モンゴルの翻訳事情(3)
北村彰秀
出版翻訳(日本文学等)
 
 前回、ハリー・ポッターについて触れたが、そのシリーズの2冊目の翻訳がすでに出ている。1冊目と同様、ハードカバーの立派な本であり、そのため高価で もある。この値段では、モンゴルでベストセラー入りすることは難しいのではないかと思う。おそらく、翻訳の働きの陰には、この作品をモンゴルに紹介したい と思っている方々がいることと思う。
 児童文学では、最近ではアンデルセンも含め、世界の主な児童文学がモンゴル語で読めるようになって来た。
 日本の児童文学では、「竜の子太郎」がかなり前から出ていた。この作品は国際的な賞も受賞しているため、海外でも注目されているものと思われる。モンゴ ル語訳はロシア語訳からの重訳であると思うが、確認していない。児童文学ということでもあり、社会主義体制下のモンゴルでも読まれたものと思われる。
 最近、この「竜の子太郎」の新しい版が、カラーの表紙付きで出た。この本はなぜか、翻訳者名が書かれていない。(どのような理由であれ、やはり、責任の 所在をはっきりさせるために、書いておくべきであろう。)また、表紙の絵の主人公は和服とも洋服とも言いがたいものを着て、下駄ともサンダルとも言いがた いものをはいている。また、民家の前の平地は、田畑ではなく、草原になっている。やはり、現在のところモンゴル人画家に、日本に関する深い知識を期待する のは無理ということかもしれない。
 この本の活字は、従来の教育用活字でもなく、印刷物に普通に使われる活字でもなく、その中間的なものを使っていて、独特である。活字の使用についても、 民主化以後のモンゴルは、自由になってきたということかもしれない。
 最近は、同じ著者の「ちいさいモモちゃん」も訳されている。これは日本人による翻訳である。そのためか、表紙や挿絵にも、特に違和感を覚えるようなもの は見られない。
大江健三郎の「遅れて来た青年」の翻訳も、かなり前から出ていた。ただしこれはロシア語訳からの重訳である。モンゴルも最近ではかなり立派な日蒙辞典が出 ているが、少し前の時期になると、直接日本語から訳すのは困難であったものと思われる。「遅れて来た青年」は資本主義社会の醜い面も描かれていて、そのよ うな理由からも、ソ連やモンゴルで翻訳出版されたものと思われる。
 少し前に、安部公房の「砂の女」のモンゴル語訳が出た。この作品は私自身、読んでもほとんど感動を覚えなかった作品である。しかし、今改めて考えてみる のであるが、モンゴルが秘境と思われていた時代もあったし、革命直後は日本とほとんど情報の行き来がなかった国である。また、最近では、モンゴルからアメ リカや韓国に出て、長期滞在、あるいは永住するモンゴル人も出てきた。このことを考えるときに、「砂の女」の、異なった社会に入っていくという話は、大き な問題提起であるに違いない。この作品を復習してみる必要があるのではないかと、最近思わされている。
 夏目漱石の作品では1990年に「三四郎」が翻訳された。ちょうどモンゴルの民主化の始まるころである。民主化により、モンゴルは社会主義建設、共産主 義社会の建設という理想を失った。また、マルクス・レーニン主義というものが、社会や個人のよりどころではなくなってきた。そのような中で、この小説の、 はっきりした目標がなく、明確な人生の方向性のない主人公の姿は、現代の青年、あるいはすべてのモンゴル国民に対する、1つの大きな警告、あるいは強い メッセージを発するものとなっている。また、小説の最後に完成する美人画とモンゴルの現在の姿を重ねて読む読者もあるのではないかと思う。美人画に描かれ た女性は、決して模範的女性ではない。翻訳者が民主化による社会の変化というものをどこまで予測してこの作品を訳したのかはわからないが、序文の中に、 「当時の日本社会の状況がこのような主人公を生み出した」と翻訳者が言及していることは、やはり注目すべきであろう。そして、この作品は翻訳者が予想して いなかったような意味を持ち始めているのではないかとわたしは思う。
