翻訳概論
山岡洋一

翻訳の学習効果

 
 翻訳者はめったにない組み合わせで力をもっていないければならない。外国語で書かれた文章を理解し、理解した結果を母語で表現できなければならない。い くつもの専門分野にわたることも少なくない原著を理解する力をもっていなければならない。まったく新しい考え方や、母国の文化とは異質な見方を理解し、読 者に伝える力をもっていなければならない。

 翻訳者はこうした力の組み合わせをどうやって身につけるのか。翻訳者の多くは、当初はこれらの組み合わせのうち、少なくともひとつで、ある程度の力を もっていたはずだ。そうでなければ、プロにはなれない。だが、得意な部分の力をさらに磨き、それ以外の力を身につけて総合力を獲得するために、どのような 手段をとってきたのか。翻訳者の多くは、翻訳を行うことがもっとも良い手段になったと考えているはずである。翻訳とは、収入を得ながら学習できるありがた い仕事だと感じているはずである。翻訳者にとって、翻訳は仕事であると同時に、学習の過程でもあるのだ。英日の出版翻訳を例にどのような学習ができるかを みていこう。

 翻訳とは「語学」の仕事だというのが一般的な見方、というより一般的な誤解なので、まずは外国語についてみていこう。1冊の本を翻訳したとき、それまで 知らなかった単語や表現に大量にぶつかる。その意味が分からなければ翻訳はできないので、ひとつずつ丁寧に調べていく。少なくとも数百の単語や表現を調べ ていくし、そのうち何割かは記憶に残るのがふつうだ。

 もっとも、それまで知らなかった単語を覚え、訳語を覚えることにはあまり意味がない。とくに、めったに使われない単語を必死に覚える必要はない。その程 度のことなら、翻訳者は自分の内部記憶装置に頼る必要はない。外部記憶装置に大量の情報がつまっているのだから、それを利用すればいい。辞書は昔から使わ れてきた外部記憶装置だが、最近ではインターネットに大量にあるデータを自由に使えるようになっている。翻訳でとくに困るのは中高校生でも知っているはず の言葉、つまり使用頻度が高く、意味範囲の広い言葉だ。こういう言葉の場合、辞書を引いても分からなかったことが、大量の用例をみていく方法で分かる場合 が少なくない。最近ぶつかった例をあげるなら、graspという何でもない単語に苦労したが、インターネットで用例をみていった結果、語義がある程度分か るようになった。このように、1冊の本を訳すと、常識的な訳語は知っていても意味がじつのところよく分かっていない単語や表現にかならずぶつかる。その意 味を調べていくことで、外国語の読解力が高まっていく。

 もうひとつ、「語学力」というときに重要な構文解析力についていうなら、翻訳者と翻訳学習者では実力が大きく違うのが普通だ。翻訳者も原文の構文解析を 間違えることは少なくないのだが、そのときには原文の意味が分からないために訳文が書けなかったり、書いた訳文が意味不明になったりする。これが警告信号 になり、構文解析の間違いに気づいて考え直し、調べ直すことが多いので、長く翻訳を続けていると、自然に構文解析力がついてくる。翻訳学習者と実力が違う のは、翻訳が学習の過程になっているからなのだ。

 翻訳とは結局のところ日本語勝負だというのが、翻訳者の多くにとって実感なのではないかと思う。外国語で書かれた文章の読解は準備過程にすぎず、翻訳の 成果はすべて、訳文の形で、母語で書いた文章の形で示される。だから、原文の読解力がいかに高くても、理解した結果を日本語でうまく表現できなければ、ま ともな翻訳にはならないのである。そのため翻訳者は、母語での表現力を高めようと必死になる。

 では、日本語の表現力はどうすれば磨けるのか。翻訳者ならたぶん、翻訳を行うのがいちばんの早道だと考えるはずだ。1冊の本を訳せば、その過程でさまざ まな表現を工夫するし、翻訳が終わると編集者や校正者などから指摘を受けて、さらに訳文を磨いていく。また、自分の表現力のどこに問題があるかも分かるの で、幅広い学習を行うきっかけにもなる。

