出版不況のなかで
山岡洋一
苦境は飛躍の好機
疾風に勁草を知るという言葉がある。艱難汝を玉にすという言葉もある。苦境のときこそ飛躍の機会だという教えだ。
そんな古い言葉をもちださなくてもというのであれば、ジム・コリンズの言葉を引用しよう。コリンズは世界的な大ベストセラーになった名著、『ビジョナ
リー・カンパニー2 飛躍の法則』の著者であり、強大な企業の没落を扱った最近の著書で、こう論じている。「偉大な組織を築く原則をつねに守っているので
あれば、跪いて、厳しい波乱が起こるよう神に祈るべきだ」。波乱の時期こそ、「規律を維持する強烈な意思をもたない競争相手を大きく突き放す」機会になる
というのである(同書は拙訳で近く日経BP社から出版される)。
こんな言葉をもちだすのはもちろん、翻訳出版が、そして出版業界全体がこの2年ほど、未曽有の不況に苦しんでいるからだ。本が売れないというのは、10
年ほど前から挨拶代わりの言葉になってきたので、いまさらの感があるが、この2年ほど、悲鳴に近い響きをもつようになった。いまなら、小説は『1Q84』
の一人勝ち、ビジネス書は『もしドラ』の一人勝ちで、新潮社とダイヤモンド社は喜んでいるだろうが、他はさっぱりという状況にある。そのうえ、広告収入が
激減して雑誌部門が惨憺たる状態になっている。希望退職や人員整理の噂が飛び交っているし、存続が危ぶまれる出版社もあるようだ。当然ながら、出版翻訳も
ごく少数の例外を除けば絶不調だ。本が売れないのだから、出版翻訳者が潤っているわけがない。
製造業なら好不況の波には慣れている。2008年第4四半期に景気が急激に冷え込んだとき、優れたメーカーはZ旗を掲げ、全社一丸になって危機に対応し
た。思い切ってコストを削減して売上の急減に耐えられるようにするとともに、つぎの成長分野に資源を集中して、急激な景気後退の後にかならず起こる急激な
景気回復に備えている。
だが、出版業界は失われた10年といわれた90年代すら好調を維持していたので、いうならば不況慣れしていないのだろう。出版会社すら不況には慣れてい
ないのだから、出版翻訳者はもちろん慣れていない。このためだろうが、危機だから目の色が変わるのではなく、元気を失っていくことが少なくないようだ。な
にしろ先行きは真っ暗と思えるのだから、元気になれるはずがない。
じつのところ、不況の時期には、先行きが真っ暗だとみえるものなのであり、だからこそ不況になっているのだが(景気は「気」の問題だからだが)、そうい
う覚めた見方もあまりないように思える。不況とは、今度ばかりは違うと思える時期だ。今度ばかりは好況に戻ることはなく、不況がどこまでも続くと思える時
期なのである。
そう思える理由は毎回違うが、今回はたとえば、インターネットとの競争に負けているのだから、新聞や雑誌に広告が戻ってくることはもうないといわれてい
る。そのうえ、電子出版の衝撃がある。キンドルなどの電子出版との競争に負けて、書籍の時代は終わるといわれている。要するに紙媒体には将来性はなく、い
まの不況は一時的な現象ではなく、新しい時代の始まりなのだというのである。
この見方によれば、勁草だろうが玉だろうが関係ないということになる。20世紀初めに自動車が普及したとき、輸送手段としての馬が不要になり、それとと
もに、馬車から蹄鉄や鞭にいたるまで、じつに多種多様な商品がほとんど不要になって、製造にたずさわっていた職人のほとんどが失業した。その轍を踏みたく
ないのなら、もっと柔軟になり、もっと機敏になって、早めに新天地を求めるべきだというのが結論である。
経済・経営関係の翻訳を長く続けてきたので、他業種のことであれば、この種の話を何度となく訳してきた。だから、自分が関係している業種で同じことがい
われているのを聞くと、真剣になるべきなのに、不謹慎にも笑いたくなってしまう。そうかそうか、そう思うのか、少し落ち着いて考えてみようよともいいたく
なる。だからまず、苦境のときこそ飛躍の機会だという昔からの教えをもちだしたのだ。それでは心許ないという人のために、少し分析的に考えてみよう。以下
では主に出版翻訳者がどう考え、どう行動すべきかを考えていくが、翻訳出版にたずさわる編集者などの個人にも、同じことがいえるはずである。
苦境のときにはおそらく、希望的観測に基づいて行動するのがいちばん危ない。期待が裏切られる事態が繰り返せば、元気がなくなっていくし、蓄えが乏しく
