出版の現状

ゆっくりと静かに進むパニック

     山岡洋一   

  出版業界でパニックが起こっている。派手な倒産はない。打ち壊しもない。死者や行方不明者が続出することもない。悲鳴は聞こえない。世間の注目が集まることもない。だが、ゆっくりと静かに、パニックが進行している。

 ひとつの時代が終わり、新しい時代がやがてはじまろうとするとき、パニックのひとつやふたつ珍しくもない。地中でも水中でも、好きなところに身を隠し、パニックが通りすぎるのを待つのもよし。騒ぎに乗じて日頃の鬱憤を晴らすのもよし。だが、待っていれば寿命が尽きかねず、騒ぎらしい騒ぎもないので鬱憤を晴らせないとなれば、どうすればいいのか。

悪循環
 本が売れない。売れないから、出版社は出版点数を増やして売上を確保しようとする。この状態がすでに20年以上も続いている。新刊1点当たり市場規模はなんと1980年がピークであり、過去20年に半分近くになった。だが、いまでは、点数を増やしても売上を維持できないことがはっきりしてきた。書籍の市場規模は1997年の約1兆1000億円をピークに、5年連続して減少している。いまではピーク時より15%ほども縮小して10年前の水準に戻った。

 本が売れない。売れないから出版点数を増やす。点数を増やすから質が低下する。質が下がるから売れなくなる。売れないから点数を増やす。点数を増やすから売れなくなる。これを悪循環という。

 良書は売れない。だれに聞いても答えはおなじだ。良書は売れない。売れる本を出そう。売れる本とはどういう本か。だれも答えはもっていない。下手な鉄砲式に数多く出して、当たるのを待つしかない。当たらなければせいぜい3000部、当たれば100万部。100万部の大ヒットがあれば、出版社は2年か3年は安心できる。だから100万部を狙う。

 どれが当たるかはだれにも分からない。だが、分かっていることもある。100万部を狙うのだから、普段は本を読まない層が買ってくれる本でなければならない。読みやすくて、分かりやすくて、薄い本(内容も薄い本)。これしかない。普段は本を読まない層に狙いを定める。言い換えれば、読書が趣味という層、読書家と呼ばれていた層は相手にしない。相手にされなくなった読書家はどうするのか。当たり前の行動をとる。書店に寄りつかなくなるのだ。本を買わなくなる。いちばん本を買っていた層が本を買わなくなる。

 その結果どうなるか。売れているから、話題になっているから買う層しか、本を買わなくなる。売れている本は売れるが、それ以外の本は売れない。二極分化だ。当たれば売れる。当たらなければまったく売れない。大ヒットは次々に出てくるが、全体としては本は売れなくなる。売れないから大ヒットを狙う。大ヒットを狙うから売れなくなる。これを悪循環という。

 悪循環に陥っていることは分かっている。分かっているが、抜け出せない。どうすれば抜け出せるのかが分からない。こういうときにどうすればいいのか。答えはひとつしかない。基本に戻る。これしかない。悪循環に苦しんでいるのなら基本に戻る。そして、一から立て直す。これしか方法はない。

そもそも本とは……
 そもそも本とは何なのか。そんなことを考えながら歩いていたとき、ヒントにぶつかった。弁当を買いに入ろうとしたコンビニの店先に、ごみ箱が並んでいた。そのひとつに「新聞・雑誌」と書いてあったのだ。

 たいていの新聞社には出版部があるし、雑誌と本はどちらも出版社で発行し、書店で売られている。だから、新聞・雑誌と本は親戚のようなものだ。だが、コンビニの店先にも駅にも「新聞・雑誌」と書かれたごみ箱はあるのに、「新聞・雑誌・本」と書かれたごみ箱がないところをみると、本には新聞や雑誌と基本的な違いがあるのだろう。

 新聞や雑誌は捨てるものと決まっている。読んだ後はごみになる。だから、「新聞・雑誌」と書かれたごみ箱がある。本はどうだろう。本はごみにならない。本は何度でも読む。そのためにおいておく。だから、新聞棚や雑誌棚はないのに、本棚がある。

 家には本棚があり、コンビニや駅には「新聞・雑誌」と書かれたごみ箱がある。この点から、本という媒体の特徴を考え、強みを考えていくこともできるはずだ。

 だが、新聞や雑誌と本の「違い」を考える前に、「共通点」を考えておくべきだろう。共通点があるから違いがあるのだ。新聞、雑誌、本に共通する点は何か。情報を吸収する手段であることという答えもありうるが、「情報」は意味範囲が狭すぎるし、流行りの言葉でありすぎる。情報などという言葉をほとんどだれも使わなかった時代にも新聞や雑誌、本はあったのだ。もっと広い意味をもった言葉を使うなら、文字を使って学ぶ手段であることといえるだろう。

