翻訳についての断章
山岡洋一
強くなければ生きていけない
仕事をするときはたいてい音楽をかける。音楽を聞いているわけではない。近くに音がないと、目の前のマンション工事現場から聞こえてくる騒音や、近くの
広場で遊ぶ子供たちの声が気になる。だから、CDやラジオで音楽を流しておく。聞いてしまうような音楽はかけない。日本語の唄はだめ。おしゃべりが入るラ
ジオ番組はもっとだめ。つい聞いてしまって、仕事にならなくなる。
だが最近、つい聞いてしまった番組があった。作詞家、阿久悠の特集だ。もちろん、以前から阿久悠という名前は知っていたし、少し前になくなったことも、
新聞で読んで知っていた。だが、つぎつぎに流される代表作を聞いて、少々驚いた。ほとんどが知っている曲で、歌手名と曲名がすぐに分かる曲も多かったし、
なかにはなぜか、作曲家の名前まで分かる曲もあったのだが、阿久悠が作詞したとは知らなかった曲が大部分だったからだ。たとえば、北原ミレイの「ざんげの
値打ちもない」、ペドロ&カプリシャスの「ジョニーへの伝言」、都はるみの「北の宿から」、ピンク・レディの「ペッパー警部」、石川さゆりの「津軽海峡・
冬景色」、岩崎宏美の「思秋期」などがそうだ。「ピンポンパン体操」や「宇宙戦艦ヤマト」も阿久悠の作品だと聞くと、ただただ驚くばかりだった。
なるほど、作詩家はどこか、翻訳者に似ているのだなと、そのときに思った。その番組ではたとえば、阿久悠作詞、大野克夫作曲「勝手にしやがれ」、唄は沢
田研二という形で曲を紹介していたが、たいていは沢田研二の「勝手にしやがれ」と紹介する。作詞家、作曲家は紹介されない。だから、とくに作詞や作曲に興
味をもっているわけではない素人には、歌手名や曲名は記憶に残っても、作詞家名はめったに記憶に残らない。一般の読者にとって、原著者名と書名は記憶に
残っても、翻訳者名はまず記憶に残らないのに似ているのではないかと。
作詞家はこのように、どちらかといえば目立たないので、翻訳者と同じで、少年少女が目標にするような職業ではないように思える。歌手を目指す人は多い
し、作曲家を目指す人もいるだろう。だが、作詞家になるのは偶然が重なった結果であって、それを目標に奮闘努力してきた結果ではないのが普通のように思え
る。たとえば文学青年が何かのきっかけで作詞家になる。きっかけが違っていれば、ミステリーなどの小説の翻訳者になっていたかもしれない。
その番組で、司会者が阿久悠について語った言葉が妙に気になった。阿久さんはとても怖い方で、歌詞のこの部分を少し変えてくださいとお願いしても、頑と
して承知しなかったというのだ。阿久悠というと優しい人なのだろうと思っていたので、これは意外だった。だが、少し考えてみると、意外だと思うほうがどう
かしているのかもしれない。阿久悠が活躍した世界で作詞家が強い立場のはずがない。プロデューサー、作曲家、歌手など、一癖も二癖もある人たちのなかで、
少し気を緩めていると、血を吐くようにして書いた歌詞を切り刻まれたり、改変されたりしたのではないだろうか。
もちろん、プロデューサーや作曲家が歌詞に手を加えるとき、たいていは悪意があるわけではない。ヒットさせたいという思いから、手を加える。だがそのた
めに、作詞家にとっていちばん思い入れのある言葉が削られたりする。阿久悠もたぶん、若いころには忸怩たる思いをしたことが少なくなかったのではないだろ
うか。だから、怖い人だといわれるようにする。歌詞の一部を変えるように求められても、端から拒否する。傲慢だといわれようが何といわれようが、そうやっ
て矜持を守る。そうしなければやっていけない仕事なのではないだろうか。
こんなことを考えるのはもちろん、翻訳という仕事のなかで、同じような思いをすることもあったからだ。幸い、作詞と翻訳では環境が随分違うはずだし、い
までは、長く付き合っている編集者はいずれも素晴らしい人ばかりになっている。だが、駆け出しのころにはときおり、とんでもない目にあうこともあった。
たとえば、もう20年近く前の話だが、仕事をはじめるにあたって暗黙の了解になっていた点を反故にされたことがある。翻訳出版業界にかぎらず、ほとんど
の業界では正式な契約を結んでから仕事にとりかかることはまずない。口約束や暗黙の了解に基づいて仕事をする。だから、口約束や暗黙の了解を反故にされる
というのは、最悪の事態だ。これでは安心して仕事をすることができない。
このときは翻訳出版業界の長老といえる方など、何人かに助言をお願いした。ほんとうに親切な助言をいただくことができたし、意外な点を教えられた。著作
権を武器にしろという点であった。翻訳にも著作権があり、翻訳者は訳文の著作権者としてきわめて強い権利をもっている。不当な扱いを受けたときはこれを武
器に使えるというのだ。
それまでは翻訳の仕事の大部分が産業翻訳であり、業界の慣行がまったく違うので、著作権について考えることはなかった。法的にいえば、産業翻訳であって
も、著作権が発生することに変わりはないのだろうが、翻訳者が著作権を主張しだせば、仕事自体がなりたたなくなる。だから、誰も著作権については考えな
い。出版翻訳の仕事をするようになったとき、原著に著作権があり、翻訳権を取得しなければ出版できないことはもちろん知っていたが、自分の訳文にも著作権
があるとは、考えていなかった。
それに、経済の歴史に興味をもってきたので、いまでいう知的財産権の考え方にはどうしても馴染めないところがある。人類が誕生して以来、知識はいつの時
