翻訳の歴史
 山岡洋一

「アメリカ独立宣言」の翻訳 (2)

 
代名詞をどう訳しているか
 幕末・明治初期の福沢諭吉訳、中村正直訳と戦後の口語体翻訳調の訳では、音読したときの印象が大きく違うことを指摘しました。福沢諭吉と中村正直が「独 立宣言」にふさわしく、力強い文体で訳しているのに対して、口語体翻訳調の訳は、どこか他人事として、原文の内容を解説しようとしているという印象を受け ます。わたしはこんな馬鹿なことを考えませんが、原文にこう書いてあります……、という訳者の声が聞こえてきそうな訳なのです。では、なぜ、そのような印 象を受けるのか、翻訳スタイルのどこにどういう違いがあるのかを分析していくことにしましょう。

 第1に取り上げるのは、いちばん簡単に分かる点、代名詞の訳し方です。第2段落の後半に、以下の部分があります。

Such has been the patient sufferance of these Colonies; and such is now the necessity which constrains them to alter their former Systems of Government.

 このうち、themとtheirをどう訳しているか、そして、these Coloniesのtheseをどう訳しているかをみてみましょう(資料1を参照)。

 この部分を理解するには、もう少し前から読む必要があります。原文第2段落の全体を読むといいのですが、少なくとも、このセンテンスの前にある以下の部 分を読むべきです。

Prudence, indeed, will dictate that Governments long established should not be changed for light and transient causes; and accordingly all experience hath shewn, that mankind are more disposed to suffer, while evils are sufferable, than to right themselves by abolishing the forms to which they are accustomed. But when a long train of abuses and usurpations, pursuing invariably the same Object evinces a design to reduce them under absolute Despotism, it is their right, it is their duty, to throw off such Government, and to provide new Guards for their future security.

 要するに、こう論じています。一時的で小さな問題があるだけなら、長く続いた政治体制を変えるべきではないし、誰でも、耐えられる間は耐えるものだ。し かし、悪政が長く続き、独裁政治によって住民を抑えつけようという意図がはっきりしているのであれば、政治体制を変えざるをえなくなる。そのように論じた 後にあるのがこの部分です。

 福沢諭吉訳を読むと、まさに「檄文」と呼ぶにふさわしく、力強い文章になっていますが、そのカギは「我諸州」にあるといえるはずです。つまり、原文の these Coloniesを「我諸州」と訳し、原文でthese Coloniesを受けたthemとtheirを「彼ら」などとは訳さない方法をとって、原文の三人称をいうならば、一人称に転換しているのです。

 この点がいかに重要かは、たとえば、斉藤真訳と比較してみるとよく分かるはずです。斉藤真は、themとtheirを律儀に「彼ら」と訳しています。そ の結果、「いまや彼らはやむなく、彼らの従来の統治形体を改変する必要をみるにいたったわけである」という文章になりました。原文をみずにこの訳文だけを 読むと、何とも力のない文章、ニュース解説のような文章だという印象を受けます。

 ここで、「独立宣言」の性格を少し考えてみるべきです。「独立宣言」が1776年7月4日に大陸会議で採択されたとき、世界各国がアメリカ独立を祝福し たのでしょうか。とくにイギリス政府はこれを歓迎して、友好関係の確立を求めたでしょうか。事実は正反対です。

 アメリカが独立を達成したことは誰でも知っていますから、少々想像しにくいかもしれませんが、イギリス側からみれば、これは反乱の宣言にほかなりませ ん。イギリスの植民地だった13州の代表が集まり、前年の1775年にはじまった独立戦争を継続すると宣言したのですから。どの時代のどの国でも、反乱は 重大な犯罪です。政府は武力を使って反乱を鎮圧しようとします。まして、このとき、アメリカ側はイギリスにとって最大の敵国であるフランスと組んで独立を 達成しようとしていたのですから、最悪の犯罪だと思えたはずです。

 圧倒的な武力をもつ本国政府が鎮圧に乗り出しているなかで、独立しようとしたのですから、「独立宣言」の最後の部分で、「生命、財産、名誉」をかけると 誓ったのは、大げさな修辞ではありません。宣言に署名した48人は、文字通り、生命、財産、名誉をかけています。イギリス本国との戦争は、はじまったばか りです。その後、ほぼ5年にわたる苦しい戦いを経て、1783年のパリ条約でようやく、ほんとうの意味での独立を達成できたのです。