 文字を使って学ぶというのがどういうことか、少し考えてみよう。

猫はなぜ鼠を見せにくるのか
 猫は鼠を捕まえると、飼い主に見せにくる。褒めてほしいのだろうと思っていた。ところが、猫好きに言わせると、それは誤解なのだそうだ。猫が鼠を見せにくるのは、飼い主を飼い主とは思っておらず、鼠もとれない不器用なヤツだと思っているからだという。ほら、こうやって捕るのだと見せにくる。不器用な猫や怖がりの猫は、そうやって教えられて鼠を捕るようになるのだそうだ。

 つまり、猫も他の猫の真似をする。真似をして学ぶ。猫は学習するのだ。

 猫の額という言葉がある。うちの庭に桜があって、いや猫の額ほどの庭なんですがね……などという。猫の額は狭い。なぜか。額の下にある前頭葉が小さいから。前頭葉というのは、いわゆる知能をつかさどる部分だ。前頭葉が小さいとは要するに、頭が悪いということなのだ。その証拠に、犬に芸を仕込むのは簡単だが、猫に芸を仕込むのは容易ではない。虎の曲芸はあるが、猫の曲芸は聞いたことがない。

 前頭葉が小さく、頭が悪い猫でも学習をする。他の猫に学ぶ。学ばなければ生きていく資格がないどころではない。学ばなければ生きていけないのだ。人間はもちろん、学ぶ動物だ。どの動物よりも学ぶ。人間が人間であるのはどの動物よりも学ぶからだ。
 猫が学ぶとき、どの猫から学ぶのか。親猫から学ぶ。兄弟姉妹からも学ぶ。隣の猫からも学ぶだろう。喧嘩相手からだって学ぶはずだ。だが、学べる相手は限られている。猫の短い一生の間に、行動範囲の中にいて、直接に触れ合った相手からしか学べない。学ぶ相手はそう多くない。だから前頭葉が発達せず、額が狭いのかどうかは分からないが。

 人間も、文字がなかった時代には猫とおなじで、一生のなかで会った人からしか学べなかった。ところが文字が使われるようになって、学べる範囲がはるかに広がった。会ったことがない人からも学べる。はるか昔に死んだ人からも学べる。文字によって、人間の学習能力は飛躍的に高まった。時間の壁と空間の壁を乗り越えて学べるようになったのだ。文字が使われるようになって数千年に、それまで何十万年かとは比較にならないペースで文明が発達したのは偶然ではない。

 ちなみに、文字と翻訳の組み合わせによって、人間は考えられるかぎりの障壁を乗り越えて学べるようになった。時間の壁、空間の壁、言葉の壁をすべて乗り越え、数千年の昔から現在まで、世界のどの地域で、どのような言語で考えられたものからでも学べるようになった。人は個々人としてではなく、家族や氏族や部族や民族としてですらなく、人類として知識を蓄積し学んでいけるようになったのだ。人は個人として考えたり行動したりしているときにも、つねに人類が蓄積してきた英知を利用している。

新聞・雑誌の良さと本の良さ
 新聞・雑誌と本には、文字を使って学ぶ手段という共通点があるが、あきらかに違う点もある。どう違うかは、「新聞・雑誌」と書かれたごみ箱があることから容易に想像できる。新聞・雑誌は読んだら捨てる。何か月かたって読み返すことはないし、まして何年もたって読み返すことはない(調査や研究といった特別の事情があれば別だが)。

 これは、新聞や雑誌が主にたったいまの新しい知識、「情報」と呼ばれているものを学ぶ手段として使われているからだ。情報には新しいから価値があるという性格がある。昨日の新聞は読まない。先月の雑誌は読まない。情報が古くなって価値がなくなるからだ。情報の「時間価値」を図に描くと、急激な右下がりになる。つまり情報の価値は時間とともに急速に減少する。

 こうも言える。新聞や雑誌は、時間の壁と空間の壁のうち、時間の壁を乗り越えること(言い換えれば過去に書かれたものから学ぶこと)にはあまり関係しない。もっぱら空間の壁を乗り越えて学ぶ手段として使われているのだ。

 本はどうだろう。本ももちろん、空間の壁を乗り越える手段になるし、翻訳書の場合には同時に言葉の壁を乗り越える手段にもなる。だが、本にはあきらかな弱みもある。インターネットや放送はもちろん、新聞や雑誌と比較してすら、時間がかかる。通常は原稿が完成してから出版までに2か月かかる。企画から出版までなら、最低でも3か月、長ければ何年もかかる。緊急出版でも、企画から出版まで2か月なら、きわめて速いといえる。このため、時間とともに急激に減価する情報を伝えようとすると、出版された時点ですでに古い情報になっているのが通常だ。

