこの記事が紹介され、「翻訳屋」のたわごととされていたのだ。こんな言葉を平気で使う学者はそう多くないと思うが、それにしても、海外のすぐれた知識を日本の読者に伝える仕事の担い手が、学者や研究者から「翻訳屋」に移ってきている現実が認識できず、ましてやその理由が理解できないようで、滑稽を通り越して悲惨ですらあると思った。

 それはともかく、時代は変わり、出版社は古典の新訳を少なくともラインナップのひとつになりうるものだと考えるようになり、その際に、専業翻訳者の起用を考えるようになっている。そして徐々にではあるが、各社から出版される古典の新訳の点数が増えてきたようだ。
 

なぜ古典翻訳か

 では、現状にはどういう問題点があるのだろうか。今後の課題は何だろうか。古典新訳の流れを本格化させるには、どうすればいいのだろうか。

 問題点のひとつとして、いまなぜ、古典の新訳が必要なのかが、まだ明確になっていないように思える。この問いは2つの部分に分かれる。第1になぜ古典なのか、第2に既訳があるなかで、なぜ新訳が必要なのかである。

 第1の点に関してはさまざまな答えがありうる。社会科学、とくに経済の分野の古典に関していうなら、いまほど先が読めなくなった時期はないからともいえる。どの時期にも先が読めたわけではないが、80歳以下の者にとっては未経験のデフレの時代になって、経済の常識が通用しなくなっている。こういう時期には情報を追っても無駄だともいえる。基本に帰ってじっくり考えるべき時期なのだ。それには古典が最適である。
 

読みやすさという罠

 既訳があるのに、なぜ新訳が必要なのかは、もっと慎重に考えるべき点だろう。古典新訳というと、既訳は読みにくいですからねと言われることが多い。読みにくいからというのであれば、新訳では読みやすさがまず求められることになる。ほんとうにそうなのかは大いに疑問だと思う。そう思う理由として、前掲の井狩春男の著書をあげておこう。この本によれば、ベストセラーをつくるためのキーワードは「身近」につきるという。そして、「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」が身近な本だという(92ページ)。要するに、古典とは正反対の性格をもった本が売れるというわけだ。

 これが当たっているかどうかは問題ではない。重要なのは、これがひとつの「価値観」であることだ。これは、過去何年かに出版の世界を席巻した価値観である。この価値観が今後もつねに正しく、しかも読者の全員がこれ以外の価値観を受け付けないというのであれば、古典の出番はない。あるはずがない。だが、価値観は変わる。価値観は一様ではない。「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」がいいという価値観はたしかに過去何年か、きわめて強かったが、今後も強いという保証はない。それに、この価値観にこりかたまっていない人も少なからずいる。この点については後に触れる。

 古典を読もうという価値観は、「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」がいいという価値観とはいわば正反対のものだ。だから、新訳に読みやすさや分かりやすさを求めるのは間違いだといえるように思う。
 

後進国知識人型の翻訳からの脱却

 既訳の大部分は戦後の早い時期に訳されたものである。30年から50年が経過したものが大部分なのだ。このため、もう古いから訳しなおそうという意見もある。だが、「古いから」というのなら、原著はもっと古い。古典は古いから価値が高いのであって、新しいものがいいのであれば、新訳だろうが既訳だろうが、古典を読む理由はない。だから、既訳の問題は古くなったことにあるのではないし、新訳をだすのは新しくする必要があるからではない。

 では既訳のどこに問題があるのか。『国富論』の5種類の既訳を検討する作業をこのところ続けているので、以前から感じていた点を確認できたように思える。既訳の大部分は「後進国知識人型」の翻訳になっているのだ。

 後進国知識人型の翻訳がどういうものかを書いていけば、それだけで大部の本になるので、ここでは簡単に触れておくだけにする。後進国知識人型の翻訳の最大の特徴は、後進国の知識人がとても理解できるはずがないと思える先進国の知識を吸収しようと苦闘する過程で生まれたものであることだ。後進国だったころの日本と先進国の欧米との間には、知識や考え方、社会や生活、産業などの現実にとてつもない開きがあった。だが、先進国に追いつかないまでも、少なくとも植民地にされて餌食にされないためには、一刻も早く進んだ知識を吸収しなければならない。ほんとうなら分かるはずもない知識を取り入れるために使われたのが、一対一対応型、欧文訓読型の翻訳だった。