 なお、この本の表紙も、寝巻きのような和服を着た女性、日本庭園のような風景等、かなりわれわれにとっては違和感を覚えるものである。三四郎の服装や手 に持っているものも、どことなく不自然である。この絵は、日本はモンゴルとは別の世界であるということを強調するようなものになっている。しかし、漱石の 書こうとしたものは、特殊な世界ではなく、かなり普遍的なものである。小説の内容や日本の姿を正しく伝えてほしいと思うのであるが、日本語を学んだり、日 本の小説を読んだりするのは、日本の独特の文化や社会に対する興味が動機となっていることが多いということも否定できないであろう。
 民主化のころまでは、本を出版する場合、出版部数も記すことが多かった。「三四郎」の奥付のところには、1万部印刷したと書かれている。
 漱石の作品では、「我輩は猫である」も翻訳が出ている。それ以外にも、1つか2つあったと思う。
 福沢諭吉の「学問のすすめ」のモンゴル語訳についても触れなければならない。この作品は、日本でベストセラーになりながら、その後ほとんど読まれなくな り、アジア各国で読まれるようになって来た。ちょうど連続テレビ小説「おしん」のような運命をたどった作品である。(ただし、最近では日本でも斎藤孝氏の 現代語訳が出て、多少読まれているようであるが。)モンゴル語訳の翻訳者は文語の原文からではなく、斎藤氏以前に出た現代語訳をもとにして訳したようであ る。「自活できるようになっただけで満足してはいけない」と説き、服装に対する注意まで書かれているこの作品は、場所や時代を超えた魅力を持っている。し かし、それと同時に、アジアという地域、また、民主化以後の新たな国づくりの時期という時代の中で、この翻訳は生きていくものであると思う。ただ、かなり 高価であるのは残念である。なお、「三四郎」も「学問のすすめ」も、翻訳者は女性である。
 翻訳者トゥムルバータルについても書いておきたい。彼の翻訳としてはまず、「空飛ぶオートバイ――本田宗一郎物語」がある。この原作は、本田宗一郎氏の 自伝を子供向けに書き換えたものであると思うが、翻訳も子供向けの表紙になっている。(モンゴルでは翻訳書も数が限られているため、むしろ、大人にも読ま れるような表紙にしたほうがよいのではないかと思われ、その点は残念である。)これは短いものであるが、読んで面白いし、また、元気の出る作品である。日 本の自動車産業についての理解を深めることもできる。
 彼はまた、新渡戸稲造の「武士道」も訳している。「武士道」の原著は英文であるが、トゥムルバータル氏は、日本語訳からモンゴル語に訳したようである。 彼の翻訳は、大学でモンゴル語を専攻した日本人であれば、辞書なしで読めるほどやさしい。「やさしい文章で」というのが彼の方針のようである。文章をやさ しくすると、ある意味で文学的質は下がるかもしれないが、一般により多くの読者を獲得できるというメリットがある。おそらく、これが彼の意図したところで あろう。
 その他の日本の作品では、司馬遼太郎、開高健などのものが訳されている。また、源氏物語も、まだ全訳ではないが、翻訳が出ている。
 その他、多少変ったところでは、「ホーキング、宇宙を語る」や「ノストラダムスの大予言」の翻訳も出ている。ホーキングはあまり読まれなかったようであ るが、ノストラダムスは、少なくともある程度モンゴル人の関心の的となったようである。
 モンゴルは詩作の盛んな国である。そのためか、ダンテの神曲や、シェークスピアのソネット集の翻訳も出ている。詩の翻訳は優れたものもあり、たとえば プーシュキンの長編詩「金の魚」の訳(翻訳者はモンゴルの有名な作家ダムディンスレン)は原文よりも優れていると言われている。
 また、満洲語の作品の翻訳が読めることはモンゴルならではである。有名な歴史書である満洲実録の翻訳、また満洲民族の最もよく知られた文学であるニシャ ン・サマンの書の翻訳が最近出ている。ただし、満洲実録の翻訳は、清朝時代の翻訳に基づいたものと思われる。
 翻訳は外の世界に向かって目を開かせてくれるものである。しかし、それとは別に、あるいはそれと同時に、原作が異なった時代や場所に投げ込まれることに よって、新しい意味を持ち始めたり、予期しない影響を及ぼしたりすることがある。ほとんど注目されなかった作品が注目を集めるということも、ありうること である。このあたりに翻訳という仕事の1つの醍醐味があるのかもしれない。いろいろな作品のモンゴル語訳が新しい世界を切り開いていくことを期待したい。
(2011年6月号)