 反面、本には新聞や雑誌にはない強みもある。「新聞・雑誌・本」と書かれたごみ箱がない事実、新聞棚や雑誌棚がないのに本棚がある事実(もうひとつ付け加えるなら、新古書店や古書店があるのに、古雑誌や古雑誌は資源回収の対象にしかならない事実)が示す強みだ。

 ひとつには、時間とともに急激に減価する情報ではなく、時間が経過しても価値が変わらない知識や考え方、ときには時間とともに逆に価値が高まる知識や考え方などを学ぶ手段として、本は圧倒的な強みをもっている。たとえば経済や社会、政治や法律、技術や科学などの基本は、5年や10年で変わったりはしない。変わるのはごくごく表面的な部分だけだ。哲学や思想、宗教や文化、文学や美術は、流行り廃り〔はやりすたり〕はあっても、時間が経過するとともに、それも100年単位の時間が経過するとともに価値が高まっていくものが少なくない。こうした分野では、時の試練を経て生き残るもの、生き残っているものしか、学ぶ価値はないともいえる。時の試練を経て生き残った知識や考え方を学ぼうとするとき、本に勝る媒体はない。

 これに関連してもうひとつ、本の強みがある。新聞・雑誌は読んだら捨てるものだが、本は読んだら本棚においておき、何度も繰り返して読む。読むたびに新しい発見があり、理解が深まる。新しい感動がある。一度読んだだけでは理解できない知識や考え方を学ぶときや伝えるとき、本に勝る媒体はない。

 誤解のないように付け加えるなら、新聞や雑誌を読んだら捨てるのは、価値が低いからではない。第1に、価値が高いから買われており、読まれている。しかも、専用のごみ箱ができるほど大量に読まれている。第2に、一読すれば情報を吸収できるほど、巧みに書かれている。読み手の立場からはありがたいことだし、書き手の立場からは理想とすべきことである。

 逆に、本という媒体に、一読しただけでは分からない文章が書かれているとき、そのこと自体には何の価値もない。ほとんどの場合、文章が下手なだけである。価値が低い証拠だと考えても差し支えないほどだ。だが、世の中は簡単ではないし、人間は単純ではないし、自然は複雑だ。学ぶ価値がある知識や考え方なら、一読しただけでは分からないとしても不思議ではない。そして読者の側には、一読したくらいでは分からない深い知識や考え方を学びたいという欲求がある。だが、ほんとうに価値が高い知識や考え方を伝えているからむずかしいのか、それとも文章が下手だからむずかしく感じるだけなのかは、簡単には判断がつかない。本の場合にはありがたいことに、時の試練を経て、本物が生き残る仕組み(少なくとも本物とみられているものが生き残る仕組み)がある。この仕組みを使えば、読む本を絞り込むことができる。

パニックの実態
 このように基本に戻って考えていくと、ゆっくりと静かに進むパニックの正体がみえてくる。すべてはひとつの問題からはじまった。本が売れない。これが出発点だ。

 しかし、パニックが進行しているのは、本が売れなくなってきたからではない。本が売れないという現実は20年ほど前からあった。これだけならパニックにはならない。本が売れないという現実があり、それに対する対策を出版業界は講じてきた。ひとつには、点数を増やす方法をとってきた。そしてもうひとつ、「売れる本」を出版する方法をとってきた。この2つの方法はつい最近まで、1990年代半ばまで奏功してきた。本が売れない状況があるなかで、書籍の市場規模が1980年のほぼ7000億円から、1997年の約1兆1000億円まで拡大してきた。

 だが、この5年間に状況が変わった。本が売れない状況は変わっていない。それだけでなく、本が売れない現実に対して出版業界がとってきた対策が効果をもたなくなってきた。そして、効果をもたないどころか、逆効果になっていることが明白になってきた。

 点数を増やしすぎたという思いは出版関係者のほぼ全員に共通している。いまや、年間の出版点数は7万点だ。これでは増やしすぎだ、これでは売れなくなって当然だと、みなが考えている。だったら出版点数を絞り込めばいいではないかと思うかもしれない。だが、業界全体で絞り込まなければ意味がない。1社で絞り込めば、点数に比例して売上が減少するだけになりかねない。分かっているけど止められない。何とも苦しい状況だ。だからパニックがゆっくりと静かに進む状況になっている。