なっていくことにもなりかねない。しかるべき人に助言を求めればたぶん、最悪の事態を想定しておきなさいと助言されるはずなので、そうしてみることにしよ
う。最悪の事態を想定するとは、実現する可能性がゼロではないが、ごくごく低い事態が起こると考えることである。だから、非現実的ともいえる想定であるこ
とを前提に、以下を読んでいただきたい。
最悪の事態は、いまいわれているように、紙媒体の未来はないというものだ。雑誌はつぎつぎに休刊になり、出版は本がますます売れなくなって先細りになっ
ていく。そうなると想定した場合、どういう行動をとるべきか。出版翻訳者という個人の立場では(出版社の編集者でも同じだが)、大きくいえば、取るべき行
動は2つに1つである。去るか残るかだ。
去るのは、時代に取り残されないように、柔軟に考え、機敏に動く方法である。たとえば、紙媒体の出版翻訳に見切りをつけて、電子出版にいちはやく進出す
る方法もある。新しい分野に真っ先に進出すれば、他の追随を許さない地歩を築けるといわれることが多い。だから、早く進出した方がいいというわけだ。
そう思うのなら、そうすればいいと思うのだが、注意しておくべき点もある。たとえば、インターネットのブラウザーをいちはやく開発したのはネットスケー
プであり、いまある形のインターネット自体を開発したのが同社だといえるほどなのだが、同社が他社の追随を許さなかったかどうか、考えてみるといい。ま
た、グーグルが検索サイトの草分けかどうかも考えてみるといい。電子出版に未来があるのだとしても、もっというなら、電子出版にしか未来がないのだとして
も、焦ることはないといえるかもしれない。電子出版の帰趨が決まるまで待っても、遅くはないはずである。
紙媒体の出版翻訳に見切りをつけたときの行き先は、電子出版とはかぎらない。まったくかけ離れた分野に進みたい人もいるだろう。それを止めるよう説得し
ようなどとは思わない。
なぜかというと、不況の際に淘汰が進むのは世の中のつねだからだ。淘汰というと、力や立場が弱いものが競争に負けて脱落していくことだと思えるかもしれ
ないが、そうとはかぎらない。他の分野に移れるだけの資力があり、頭が柔軟で、機敏な人が真っ先に逃げだす。出版翻訳の場合なら、残るのは柔軟でも機敏で
もないが、出版翻訳への情熱と愛着だけは強い翻訳者だろう。情熱だとか愛着だとか、屁のつっぱりにもならないものにこだわっているから、時代に取り残され
るともいえる。だから問題は、取り残されるのか残るのかだ。みずからの意思で残るのであれば、最悪の事態を想定しても、未来が暗いとはかぎらない。
そこで、残る方法について考えてみよう。出版不況はすぐに終わって、出版翻訳で稼げる時代に戻るだろうという希望的観測のもとで残るのではない。もっと
現実的に考え、翻訳出版の市場は少しずつ縮小していくとしても消滅することはないという想定のもとで残るのでもない。最悪の事態を想定し、翻訳出版の市場
が今後、急速に縮小して先細りになると考えたうえで残るのである。
このときに問題なのは、出版翻訳に強い情熱をもつ翻訳者が今後、仕事を確保できるかだろう。翻訳出版の市場は今後ますます縮小していく。しかも縮小の
ペースが今後加速していく。その場合、翻訳者の仕事はどうなるのか。
自動車の普及で馬が不要になった例をみるなら、確かに馬車や蹄鉄や鞭はほとんど不要になった。それらを生産していた職人もほとんど失業し、他の職業に
移っていった。だが、ここで重要なのは、「ほとんど」という点である。ほとんど不要になるとは、逆にいえば、ごく一部は残っているということだ。ごく一部
でも残っているのであれば、出版翻訳者は会社組織ではなく個人事業主なので、充分な市場を確保できる。市場がほとんどなくなって、たとえば現在の100分
の1にすぎなくなるのだとしても、最後の一人になる覚悟があれば、何ということもない。
最後の一人になる覚悟というと、悲壮な様子を想像されるかもしれない。妻子に逃げられ、友人にも見放され、多摩川あたりの橋の下に防水シートと段ボール
で生活の場を確保し、ゴミ捨て場で拾ってきた裏紙に、出すあてのない翻訳原稿を書いているといった図である。実際にはそうはならないはずである。最後の一
人になれば、市場を独り占めできるからだ。精一杯わがままをいって、自分が好きな仕事を好きなときに行っていれば、充分な収入を確保できるようになるだろ
う。考えただけでもうれしくなるような状態なのだ。
だから、最後の一人になる覚悟があれば胆がすわって、たいていのことが怖くなくなるのは事実でも、これでは最悪の事態を想定したことにならない。最悪の
