翻訳教育
山岡洋一
翻訳者育成教育をどう考えるべきか
最近、何人かの方に翻訳者育成教育に取り組むように求められた。プロの翻訳者を育てるための教育は、過去には翻訳家が弟子を育てるという形があったし、
出版社の編集者が若手を育てる仕組みもあったし、翻訳学校で翻訳家が教えるという方式も一時期あったが、いまではどれも力を失っているという。だから、現
に出版翻訳を行っている人が教育を担わないと、若い翻訳者が育ってこないというのである。
個人的には、若手をプロの出版翻訳者に育てる教育はきわめて難しいと思うので、求められるのはありがたいことだが、乗ろうとは思わない。だが、この点に
ついて考えていることはあるので、以下に記しておきたい。
まず、原則の問題として、ある年齢に達したものは後進を育てる義務があると考える。老師という言葉が教師を意味することからも分かるように、教育という
のは本来、老人の仕事である。子供が一人前になって隠居したものが教育にあたるのが自然の姿なのだ。したがって個人的には、翻訳という職業で生計をたて、
子供が独立したのだから、翻訳者を教育することで社会に恩返しをするのは、当然のことだと考えている。しかしこれは、あくまでも原則の問題である。具体的
に何をするのかは、さまざまな要因を考えて決めていかなければならない。
とくに重要な要因は、どうすれば出版翻訳者をほんとうに育成できるのかである。じつのところ、翻訳者教育にはこれまで25年間、休みなく取り組んでき
た。その間に少しは自慢できる成果があがった部分もあるが、失敗の方が桁違いに多かった。だから、成功の確率がきわめて低いのはなぜなのか、同じ失敗を繰
り返さないためにはどうすべきかを考えて、ある程度の答えがでなければ、新たな取り組みはできない。
いま、翻訳者育成教育というときに求められているのは、もっぱら出版翻訳者を育てるための教育であり、そのなかでもある形態のものだと思う。具体的に
は、翻訳学校で行っているような教室での教育か、そうでなければ、もっと非公式な形で弟子をとるよう求められているのである。そこでまず、教室での翻訳者
育成教育について考えてみよう。
翻訳学校で教えたのはもう15年近く前までである。翻訳学校が一種のブームになっていたころだ。通信教育には何万人もの受講者がいたというし、通学コー
スの人気も高かった。教えはじめて2年か3年たったころ、翻訳学校という業界が何ともいびつな構造になっていることに気づいた。受講者の大部分は出版翻訳
を目指しているのだが、講師にすら、出版翻訳で生活できる人が少ないという事実があったのである。あるとき講師控え室でわたしの訳書が話題になり、そこに
いた何人かの講師にうらやましがられてしまった。みな、下訳の仕事はあっても、訳者として名前をだせる仕事はもらえないということだった。これには驚い
た。そして、翻訳学校で教える意欲をすっかり失ってしまった。
考えてみれば、当然のことだったのである。出版翻訳はプロの仕事であり、どんな職業でもプロとして食べていける人はごく少数だ。プロになるための教育を
受けたい人が急激に増えたとき、講師が不足して、下訳程度の実績しかない人に頼らざるを得なくなったのである。これでは翻訳者教育がうまくいくはずがな
い。何年かの後には当然ながら、翻訳学校のブームは去り、教育を受けたい人が頼れる場が不足するまでになった。
この事実をみれば、出版翻訳者の教育には独特の難しさがあることが分かる。プロになるための教育を受けたい人がいくらいても、教育を受けてプロになれる
人はごく少ないのである。だから、出版翻訳者育成を目的とする教育はそもそも成功率が高くなりようがないのだ。15年ほど前といまとを比べると、出版不況
のいまでは成功率がさらに下がっていても不思議ではない。現に出版翻訳を職業にしている人すら、生活費を稼ぐのが容易ではない現状で、新人が食い込み、他
の職業並みの収入が得られるようにするのは、まったく容易ではなくなっている。
出版翻訳者育成を目的とする教育は、たとえば自動車教習所や英会話学校で行われている教育とは性格が違っている。自動車教習所なら、ほぼ全員が運転免許