 これは常識だ。だからこの点についてくわしく論じようとは思わない。ここで論じたいのはもうひとつの対策についてだ。「売れる本」を出す。これでうまくいくはずだった。ところがいま、この対策が逆効果になっている。売れる本ばかり出すから本が売れなくなっているのだ。

 本が売れなくなってきた。だったら売れる本を出そう。これは当然の対策だ。この対策をとってきた結果、どうなったか。書籍の市場が荒廃してきた。本がますます売れなくなった。読書好きは書店に足を運ばなくなった。それもそのはず、出版の世界はいつの間にか、本という媒体がいちばん力を発揮できる部分から遠ざかり、本来不得意とする部分に力を集中するようになってきたのだから。

 隣の芝生は青い。教養は死んだ。文化は死んだ。これからは情報の時代だ。情報をいち早く伝えなければ、情報化社会の競争には勝てない。そう考えて情報を追いかけた結果、本は二束三文になった。本棚という貴重な資源を使える本はもはやない。読めばすぐに新古書店に持っていくか、資源ごみにするしかない。読んだら捨てる。それがいまの新刊だ。

 情報とは何かを考えてみるべきだ。情報とは差分である。変化を伝えるのが情報だ。変わらない部分は情報にならない。情報という観点からみれば、価値があるのは変化した部分だけだ。だが、情報という観点から離れて、生きていくうえに必要なこと、人生を豊かにするうえで大切なこと、社会にとって必要なことという観点からみるなら、ほんとうに重要なのは変化しない部分である。

 本は情報を伝えるのに適しているとはいいがたいが、そう簡単には変化しない知識や考え方を伝えるのに適した媒体だ。この点を忘れているのであれば、本がますます売れなくなっても不思議とはいえない。

出口はどこに
 ここまで読んで、何を言うか、理想を振り回していないで、現実を見てみろと言いたくなった人が少なくないのではないだろうか。一読しただけでは分からない深い知識や考え方を伝えるのが本の役割だと言うのか、冗談ではない。読者はそんな本を求めてはいない。読みやすく理解しやすい本しか売れない。それが現実だ。その現実を踏まえない理屈を振り回して何になるのか……。そう思った人もいるだろう。

 たしかに、問題は簡単ではない。本が売れなくなっているのは、出版社が売れない本を出しつづけているからではない。その正反対だ。売れる本、売れるはずの本を出しつづけているから売れなくなっている。だったら売れない本を出せばいいというのか。そんなことはありえない。

 読みやすく理解しやすい本しか売れない。これはたしかな現実だ。この現実を認識しているから、出版社は読みやすく分かりやすい本を作る。その結果、本が売れなくなっているというのだったら、出口はどこにもないように思える。

 だが、出口はある。現実をしっかりと見ていけば、出口と大きな字で書かれた大きな看板がある。そう考えている。

 問題は単純で、文化にある。文化が波動を描くので、読みやすく分かりやすい本を求める文化がいまのように極端になった時期には、かならず逆方向の力が水面下で蓄積している。その力をうまく活かせば、出口が簡単に見つかるはずである。

文化の問題
「文化」という言葉に、出版業界の一部は拒否反応を示す。問題は文化にあると言おうものなら、すぐに反論が返ってくる。出版は文化事業ではない。営利事業なのだ。文化などという言葉を振り回すから、売れない本を作りつづけて、このざまになったのではないか。倉庫に行けば、「良書」が山積みになっている。体力があれば、ぜんぶ断裁したいのだが、そんな力すらない。紙のままおいておけば転売もできただろうに、印刷して製本したばかりに資源ごみにしかならないではないか。

 だが、ここでいうのは文化勲章の対象になるような文化ではない。文化庁が予算をつけてくれるような文化ではない。文部科学省が推奨してくれるような文化ではない。そんな文化はいらない。そんな文化が文化だと思っているから本が売れなくなったのだ。ただし、それはもう20年も昔の話だ。倉庫に「良書」が山積みになっていたのも、少なくとも10年も前の話だ。いま山積みになっているのは文化勲章の対象になるはずもない本、一発狙いがはずれた本、外れ馬券のような本だ。だがその点はさておき、本題に戻ろう。

 ここでいう文化は、たとえば「企業文化」というときの文化だ。何を大切にし、何を高く評価し、何を嫌うかを決める、そういう文化だ。価値観と言い換えてもいい。

 どの分野にも文化がある。価値観がある。たとえばスポーツの世界なら、勝つのは良いことだという価値観がある。速く、強いのは良いことだという価値観がある。この文化を嫌う人が世の中にいるのは事実だが、そういう人たちを、いうならば無視する。たとえば、勝つのは良くないという価値観をもつ人たち、勝敗を決めるのは良くないと考える人たちに、これからは勝敗を決めたりはしないから野球を見にきてくださいなどとは言わない。勝負が好きな人たちに見にきてもらえるようにする。勝負の素晴らしさ、勝敗を争うからこそ生まれる感動を伝えようとしている。そして、この方針が正しいことは事実をみれば分かる。