事態では、最後の一人にはなかなかなれない。市場が急速に縮小していくなかで、出版翻訳者が多すぎる状況が続く。小さくなっていくパイを多数が奪いあう状
況になり、生活できる収入が得られなくなる。こういう状況を想定して何をすべきか。
結論をいうなら、出版の原点に戻るべきだと思う。出版で、というよりも執筆で、生活ができるほどの収入が得られるというのは、比較的新しい現象だ。もと
もと執筆も、その一つである翻訳も、収入を得るためのものではなかった。文化活動であって、世の中に必要だと思う点、世の中に残しておきたい点を書くこと
だけが目的だった。収入が得られたとしても、それは副次的な結果であって、目的ではありえない。だから、執筆者、翻訳者は他の手段で収入を得て、暇な時間
を執筆や翻訳にあてる。
この原点に戻って、収入を目的にしないのであれば、翻訳者は思いきり自由になれる。自分が是非とも行いたいと思う翻訳に、ほんとうに役立つはずだと確信
できる本の翻訳に時間をかけて取り組めばいい。あふれる情熱をもって、寝食を忘れて取り組める翻訳、自分はこの本を訳すために生まれてきたのだと実感でき
る翻訳に取り組めばいい。
自分が訳したい本を選んで翻訳したとき、はたして読者がいるのだろうかと心配になるかもしれない。だが、心配することはない。その理由は、逆を考えてみ
るとよく分かるはずだ。生活のため、人並みの収入を得ることだけを目的に翻訳に取り組む。売れ筋の本だけを選んで訳す。あるいは、売れ筋の本の訳者に選ん
でもらえるようになることを目標に、いまは贅沢をいわず、どんな本でも訳すようにする。訳す本はとくに好きな種類ではないし、情熱がわく本ではもちろんな
い。世の中にはこういう本を読む人が多いようで、どこが面白いのか理解に苦しみましたが、とりあえず訳してみました……。あるいはこうだ。自分ではこんな
馬鹿な本を読みたいなんて思いませんが、こういうのがいまの売れ筋だということなので、訳してみました……。落ち着いて考えてみると、こういう姿勢で訳し
た本の方がはるかに、読者がいるのだろうかと心配になるのではないだろうか。そう、いま本が売れなくなっている一因は、このような安易な姿勢で作られた本
が多すぎることにあるのだと思う。いずれ読者に飽きられ、あきれられるのは当然なのだから。
また、情熱をもって翻訳できる本なら、ごく少数であってもかならず読者はいる。出版というのは、そもそも少数派に支持されることを目標にする仕事だか
ら、少数派になるのを恐れないことが肝心だ。『1Q84』が100万部売れたといっても、99%の人は買っていない。わずか1%ほどの少数派に支持された
だけではないか。選挙に出ようというのではないのだから、ごくごく少数の人に支持されればいい。それに、これこれをしなければ時代の流れに取り残されると
脅す人はいつもいる。そう脅されたときは、時代の流れに背を向けると胸をはればいい。
要するに、出版翻訳の市場が急速に縮小していき、その割に翻訳者の数が減らないので、翻訳者が生活できる収入を得られなくなるという最悪の事態を想定し
ても、収入を出版翻訳に依存しない態勢さえ整えておけば、将来はそれほど暗いわけではない。それどころか、ほんとうに社会に役立つはずの本を、しっかりと
訳せるようになる可能性すらみえてくる。そもそも出版翻訳は、文化の一端を担う仕事である。日本文化の土台を支える重要な仕事である。これほど重要な仕事
を、生活費稼ぎの手段にすること自体が間違っているのかもしれない。文化活動として質の高い仕事をしていれば、支持してくださる読者はかならずいる。ごく
少数であっても、強い支持者がいる方が、訳書がベストセラー・リストに入ってすぐに忘れられていくより、はるかにいい。
出版の将来は暗く、出版翻訳の将来も暗いと思うのであれば、早めに見切りををつけて、他の分野に進めばいい。将来が暗かろうが、出版翻訳が好きだという
人、出版翻訳に情熱と愛着をもっているという人だけが残ればいい。そして、残った翻訳者が出版翻訳の質を高めるために、必死になればいい。本が売れなく
なった一因は、本の質が落ちたことにある。読者の支持を取り戻すには、本の質を高め、翻訳の質を高めていくしかない。出版翻訳に強い情熱をもつ人だけが残
れば、質を高めていくことは可能なはずだ。だから、不況も悪いものではない。疾風に勁草を知るというのは、確かな真実なのだ。
(2010年5月号)