を取得できるし、英会話学校でも英会話に慣れるという目的なら、ほぼ誰でも達成できる。プロの出版翻訳者を育成しようとした場合、そうはいかない。教育の
目的をある程度でも達成できる受講者の比率は、そもそもごく低いのだ。
このため、翻訳を教室で教えるときには、大部分の受講者がプロにはなれないことを認識したうえで、授業料を払ってくださる大切なお客さんだと考えるか、
そうでなければ、下訳者として最低賃金にも満たない収入で働いてくれる人を探す手段にするしかない。どちらも恥ずべき行為だと思うのであれば、教えること
はできないのである。15年前にはこの単純な事実が分かっていなかった。当時の失敗の原因の1つはここにある。
これは教える側の問題だが、受講者の側にも問題があった。受講者は何を求めているのか。おそらく、翻訳がうまくなりたいと希望していて、授業で翻訳のノ
ウハウを教えてもらえるはずだと考えている。だが、翻訳のノウハウを確立している人は、少なくとも後進を指導するという目的に適した形で確立している人
は、いまの日本にはおそらく1人もいない。そういう人がいて、しっかりした教育をしているのであれば、出版翻訳を席巻しているはずである。そうなっていな
いのだから、翻訳のノウハウなどいまの日本にあるわけがないことが、少し調べてみればすぐに分かるはずだ。
ノウハウがあって、それを学べば誰でもうまくなれるという性質の仕事はたしかに世の中にたくさんある。しかし、翻訳はそういう仕事ではない。だから面白
いのである。だから面白いという点が直感的に分かっている人に向いている仕事なのだ。逆にいえば、教室で教えてもらいたいという人には向いていない仕事な
のかもしれない。翻訳のノウハウを教えると宣伝して受講者を集めるのは、幻想をタネに金儲けしようとする最悪の商売なのかもしれない。15年前に失敗した
一因はここにあるし、いまでも教室で翻訳者育成教育を行うことに消極的な理由の1つはここにある。
週に1回程度の授業ではほとんど役立たないという点も過去の失敗から学んだ点であり、いまでも消極的な理由の1つだ。プロの出版翻訳者になり、生活費が
確保できるようになるのは、現状では思い切り難しい。はっきりいって、司法試験や公認会計士試験に合格するより難しい。司法試験や公認会計士試験なら年に
何千人かは合格するのだが、プロの出版翻訳者になって生活費を確保できるようになる人が年に数十人もいるはずがないからだ。
司法試験か公認会計士試験に合格した人の話を聞いてみるといい。1日15時間の勉強を年に364日のペースで何年か続けたといった話が聞けるはずだ。年
に約5,500時間である。これだけの勉強を続ければ、たいていのことは学べる。このペースで翻訳を学べば、かなりうまくなる。社会人ならそうはいかない
だろうが、それでも、週に40時間以上、年に2,300時間以上を使うことは可能だろう。土日と休日に15時間、平日に2時間である。週に1回、年に30
回程度の授業ではどうにもならない。役に立たないことが分かっていて授業料をいただくわけにはいかない。
いまの時点で考えつくのは、週に最低5日、1日に最低5時間の全日制教育である。これならたとえば1年でかなりの教育ができるかもしれない。だが、この
方法が現実に可能なのだろうか。教える側にとっても学ぶ側にとっても負担が大きすぎるのではないだろうか。
まったく別の要因もある。出版翻訳に隣接する産業翻訳の業界で翻訳者の需給バランスが崩れているという問題である。以前なら、産業翻訳業界で翻訳者が不
足していたため、産業翻訳で生活の基盤を確立して出版翻訳に進出する方法があったが、いまでは産業翻訳で食べていくのもそう簡単ではないように思う。出版
翻訳者を目指す教育を受けているものにとって、少なくとも産業翻訳で食べていけるという安全網がなくなってきているようなのだ。この状況で翻訳者育成教育
を行うのであれば、かなりの覚悟が必要になる。