 こうした状況で発表された「独立宣言」は、世界各国への呼びかけでもありますが、それ以上に、植民地の住民への呼びかけであったはずです。圧倒的な武力 をもつ本国への抵抗を呼びかけた文書、そう考えたとき、「いまや彼らはやむなく、彼らの従来の統治形体を改変する必要をみるにいたったわけである」という 表現がありうるかどうか、想像力をはたらかせてみるべきです。これを読んだ住民はどう感じるでしょうか。48人の代表にとって、自分たちは「彼ら」なのか と思うはずです。こんな連中のもとで戦えるかと思うはずです。

 この表現では、選挙戦ですら戦えません。総選挙にあたって、「いまや彼らはやむなく、彼らの従来の政権を交代させる必要をみるにいたったわけである」と 宣言する野党があるでしょうか。こんな宣言を発表する野党に一票を投じようと思う有権者がいるでしょうか。こう考えれば、「彼ら」がいかにありえない表現 であるかが分かるはずです。ここではやはり、福沢諭吉のように、「我諸州」でなければならない。原文で三人称が使われていても、一人称で表現する以外にな いといえるはずです。

 ほかの訳文をみていくと、中村正直は「亞米利加新地ノ人民」以下、植民地の住民に呼びかける文章になっています。明治半ばの高橋正次郎訳からは、「彼 等」と訳しており、いってみれば「原文に忠実に」訳しているわけですが、その結果、文章の力が失われています。その後、「彼ら」を使わない訳もいくつかあ りますが、福沢諭吉のように一人称に転換したのは、土田宏訳だけです。

「アメリカ独立宣言」のこの部分で、原著者が伝えようとした意味を、通常の日本語で表現しようとするのであれば、「彼ら」を使うわけにはいかず、福沢諭吉 訳のように、「我」を使うしかないはずです。そうしなければ、宣言に署名した48人は、植民地の住民との一体感を主張できなくなくなります。

 ではなぜ、高橋正次郎らはここで「彼等」や「彼ら」を使ったのでしょうか。答えは簡単に分かります。原文にthem、theirと書かれているからで す。高橋正次郎は、「原書ニ對照スル人」のために翻訳したのです。この観点に立つなら、原文の三人称を一人称に転換して訳すなどということは、許されるは ずがありません。いいかえれば、高橋正次郎は、原文の意味を伝えることより、原文の表面にどう書かれているかを伝えることを重視したのです。これが翻訳調 の起源であり、特徴でもあることを確認しておくべきでしょう。

 以上では、通常の日本語という観点から、福沢諭吉訳と翻訳調の訳とを比較してきました。もうひとつ重要な観点として、原文のこの部分でthemと theirが使われているのはなぜなのかを考えてみるべきでしょう。

 原文を読めば、どちらもthese Coloniesを受けていることがあきらかです。このthese Coloniesを代名詞で言い換えるとき、三人称複数を使うしかありません。一人称複数のourやusにはなりえないのです。そういう単純な理由で them、theirが使われているだけだと考えることもできます。そう考えれば、このthemとtheirを「彼ら」と訳す必要があるのか、まったく疑 問だといえます。

 しかし、この部分の原文を一人称複数で書くのは簡単ですから、なぜここが三人称複数になっているのか、もう少し考えてみるべきだとも思えます。たとえば オバマ演説では、Yes, they canとはいいません。Yes, we canに決まっています。英語でも、一人称を使うのが普通なのではないでしょうか。そして、一人称で書くことが可能だし、その方が普通だと思える部分で三 人称を使ったのは、何らかの効果を狙ったためだと考えるべきではないでしょうか。そうだとしたら、どのような効果を狙ったのでしょうか。

 正直なところ、答えは分かりません。とんでもなく難しい問題になりそうだという予感がするだけで、しっかりした答えはみつからないのです。

 しかし、こうはいえます。原文を読んだときに受ける印象は、たとえば斉藤真訳を読んだときの印象とは違っています。力のない文章、ニュース解説のような 文章だという印象ではなく、力強い宣言だという印象を受けます。

 なぜそのような印象を受けるのかを考えていくと、英語と日本語の癖の違いともいいうる点が思い浮かびます。英語の場合には、状況を客観的な観点から認識 する表現が比較的よく使われます。上から、神の視点から、状況をみることが比較的多いともいえます。その場合、三人称の表現が使われることになります。 「独立宣言」のこの部分についていうなら、英語では三人称で表現することで、正義は我にありと主張しているように感じます。

 これに対して日本語では、状況のなかに身を置き、対象と一体化した表現が好まれる傾向があります。この場面で三人称を使うと、冷たいという印象になりま す。一人称でなければ、この部分の意味は表現しにくいのです。