代にも重要な財産だったはずだ。だが、中世までは、知識を財産にする方法はひとつしかなかった。秘密にするという方法だ。たとえば「家伝」という言葉、
「一子相伝」という言葉があるように、重要な知識は秘密にして、一家で独占するのが当然だとされていた。「免許皆伝」という言葉もそうで、ほんとうに優れ
た弟子だけに秘密の知識を伝えることを意味する。近代とは、このようにして独占していては知識が進歩しないことが認識されるようになった時代だとすらいえ
る。知識を独占してはならないというのが近代の思想だが、そうはいっても、納得しない人もいる。そこで、知識を秘密にして独占する習慣を打破する方法のひ
とつとして考えだされたのが、著作権、特許権などの権利であり、期間を限定して独占権を認めることを見返りに、知識を公開して公有にする仕組みになってい
る。つまり、著作権などの権利の主眼は知識の公開にあるのであって、知識の独占にあるのではない。そう考えていたので、著作権が武器になるというのは意外
だった。
そのときに教えられたことはたくさんある。たとえば、著作権者である翻訳者が承諾しないまま訳文を変更された場合には、著作者人格権のうちのひとつ、同
一性保持権が武器になる。著作者には著作物について、意に反した変更や改変を受けない権利があり、出版社がこの権利をおかした場合には、出版差し止めを求
める権利があるという。著作物に著作者の氏名を表示するかどうかを決めるのも、著作者の権利だという。さらに、著作者は著作物を公表するかどうかを決定す
る権利をもっている。著作者が引き揚げるといえば、それだけで出版社はその本を出版できなくなる。理由も何もいらない。引き揚げるといえばそれで終わりだ
というのだ。
この助言に驚いたのは、著作物を引き揚げるといわれては困る立場の方、出版業界の方からの助言であったからだ。たとえば知り合いに弁護士がいて、こう助
言してくれたのなら、法律論としてはそうなのかもしれないが、現実には……と思ったはずだ。
翻訳書の場合には翻訳権をもっているのは通常、出版社なので、翻訳者は同じ著作物を他の出版社から出版するわけにはいかないのが普通だ(原著の著作権が
切れていれば、どこにでももっていけるが)。だから、翻訳者はこの権利を主張したとき、何か月かの仕事からまったく報酬を受けられなくなる。この権利の話
を聞いて、まず思い浮かんだのはMAD(相互確証破壊)という言葉だ。冷戦下の核戦略の言葉であり、核攻撃を受けた場合に相手国を破壊しつくす戦力を用意
しておくという意味だ。相手も同じ戦力を用意するので、相互確証破壊という。だが、少し考えてみると、出版社にとって予定していた本がでなくなるか、遅れ
るだけだから、特攻攻撃のようなものかもと思ったのを覚えている(いまなら、自爆攻撃のようだと思ったかもしれない)。
それでも、この助言をいただけたことで、落ちついて話し合うことができた。翻訳者だから弱い立場にあると思う必要はないし、客先と喧嘩することはできな
いと思う必要もない。相手はこちらが最強の武器をもっていることを知らないわけがない。だから、不当な要求には頑として応じない姿勢をとればいい。そう考
えて話し合った結果、うまく落とし所をみつけることができた。
このときの問題は、暗黙の了解を反故にされたことであり、著作物としての翻訳の内容や質にはまったく関係がなかった。相手が社会人としてとってはならな
い行動をとったことに問題があったのであって、著作権はたまたま使える武器だっただけである。だが若手の翻訳者がぶつかるのはたいてい、著作物の内容にか
かわる問題なのではないかと思う。たとえば、編集者がよかれと思って訳文を変更し、翻訳者にとって不本意な訳文になる。こういうときに、翻訳者が同一性保
持権という言葉を使って変更をしないように求めるのが賢明かどうかは分からないが、少なくとも、訳書の著作者として、意に反した変更や改変を受けない権利
があるという事実を知っていれば、安心して編集者と話し合えるのではないかと思う。
いままでの経験からいうなら、編集者も翻訳者もプロであれば、あまり問題は起こらない。問題が起こるのは、どちらかがプロというには実力と覚悟が不足し
ているときだ。残念なことだが、不足しているのは翻訳者である場合が圧倒的に多い。しかし稀には編集者の側に力が不足していることもある。翻訳原稿を読ん
でも、その内容や意義を理解できない編集者にたまにぶつかる。こういう編集者は翻訳者が翻訳にこめた思いや情熱が理解できない。阿久悠に、「ペッパー警部
では意味が分からないから、若いお巡りさんにしましょう」などといった人がいたとは思えないが、それに似たようなことをいいだす編集者もいないわけではな
い。こういうときに著作権の知識が役に立つ。
翻訳者は出版翻訳の業界でかなり弱い立場にある。出版社は世間の基準で大企業といえるほど大きい場合は少ないが、それでもかなりの規模の企業であること
が多い。それに対して翻訳者は無名の一個人だ。無名の一個人が企業に仕事をもらうのだから、会社という組織の性格を知っていれば、これがいかに弱い立場か
は想像がつくはずだ。まったく弱い立場にある翻訳者が、生殺与奪の権をもっているように思える発注者と対等の立場に立てるのは、著作権という権利があるか
らだ。だが前述のように、著作権はいわば諸刃の剣だ。これを振り回すには、よほどの覚悟がいる。だから、普段は振り回さない。振り回さないが、この権利が
あることを知っていれば、少しは強い姿勢がとれる。怖い翻訳者だと思われる必要はないが、この業界では、強くなければ生きていけない。
(2007年9月号)