翻訳の現状


翻訳者不足

山岡洋一
  
 昨年は『翻訳通信』をきっかけに、産業翻訳で実績のある翻訳者と話す機会が何回かあった。そのような機会に毎回でてくる話題について触れておきたい。

 いつもといっていいほど質問を受けるのは、出版翻訳の仕事を探すのは難しいのかという点である。そういう質問を受けるたびに、いやとくに難しいわけではないと答える。なぜなのかを説明しておこう。

 翻訳の仕事をはじめたときは、産業翻訳だけを扱っていたし、いまでも収入の半分近くは産業翻訳によるものなので、出版翻訳と産業翻訳の両方をある程度まで見渡せる位置にいる。もっとも、翻訳の世界は極端に細分化されているので、直接に知っているのはごく一部だけだ。知り合いから話を聞くなどの方法で、少しは広い分野にわたって知識を仕入れているが、もちろん、まったく様子が分からない分野も少なくない。そのような立場からの発言として、以下を読んでいただきたい。

 狭い経験からいうなら、産業翻訳と出版翻訳でとくに質の高さに違いがあるわけではない。出版翻訳の方が産業翻訳よりも質に対する要求が厳しいわけでもない。産業翻訳の方が質に対する要求が厳しい例も少なくない。だから、産業翻訳で一流の仕事をしていれば、出版翻訳でも一流として通用するはずである。質という点で出版翻訳のハードルがとくに高いとは思えない。

 もうひとつ、出版翻訳者は層が厚いので、新規参入の余地はそうそうないのではないかという質問がある。これは需要と供給の問題である。出版翻訳の需要は限られているのに、翻訳者の数でみた供給が十分にあれば、新規に参入するのが難しくなるはずだ。

 だが、これも大部分は見かけだけだといえる。たしかに出版翻訳者は多い。しかし、発注者である出版社の編集者からみて、翻訳者の数が十分にあるとはとてもいえないようだ。少なくとも知っている範囲ではそうだ。

 この点は簡単に確認できる。自分が好きな分野、出版翻訳で取り組みたい分野の代表的な翻訳書を何点か検討してみる。分野によっては、さすがに素晴らしい翻訳ばかりだと思える場合もあるだろうが、そのうち何点かは自分ならもっとうまく翻訳してみせると思えるものである場合が多いはずだ(とくに、産業翻訳と重なる部分があるノンフィクションの分野でそう思えることが多いはずだ)。そう思えるのであれば、そして、その見方が客観的な根拠のあるものであれば、出版翻訳者の層は見かけほど厚くない可能性が高いといえる。

 じつのところ、この方法では分かりにくい部分もある。編集者に聞くと、箸にも棒にも掛からない翻訳を受け取って、泣く泣く自分で直すことが少なからずあると話してくれる。今年の正月休みにも、めったにない9連休がすべて、翻訳の直しで飛んでしまったという編集者がいるはずだ。書店に並んでいる翻訳書のうちかなりの部分は、編集者が手を加えてようやく出版されたものである。だから、翻訳書を検討するときは、後半部分もみてみるべきだ。編集者も時間に追われているので、後半になると直しが甘くなることが多いからだ。

 もちろん、翻訳の質をどのような基準で評価するのかによって、検討結果は変わってくる。翻訳の質を判断する基準はさまざまなので、基準が違えば判断が正反対になることもある。出版翻訳の世界では、訳文の日本語としての質を重視することが多くなっている。日本語で書かれた本としてみた場合に、すぐれた文章になっているかどうかが基準にされることが多いのだ。言い換えれば、原著者が日本語で書いたとすれば、こう書いただろうと思えるものになっているかどうかが基準になる。原文が透けてみえるような文章は嫌われることが多い。この基準でみて、どうも質の低い訳書が多いようだと思えるのであれば、その分野では翻訳者の層がそれほど厚くないと確認できる。

 しかし、出版翻訳を目指している人はきわめて多いので、競争が激しいのではないだろうか。この質問に対しては、こう答える。出版翻訳者になりたい人はたしかに多い。そういう意味では供給は多い。だが、供給があるだけではだめだ。発注者である編集者の要求する質を満たせる供給でなければならない。こういう供給を「有効供給」と名付けるなら、出版翻訳の世界にはたしかに供給は多いが、有効供給が不足している分野が多いといえる。