 原文の内容を理解する力についてみていこう。一例をあげるなら、法廷ミステリーを翻訳するには、エンタテインメント小説の文章を書く執筆力と法律を理解 する力がなければならない。感情を表現する力と同時に、理詰めの法律を理解する論理力が必要になる。そのうえ、法医学などの理系の知識まで必要になること も少なくない。これはフィクションの場合だが、ノンフィクション分野だと、専門的といえる内容を扱うことが多いし、それもひとつではなく、いくつもの分野 にまたがる専門知識がなければ訳せない場合もある。翻訳者はこうした知識をどのように身につけているのか。翻訳を行うことで身につけてきた人が多いはずで ある。

 1冊の本を訳せば、同じ本を読んだ場合とは比較にならないほど、内容を深く理解する。その本がある程度専門的であれば、当然ながら、本に書かれている専 門的な知識を深く理解することになるし、本の内容を理解するために必要なら、分野全体についても調べて理解するようになる。ある分野の本を訳した実績があ れば、同じ分野の本の翻訳を依頼されることが多いので、理解と知識が深まる。隣接する分野の翻訳を依頼されることもあるので、扱える分野が少しずつ拡大し ていく。

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 翻訳に学習効果があることは、はるか以前から認識されており、学術書などでは訳者が学習のために訳したという例がたくさんある。だが、翻訳の学習効果は 以前にはそれほど顕著ではなかったとみられる。いまでは、学習効果が飛躍的に高まっているはずである。ノンフィクション分野を中心に、以前であれば学者や 研究者が担うのが当然だとされていた種類の本を、いまでは翻訳専業のものが訳すようになり、その結果、翻訳の質が全般に高まっているとみられるのは、その ためであろう。

 分野によって時期に違いはあるが、少し前までは、翻訳はいわゆる翻訳調で行うのが当然だとされていた。翻訳調の翻訳では、原文を決まった訳語・訳し方で 訳していくものとされていた。翻訳調の訳し方では学習効果がそれほど高くない。翻訳の学習効果が飛躍的に高まったのは、原文の意味を考え、原著者が伝えよ うとした意味を母語で伝えることが重視されるようになったからだ。

 この点を考えるには、英文和訳といまの翻訳の違いをみていくといい。学校英語の英文和訳は、翻訳調で訳せる翻訳者の育成が国家目標のひとつであった時代 に確立したものであり、翻訳調を簡略化したものだと考えられるからである。

 たとえば昔の英語の教科書では、中学1年のはじめに以下のような文があり、訳し方を学ぶことになっていた。

    I am a boy.

 模範的な訳として教えられたのはこうだ。

    わたしは少年です。

 こう訳すとき、誰が、どういう場面で、誰に対して、なぜ、何を伝えようとして、こう発言したのかはまったく考えない。つまり、この文の意味は考えず、I やamやaやboyなどを決められた訳し方で訳すよう教えられるだけである。

 意味は考えず、決められた訳し方で訳せ、というのが英文和訳の基本的な考え方なのだが、これは偶然ではない。英文和訳は前述のように、翻訳調と表裏一体 の関係にある。そして翻訳調の最大の特徴は、原文の意味が分からなくてもとりあえず訳せる仕組みになっていることである。明治の時代、欧米の先進的な知識 を翻訳という手段で取り入れようとしたとき、欧米は、理解することなどとてもとてもできないと思えるほど遠い存在だった。だから、原文の意味が分からなく ても翻訳ができるようにすることは、とても重要だったのである。

