山岡 洋一
まず、書籍の市場規模をみ
てみると、1997年まで拡大を続けてきたが、その後の5年間は縮小傾向にあることが分かる。2002年の市場規模は1兆123億円であり、ピークの
1997年より10%近く縮小している。
もっとも、1兆32億円だった2001年とくらべると、2002年には市場規
模がごくわずかながら拡大した。4年連続の縮小から小幅な拡大に転じたわけで、出版業界にとっては久しぶりの明るいニュースになった。ただし、これは『ハ
リー・ポッター』が爆発的に売れたためだとされ、出版業界全体にとって朗報といえるかどうかは疑問だ。この点については後に触れる。
新刊点数は大幅増
つぎに、市場規模が縮小傾向をたどるなかで、新刊点数は逆に増加を続けてい
る。1990年代末には頭打ちになるかともみられたが、2000年から2002年にかけてふたたび急激な増加傾向に戻った。2002年には7万4259点
であり、前年より4.5%増加し、市場規模がピークになった1997年とくらべると19%も増加している。15年前の1987年というとバブル景気がはじ
まったころだが、当時の新刊点数は約3万7000点なので、その後に2倍になったことになる。30年前とくらべると3.6倍にもなった。
新刊点数の増加は、出版業界が元気な証拠ではない。苦しくなっている証拠だ。
出版社は苦しくなると新刊点数を増やす。新刊をだして取次に納品すれば、売上がたち、収入が入ってくる。売れなければ何か月か後に返本になり、その分の代
金を返却しなければならなくなるが、少なくとも一時的には資金繰りが楽になる。だから、資金繰りが苦しくなった出版社は(つまり、倒産しかねない状況に追
い込まれた出版社は)、融通手形代わりに新刊をだす。出版業界全体で新刊点数が増えているのは、いうならば、出版業界全体で経営が苦しくなっていることを
示すものである。
新刊1点当たりの市場規模
市場規模が縮小傾向にあるなかで新刊点数が増えているのだから、新刊1点当たりの売上は大幅に落ちている。この点は、市場規模を新刊点数で
割って新刊1点当たりの市場規模を算出すれば、ある程度まで確認できる。
新刊1点当たりの市場規模は1980年をピークに、その後20年以上にわたって、大幅に減少してきた。1993年には2064万円だったが、2002年
が1363万円だから、過去10年に34%も減っている。ピークの1980年は2465万円であり、過去22年では45%の減少だ。後に触れるように、出
版は固定費の比率が高く、変動費の比率が低いので、1点当たりの部数と売上が増えると、利益率が急激に高まる。逆に、1点当たりの部数と売上が減ると、利
益率が急激に下がり、赤字にすらなる。だから、新刊1点当たりの市場規模の減少は、出版業界にとってきわめて頭の痛い問題であるはずだ。
それだけではない。じつのところ、市場規模と新刊点数は性格が違うので、新刊1点当たりの市場規模には何の意味もないという考え方も成り立つ。書店で売
られているのは新刊本だけではない。古いものでは50年前に出版された本がいまでも売られている。市場規模は、小売店での新刊本の売上と既刊本の売上を合
計したものなのだ。そして、これも後に触れるが、出版社にとってドル箱になるのは新刊本ではなく既刊本である。だが、新刊本と既刊本(たとえば発売から1
年以上を経過した本)に分けて市場規模を示す統計はないようだ。そのため、無理を承知のうえで市場規模を新刊点数で割る方法を使っている。既刊本分を除け
ば、新刊1点当たりの平均売上はもっと少ない。
ところが、ここ数年、既刊本の比率が急速に落ちてきたという話をよく聞く。以前なら、年に何回か書店で既刊本のフェアを開催し、それに向けて定番の本を
増刷するのが通例だったが、いまではそういうことがめっきり減っているという。その一因は新刊本の氾濫にあるともいう。新刊本が多くなりすぎて、どの書店