 出版ではどうだろう。たとえば、以下の点を考えみよう。

〇 新しいものほど良い。
〇 読みやすいほど良い。
〇 分かりやすいほど良い。
〇 気楽に読める本が良い。
 

 どれも、いまの出版業界に一般的な見方である。これがいまの出版文化であり、価値観である。読者は新しい情報を求めている。読者は読みやすい本を求めている。読者は分かりやすい本を求めている。読者は気楽に読める本を求めている。独善的な良書を作っても売れるはずがない。そう思われている。

 この文化、この価値観をまとめるとこうなる。

〇 学ぶために努力するのは良くない。

 おどろくことはない。これがいまの価値観だ。文部科学省がそう主張している。学校がそう主張している。出版業界がそう考えても不思議だとはいえない。

 運動会の徒競走で一等とか二等とかを決めるのはいけないという話をよく聞く。この価値観を持ち込んだら、スポーツはどうなるのだろうか。衰退するのが目に見えている。だから、スポーツ界はこんな価値観を相手にもしない。

 学ぶのは良くないという価値観を持ち込んだら、出版はどうなるのか。そう考える人がほとんどいないように思えることが、出版の現状で最大の謎である。勝ち負けを決めるのは良くないといわれようが、平等でないのは良くないと言われようが、スポーツの世界はそういう価値観に公然と逆らう選手を集め、勝敗を争うからこそ生まれる感動を求める観客を集めている。おなじ姿勢をなぜ、出版業界がとれないのかが最大の謎である。

 学ぶのは面白い。知らなかったことを学ぶのは楽しい。むずかしいことを学ぶのは心踊る。しっかりしたことを学べば役に立つ。本物の知識を身につけるのはすばらしい。これが出版の基本だ。文部科学省のお役人が何と言おうと、学校の先生が何と言おうと、この基本に戻り、そういう価値観を公然と主張することが、悪循環から抜け出す第一歩になるのではないだろうか。

 この本は古いと言われたら、そう、古いから価値があるのだと胸をはる。読みにくくて分かりにくいと言われたら、世の中も人生も自然もそんなに簡単ではない、むずかしいことが書かれてあるのだから、何度も繰り返し読んでほしいと説明する。気楽に読めないと言われたら、気楽に読めるのは内容がない証拠、この本は内容がしっかりしているから読む価値があるのだと説得する。一流のものに触れ、一流のものを学ぶ手段として本に勝るものはないと教える。そういう姿勢が、悪循環から抜け出す第一歩になるのではないだろうか。

 このように言うと、かならず出てくる反論がある。昔に戻れと言うのか、「良書」を出版しろと言うのかという反論である。馬鹿馬鹿しい。「良書」が良い本なのか考えてみるべきだ。「良書」と呼ばれていたのは良い本ではない。権威ある本だ。有名大学という権威、文化勲章という権威、そういう類の権威に裏付けられた本だ。文部省のお墨付きをもらえそうな本がそう呼ばれていた。権威はあるが内容がない本。むずかしく書かれているだけで、文章が下手なだけで、内容が貧弱な本。

「良書」は死んだ。読書家は馬鹿ではない。見かけ倒しの本、虚仮〔こけ〕脅しの本、権威をふりまわすだけの本、そんな本にへいこらするほど愚かではない。だからこそ、本が売れなくなった。だからこそ、出版業界は過去20年、必死になって対策をとってきた。いまの問題は20年前に戻って解決するようなものではない。

 本物の本を出す。学ぶことの素晴らしさを実感できる本を出す。過去に出版された大量の本のなかから、これこそ本物だといえる本を推奨する。絶版になっていれば再刊する。一流のものを読もうと読者に呼びかける。何が一流のものなのかを読者に教える。一流のものの読み方を読者に教育する。指導する。

 学習を嫌う文化、学習を馬鹿にする文化がいかに強くても、いや、強いからこそ、学びたいという欲求をもった人たちは不満を募らせている。書店に行けば、読みやすく分かりやすく内容が薄い本ばかり目につくが、だからこそ、本物を求める読者は苛立っている。需要が鬱積している。鬱積した需要をうまく引き出せれば、悪循環から抜け出せるだろう。

(2002年10月号)

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