 原文の意味が理解できるはずがないというのが翻訳調の前提だったのに対して、翻訳調から抜け出したいまの翻訳では、原文の意味は分かるはずというのが前 提になっている。このため、《I am a boy.》という同じ文章がでてきたとすると、意味を考えて訳す。つまり、誰が、どういう場面で、誰に対して、なぜ、何を伝えようとして、こう発言したの かを考え、訳文を考えていく。たとえば、10代の少年が大人でも難しいことを行うように頼まれた場面なのか、幼児が女の子と間違えられた場面なのか、など で訳し方は違ってくる。

 訳し方が違ってくるのは、同じ文でも「意味」が違うからだ。言い方を換えるなら、表面の意味は同じでも、下の層にある意味、つまり含意は違っている。 「大人ではない」といっている場合、「女の子ではない」といっている場合などがあるのだ。そして、さらに下の層にある意味まで考えなければならない場合も ある。

 翻訳の場合、誰が、どういう場面で、誰に対して、なぜ、何を伝えようとしているのかが二重、三重になっていることがある。小説の登場人物の台詞であれ ば、「誰が」の答えは、まずそう話した登場人物であり、つぎにそう書いた原著者であり、そしてもうひとり、翻訳者だからだ。「誰に対して」の答えも、第1 に小説の別の登場人物であり、第2に、原著の想定読者であり、第3に、翻訳書の想定読者である。原著の想定読者と翻訳書の想定読者にはかなりの違いがある 場合もあることに注意すべきだ。たとえば、文化の違いを考慮しなければならない場合がある。

 翻訳調ではない翻訳者は、こうした点を判断して訳文を考える。その結果できる訳文は、読者に意味が伝わるようになっていなければならない。分かりやすい かどうかは別の問題だ。原文が分かりやすい文章でないのではあれば、訳文も分かりやすくない文章にするのが正解かもしれない。何を伝えているのかだけでな く、どう伝えているのかも重要である。文章の難易度もそのひとつであり、難解な原文を分かりやすく訳すのは、良いとはかぎらないのだ。だがいずれにせよ、 意味が伝わる文章でなければならないのである。訳者は読者に意味が伝わる訳文を書くには、何よりも、原文の意味を理解しなければならない。英文和訳式に訳 すのであれば、意味を理解しなくても訳せるので(たとえば、誰が、どういう場面で、誰に対して、なぜ、何を伝えようとして《I am a boy.》といったが分からなくても訳せるので)、これは大きな違いだ。翻訳の学習効果という点で、この違いは決定的な意味をもっている。

 英文和訳と翻訳調については、もっとさまざまな点を考える必要があるが、その点はここでは触れない。ここで強調したいのは、過去20年ほどに翻訳調の規 範が力を失い、意味を伝える翻訳が主流になるとともに、翻訳の学習効果が飛躍的に高まったことである。翻訳者ならこの点を実感しているはずである。翻訳を 行うなかで、いまの翻訳に必要な総合力を身につけてきているのだから。

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 だがこの時期、教育という点では逆に、翻訳につながる和訳や英文法などが時代後れとみられるようになってきた。いまの大学生に聞くと、高校時代に訳読の 授業がなく、対訳本をみたことがなく、英文法をほとんど学んだことがないという人が多い。

 これはある意味では当然である。学校教育の場では、以前は翻訳調の翻訳ができる人材を育成するために、英文和訳が英語教育の中心になっていた。文法教育 も英文和訳の能力を高めるためのものだった。だが翻訳調が規範としての力を失ったいま、《I am a boy.=わたしは少年です。》式の英文和訳を教える理由はなくなっている。英文法や文法訳読を教える理由も、少なくとも英文和訳式の訳し方を前提とする かぎりはなくなっている。だから、これらが廃れてきたのは当然だといえるのである。

 しかし、翻訳調が規範としての力を失ったなかで、いや、失ったために、新しいスタイルの翻訳は学習効果が飛躍的に高まっている。今後、翻訳の学習効果を 活かした教育方法について、考えていきたいと思っている。
(2010年4月号)