 英語と日本語でこのような違いがあることは、三人称で書かれた小説の翻訳にあたって、「視点のぶれ」という問題としてよく話題になります。英語の三人称 の小説では、上から状況をみる視点が一貫してとられています。ところがこれを翻訳するときには、それぞれの場面で登場人物のうちひとりの視点から書いてい くことになります。使われているのは三人称でも、事実上、一人称の視点で訳していくのです。ところが、少し油断していると、視点がぶれます。ジョンと ジェーンというふたりが登場する場面で、はじめはジョンの視点から書いていたのに、突然、ジェーンの視点になり、またジョンの視点に戻るということになり かねません。こう訳されていると、読者は目が回ってきます。日本語では、神の視点から物語の展開を眺めるという視点はとりにくく、どうしても登場人物のう ちひとりの視点で眺めることになるので、こういう問題が起こります。

 翻訳にあたって、英語と日本語の性格の違いを考慮するなら、原文に三人称が使われているから訳文でも三人称を使わなければならないとはいえないはずで す。通常の日本語でどのような表現が使われるかを考えて、原文の三人称を一人称に転換する場合もあれば、原文の二人称を三人称か一人称に転換することもあ ります。原文の意味を通常の日本語で伝えることが翻訳ならば、そういえます。

 しかし、翻訳というものの役割を考えていくと、通常の日本語なら一人称で書くのだから一人称で訳すべきだというのは、少々短絡的かもしれません。原著者 が一人称で書こうと思えば書けるのに、三人称を使って書いたとき、何らかの効果を狙ったのであれば、おなじ効果を日本語で表現するように努力すべきだとも いえるからです。

 これに関連してすぐに思い出すのはローレンス・ベヌーティのdomesticationとforeignization(同化と異化)という翻訳論の言 葉です。ベヌーティはイタリア語から英語への翻訳を行ってきたアメリカの翻訳家で、翻訳論の研究者です。アメリカでは、出版社の編集者が翻訳家に対して、 翻訳であることを読者に意識させないような文章にすることを要求するといいます。ベヌーティはこれをdomesticating translationと名付け、原文の特徴を活かした翻訳、foreignizing translationを行うべきだと主張しています。「独立宣言」のこの部分の翻訳についていうなら、英語の原文で三人称が使われているから三人称で訳 すべきだと考えるのが、foreignizationであり、通常の日本語では一人称を使うのだから一人称で訳すべきだと考えるのが、 domesticationだといえます。

 しかし、日本の翻訳の歴史という観点からは、少し違ったことを考えます。日本は欧米の言語で書かれた文献の翻訳によって、さまざまな点を学んできまし た。欧米の進んだ文化や思想はもちろんですが、それだけでなく、句読点といったことまで学び、その結果、段落と文(センテンス)という概念を日本語に取り 入れてきました。であれば、状況を客観的な観点から認識する表現も取り入れるべきではないでしょうか。そうであれば、通常の日本語ならここでは一人称を使 うとしても、あえて三人称を使うという方法もあるのではないでしょうか。

 たしかにそういう方法もありえます。しかし、高橋正次郎らの訳文を読むと、このような観点からあえて三人称を使ったと思える文章にはなっていません。 もっと気楽に、原文にthem、theirが使われているから「彼等」と訳したというのが実態ではないでしょうか。

 要するに、「彼等」「彼ら」という言葉を、何か深い考えがあって使ったわけではなく、単純に、原文のこの部分にthem、theirが使われていたこと を示す符丁として使ったにすぎないのでしょう。訳語は意味を伝えるのではなく、原文にどのような言葉が使われていたのかを示すにすぎない。これが翻訳調の 本質です。なぜ、このような方法をとるのかといえば、高橋正次郎が述べたように、「原書ニ對照スル人」のための便宜を考えたからなのでしょう。

 福沢諭吉や中村正直の観点はまったく違っています。翻訳にあたって、読者が原文をあわせて読むとは考えていません。翻訳は翻訳だけで読者に原著の内容を 伝えるものだと考えています。ですから、読者が原文を参照しなくても意味が理解できるように訳しているのです。

 いま、翻訳にあたって想定すべき読者はどちらなのでしょうか。原著を読もうとする読者なのか、それとも、訳書だけを読む読者なのか。考えてみる必要もな いのではないでしょうか。いまの読者は、少なくとも原著が英語で書かれていれば、原著を読みこなす力をもっていることが多いでしょう。だから、原著を読む 場合も多いはずです。ですが、訳書を読むときには、原著を同時に読もうなどとは考えないのが普通でしょう。読むのはどちらか一方だけ。原著を読めば訳書は 読まないし、訳書を読むのなら、原著は読みません。これがいまの読者の姿だとするなら、福沢諭吉と高橋正次郎のどちらの方法を採用すべきかはあきらかなの ではないでしょうか。

第3段落以下の主語をどう訳すか
 もうひとつ、人称代名詞の訳し方の典型例をみていきましょう。第3段落以下に、heを主語とする文が並んでいます。たとえば第3段落はこうです。

    He has refused his Assent to Laws, the most wholesome and necessary for the public good.