 はるか遠くにあり、はるかに進んでいて、とても理解などできないものというのが、後進国知識人型翻訳の前提であった。だから、内容は理解できないまでも、一語一句を忠実に訳して、少なくとも表面だけは分かるようにする。原著の表面から内容を理解する手掛かりがつかめるようにする。これが一対一対応型、欧文訓読型の翻訳の目的である。

 後進国知識人型の問題のひとつは、もともと一対一で対応するはずのない原語と日本語の間で、無理やり一対一対応を追求していることにある。その結果、原文よりも理解が難しい訳文ができあがる。解説がなければとても読めない訳文になる。翻訳は原書を読むための手引きだというのが後進国知識人型翻訳の考え方であり、訳書だけで意味を理解できるようには訳されていない。これでは翻訳の意味がないと思うのだが、そして、翻訳より原文を読んだほうがいいというのが、古典のかなりの部分で常識になっていたほどだが、いまだに、こうした既訳が売られている。

 それより重要な点は、後進国知識人型の翻訳が歴史的な役割を終えたと思えることだ。日本が後進国だったころ、先進国に追いつくために苦闘してきた人たちのお陰で、欧米はいまでは「はるか遠くにあり、はるかに進んでいて、とても理解などできない国」ではなくなった。もちろん、古典の原著者が巨人であるのはたしかなので、いまでも簡単には理解などできない。それでも、等身大の巨人として理解することが可能な条件はできている。こういう条件ができたことで、後進国知識人型とは違う翻訳が可能になっていると思える。

 後進国知識人型ではない翻訳の先鞭をつけたのは、たとえば、あのヘーゲルを訳した長谷川宏である。長谷川訳のヘーゲルを読めば、いまの時代には既訳とはまったく違うスタイルの翻訳が可能であることが実感できるはずだ。

 いまなぜ、古典の新訳が必要なのか、既訳のどこに問題があるのかは、きわめて重要な点である。既訳が分かりにくいから、古いからというのが理由であれば、「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」がいいという価値観を受け入れることになり、古典を訳す意味はなくなる。後進国知識人型の翻訳からの脱却こそが、目指すべき方向だと考えている。長谷川宏が切り開いた道を進むこと、今後の古典翻訳のあり方だと思う。
 

古典新訳の流れを本格化させるには

 かなりの数の出版社が少なくともラインナップのひとつとして、古典の新訳を考えているのは心強いことだが、心配もある。各社からときおり古典新訳が出版されても、大量にでてくる新刊の山に埋もれてしまうのではないかという心配である。

 古典は前述のように、「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」がいいという価値観とは、ある意味で正反対の価値観に基づくものだ。だから、少なくとも過去何年間かに主流であった価値観とは違う価値観を強く主張しなければ、それこそ「いい本なのに売れなかった」という結果になりかねない。

 価値観の問題というのは厄介なようで、じつは解決が簡単でもある。出版業界全体の価値観、読者全体の価値観を変えようと思うととんでもなく大変なことだと思えるだろうが、簡単にすりぬけることもできる問題でもある。

 出版は多品種少量生産だから、ごく一部の読者に関心をもってもらえればいい。日本語の本の市場には読者になりうる人が1億2000万人ほどいるので、そのうち1%に買ってもらえれば120万部の大ベストセラーになる。古典の新訳はもちろん、そんな大ヒットを狙わないので、0.1%以下でいい。

 前述のように、「すらすら読める本、分かりやすく、かんたんに書いてある本」がいいという価値観がいまの主流だとするなら、この価値観を嫌う人もいるし、そんな価値観をもっていない人もたくさんいるはずだ。そういう人たちに古典新訳の良さを伝えられれば、価値観の問題は解決する。

 だがもちろん、潜在読者に古典新訳の良さを伝えるのは、それほど簡単ではない。古典新訳が個々ばらばらにでてくる状況では、いかにも力不足である。理想的なのは、いくつかの出版社が古典新訳シリーズを競い合う状況だが(1970年代後半から80年代前半にかけて、そういう状況になったが)、当面そういう状況にはなりえないだろう。

 まずは、1社でいいから、そして点数は少なくてもいいから、古典新訳のシリーズを企画してほしいと願っている。それが難しければ、古典新訳を刊行する各社が協力して宣伝し販売する体制ができればと願っている。数は力という面はかならずあるのだから。

2003年1月号