でも売り場の余裕がなくなっているというのだ。土日や祭日、盆暮も含めて、1年365日の1日当たりにして200点もの新刊がでているのだから、どんな大
型店舗でも一杯になるのは当然である。
出版社は苦しいから新刊を増やす。新刊を増やすから書店は余裕を失い、商品を長く陳列しておくことも、定番の既刊本を売ることもできなくなってきた。出
版社は既刊本に頼っているわけにはいかないから、新刊を増やすしかない。これを悪循環という。出版業界は典型的な悪循環に陥っているのだ。
出版翻訳者の裕福度
出版翻訳者は通常、
印税収入によって経費を賄い、生活を支えている。印税収入は定価×刷り部数×印税率で決まる。このうち定価×刷り部数は、1点当たりの売上÷(1−返本
率)であり、返本率が一定であれば1点当たりの売上に比例する。
これが訳書1点当たりの収入であり、年間の収入は大雑把にいえば、これに年間の翻訳点数をかけた金額になる。もちろん、訳書は1点ずつ定価も刷り部数も
違うし、前年までに出版された訳書の増刷があれば、その分の印税収入が加わる。だが、前述のように、既刊本の売れ行きは落ちているので、増刷分の印税はほ
とんど見込めない場合が多くなってきた。
もうひとつ、印税率は10年ほど前には8%が常識だったが、出版不況が長引くとともに、出版社が引き下げを求める動きがでてきている。7%になれば、出
版翻訳者の収入は12.5%減る。6%になれば25%減る。なかに4%という出版社もあるので、出版翻訳者の収入が半分になっている場合もある。
出版社の場合には、苦しくなれば新刊点数を増やす方法がとれるが、翻訳者の場合には年間の翻訳量をそれほど増やすことはできない。ふつうは年に3点から
4点が限度であり、よほど翻訳が速い人でも6点というのはかなり無理がある。そのうえ、新刊1点当たりの市場規模が減少傾向をたどっているのだから、出版
翻訳者の生活が楽になっているはずがない。この点をきわめて大雑把な形でではあるが、検討してみた。
市場規模の統計は新刊本と既刊本に分かれてはいないし、翻訳書だけの統計もない。そこで、新刊1点当たり市場規模に標準的な印税率である8%をかけて、
新刊1点当たり印税収入を求めた。新刊1点当たり市場規模は1980年の2465万円から2002年の1363万円まで減少を続けているので、当然なが
ら、新刊1点当たり印税収入も減少を続けている。1980年には197万円だったが、2002年にはわずか109万円になった。実際には、返本率がほぼ
40%なので、その分を考慮しなければならないが、出版翻訳者の場合には収入から経費を差し引いたものが所得になる。返本分は経費にあてられると想定し
た。
収入だけをみても、翻訳者の生活がどこまで豊かなのかはわからない。そこで、労働厚生省が発表する平均賃金(全産業常用労働者、月平均現金給与総額)で
何か月分にあたるのかを調べた。平均賃金は1973年の12万円強から1997年の42万円強まで上がり続け、その後は不況の影響で若干下がっている。
2002年には39万円弱であった。図と表の翻訳者裕福度は、新刊1点当たり印税収入を平均賃金で割って求めた。30年前には、1点の翻訳で平均賃金の
10か月分以上の収入があったが、いまでは3か月分に満たないことが分かる。3か月というと、通常、本1点を訳すのに要する最低の期間なので、翻訳者の収
入は平均賃金を割り込んでいることになる。ただしこれは印税率を8%としたときのものなので、たとえば6%であれば、2か月分にすぎなくなる。
ハリー・ポッター現象
前述のように、2002年には5年ぶりに出版の市場規模が微増に転じた。これは『ハリー・ ポッター』の第4巻が発行され、第1〜第4巻がベストセラー・リストの上位を独占したことによるものだといわれている。いわゆるハリー・ポッター現象だ が、これが翻訳出版に与えた影響を検討しておきたい。