「有効供給」というのは、「有効需要」から思いついた言葉だ。たとえば、高級スポーツカーが欲しいという人はたくさんいるはずだ。だが、1000万円を越える価格をみてとんでもないと思う人の需要では意味がない。この価格でも買うという需要だけが意味のある需要だ。これを有効需要という。おなじ考えを供給にあてはめれば、有効供給になる。編集者が発注しようとは思えない質の翻訳しかできない翻訳者がどれだけいても、意味がない。意味があるのは編集者が安心して依頼できる翻訳者だけである。これを有効供給と呼ぼう。この意味での有効供給が不足しているのなら、新規に参入する余地が十分にあるといえる。

 産業翻訳で実績がある人が出版翻訳に進出したいのであれば、まずは市場の現状を検討してみるようすすめる。有効供給がたしかに不足しているようなら、つまり自分が引き受ければもっと質の高い翻訳がだせると確信できるのであれば、参入障壁はそう高くないといえる。出版翻訳の質を高めるためにも、産業翻訳で実績のある人たちがたくさん進出してほしいと願っている。
 

もうひとつの問題

 だが、じつはもうひとつ問題がある。有効供給に対応する有効需要が不足している可能性があるのだ。需要はある。自分が取り組みたい分野で、年間にどのくらいの点数の翻訳書が出版されているかを調べれば、需要があることはすぐに分かる。だが、需要は有効需要とはかぎらない。

 産業翻訳で実績がある人なら、翻訳の仕事で十分に食べていけることを実感しているはずだ。生活できるだけの料金を払ってくれる仕事がある。翻訳者はたいてい、それ以上の収入を要求していない。人並みの生活ができればいい。だから、産業翻訳には有効需要が十分にあるといえる。ところが、出版翻訳では生活できるだけの印税が入ってくる仕事は、意外なほど少ない。有効需要が意外なほど少ないのだ。そして、出版翻訳には食べていけない仕事が多すぎる。

 何年か前の話だが、ある出版社の編集者から質問を受けたことがある。その出版社は翻訳物を中心にしているが、翻訳の質の低さに毎回泣かされているという。もっと質の高い翻訳者はいないのか、どうすれば探し出せるのかというのが質問の内容だった。その出版社については、少しばかり評判を聞いていた。翻訳学校で教えていたころの受講生のひとりが、はじめての訳書をだしたのがその出版社だったからだ。話を聞いて驚いた。分厚い本で、翻訳にたっぷり半年かかったのに、印税収入が20万円にもならなかったというのだ。実績を作りたくて引き受けたけれど、これではやっていけませんと話していた。翻訳者にこの程度しか支払えないのであれば、もっと質の高い翻訳者に依頼しても、断られるのが当然である。打つ手があるとは思えない。

 これは極端な例だが、出版社が部数を絞り込み、印税率まで引き下げようとしている現状では、出版翻訳で食べていくのが難しくなっているのは事実だ。それでも翻訳の引き受け手がいるのは、何か別の要因がはたらいているからだ。たとえば、出版翻訳で実績を作りたいから、自分の名前で本を出す夢が叶うから、出版翻訳が好きだから、原著に魅力があるからなどの理由があって、引き受ける人がいる。これでは長続きしない。翻訳者が不足するのは当然である。

 要するに、有効供給が不足しているのは、有効需要が不足しているからでもあるのだ。

 需要と供給の関係は絡み合っている。有効需要が少ない一因はあきらかに有効供給が少ない点にある。質が低い翻訳が多いのであれば、翻訳書が売れないのも当然だといえるからだ。質が低いから売れない、売れないから質の高い翻訳ができる翻訳者が集まらない。これでは悪循環から抜け出せなくなる。悪循環を打ち破るには、業界全体で出版点数を思い切って減らし、1点当たりの部数を増やすなど、何らかの工夫が必要なのだろう。それによって人並みの生活ができる仕事が増えれば、有効供給も自然に増えてくるかもしれない。

2003年1月号