翻訳教育を受ける側にも、以前とは違う姿勢が必要になっていると思う。プロになるのは容易ではなく、まして人並みの収入を確保するのは難しいことを承知
のうえで、それでも出版翻訳に取り組みたいという強い意思が必要だろう。社会のなかで翻訳が果たす役割を認識し、収入がたとえ少なくても役立つ仕事をした
いという強い意思が必要だろう。
そういう点を後進に伝えるのも教育の役割だと思うが、そのために受講者を教室に集める必要はない。「翻訳通信」を読んでいただければいい。
つぎに、もっと非公式な形で弟子をとる方法について考えてみよう。はっきりいって、現状で新しい弟子を受け入れるのはきわめて難しい。過去の失敗から学
んだ点だが、翻訳のように難しい仕事で弟子をとるには、相手の一生に対して責任を負う覚悟がなければならない。何しろ、成算がないまま、かけがえのない何
年かを翻訳学習にかけるよう求めることになるのだから。
そう、何年かをかけなければ、プロの翻訳者になれるとは考えにくい。その何年か、教える側も教えられる側もすべてをかけなければいけない。何年かたっ
て、これではプロになれそうもないということが分かった場合、どのようにして責任をとればいいのか。産業翻訳で生活できるようにするのも、前述のように簡
単ではない。別の就職先を紹介できる力があれば安心だが、一翻訳者にそのような力があるはずがない。
もうひとつ、その何年かに弟子の側は生活できる収入が必要だ。このため昔は、内弟子という制度があって、いわば成人の養子を引き受けるように、衣食住を
すべて師匠が負担する仕組みになっていた。いま、そのようなことが可能かどうか、考えるまでもないだろう。
要するに、教室での教育にしろ、弟子をとるにしろ、翻訳者育成教育は教える側にも教えられる側にも負担がきわめて大きいのである。この点を十分に認識し
ていなければ、教育は失敗する。これが過去の失敗から学んだ点である。
しかし、翻訳という仕事の性格を考えれば、違った方法もありうるように思う。たとえば、ノウハウを求める学習者に対して、ノウハウは確立されていないこ
とを教えるのであれば、教えないという方法をとるべきだともいえる。教えないことで学んでもらうのである。教えるからいけない、教えない方がよいともいえ
るのである。
出版翻訳者育成教育には、優秀な若手を選び出し、仕事を紹介するという役割もある。この役割は、たとえば今回行うような翻訳コンテストで果たせるし、
「翻訳通信」で投稿を募集し、優れた作品を掲載する方法もある。すでに優れた投稿があり、いくつかの問題点を指摘して改定してもらっている。12月号で紹
介できるのではないかと考えている。実際に出版に結び付くかどうかは分からないし、出版翻訳では運という要素が大きく影響するのだが、少なくとも可能性は
ある。「翻訳通信」の読者には編集者が少なくないからだ。
つまり、問題は出版翻訳者を育てる教育が可能かどうかではなく、何が可能で何が可能ではないかなのである。教室での教育や弟子の教育といった方法では充
分な効果があるとは思えない。教育を受ける側に幻想を与えかねないので、逆効果にすらなりうると考える。だからこれらの方法での教育は行っていないもの
の、現状で可能だし効果があると考える方法で、翻訳者育成のための教育を行い、社会に対する責務は果たしているつもりである。
そうはいっても翻訳の腕を磨く方法を知りたいという人のために、ヒントを記しておこう。翻訳のノウハウはないというのは、じつは正確ではない。翻訳のノ
ウハウは誰でも利用できる形で公開されている。後進を指導するという目的に適した形でまとめられていないだけである。どこに公開されているかというと、一
流の翻訳家の訳書にである。訳書には翻訳家が使っている各種の工夫や方法が、目に見える形で示されている。だから、一流の翻訳家の訳書を読み、原著を読
み、両者を比較していけばいい。さらに、原著の最初の1文から最後の1文までを訳して、1章ごとに名訳と比較していけばいい。学べる点がたくさんあるはず
だ。これなら授業料を払う必要はない。訳書と原著を買うだけでいいのだ。
(2010年11月号)