 このheはいうまでもなく、第2段落の最後から2番目の文にあるthe present King of Great Britainを受けています。このheがどう訳されているかをみていきましょう。

福沢諭吉訳(1866年)      英國王
中村正直訳(1873年)      英王
高橋正次郎訳(1895年)    彼ハ
倉持千代訳(1929年)      彼は
立教大学訳(1950年)      彼は
人権思想研究会訳(1950年)    彼は
高木八尺訳(1951年)      彼は
宮田豊訳(1956年)       彼は
高木八尺訳(1970年)     彼は
斉藤真訳(1981年)       彼は*
土田宏訳(1982年)       彼は**
友清理士訳(2001年)      ―(訳語なし)
*第3段落では「彼、イギリス国王は」とし、第4段落からは「彼は」。
**第3段落では「彼〔国王〕は」とし、第4段落からは「彼は」。

 このように、1895年の高橋正次郎訳から1982年の土田宏訳まではいずれも、heを「彼」と訳しています。福沢諭吉が「英國王」、中村正直が「英 王」と訳し、21世紀になってようやく、「彼」ではない訳があらわれているのです。明治半ばからほぼ100年にわたって、原文にheとあれば「彼」と訳さ なければならないとする規範が強かったことを示している、そういえるのではないでしょうか。

 翻訳調の規範のもとでは、英語の人称代名詞の訳し方は決まっていました。一人称単数なら「私」と訳し、一人称複数なら「我々」などと訳し、二人称単数な ら「あなた」と訳し、二人称複数なら「あなたがた」などと訳し、三人称単数なら「彼」か「彼女」と訳し、三人称複数なら「彼ら」か「彼女ら」と訳します。 これらの訳語が、日本語の人称代名詞だと考えられてきました。文部省推奨の正しい人称代名詞だとされてきたのです。

 しかし、英語のIやyouやheやsheなどを人称代名詞と呼び、日本語の「私」や「あなた」や「彼」や「彼女」なども人称代名詞と呼ぶのは、じつはき わめてあぶないことだと思います。英語と日本語では、これらの語の性格がかなり違っているからです。

 どう違っているか、いくつかの点が指摘できます。まず、英語では人称代名詞がほぼ決まっているのに、日本語では英語の人称代名詞に似た機能をもつ言葉 が、何十どころか、何百、何千もあります。場面によって、相手との関係によって、じつにさまざまな語を使い分けます。子供が言葉を覚えていく過程をみる と、よく分かるはずです。小さなとき、自分のことをたとえば「さっちゃん」といいます。幼稚園に通う年齢になると、これでは恥ずかしいことに気付いて、 「ぼく」や「わたし」などを覚えます。男の子なら相手によって、「おれ」を使うかもしれません。もっと大きくなると、もっといくつもの語を使い分けるよう になります。

 二人称では、小さな子供は代名詞らしい語は使いません。「ママ」や「パパ」、「〜ちゃん」などを使います。大きくなるとさまざまな語を使うようになりま すが、会話で相手かまわず「あなた」を使う人はまずいないのではないでしょうか。「あなた」はもともと「彼方」であり、「山のあなた」がよく知られている 例です。上田敏の『海潮音』にあるカール・ブッセの有名な詩、「山のあなたの空遠く、『幸』住むと人のいふ。噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、涙 さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く『幸』住むと人のいふ」で使われています。この「彼方」が、遠くにいる高貴な人をさす「貴方」になり、やが て、相手に敬意を示す二人称の言葉として使われるようになりました。しかし「あなた」を使う場面はそう多くありません。話し手と聞き手の関係によって、 「あなた」を使う場合もあるといえるだけです。たとえば、上目使いで裏声の「あなた」は、女性が夫か恋人に甘えるときに使います。きっとにらんだ地声の 「あなた」なら、つぎに怒号か平手打ちがとんでくるでしょう。相手かまわず「あなた」を使うと、不快感をもたれる場合があります。そして、広告のコピーや 翻訳で使われる「あなた」はたいてい、読者に不快感を与えるとすら思えます。翻訳にあたっては、「あなた」を使える場面かどうか、少し考えてみるといいと 思います。

 これに関連して指摘しておくべき点は、日本の表現力です。英語のheにあたる言葉は、日本語には多数あります。あいつ、やつ、野郎、きゃつ、やっこさん などもあれば、あの人、あの方、あのお方、その人、その方、先方などもあります。先生、教授、社長、部長、店長など、その人の立場をあらわす言葉もありま す。福沢諭吉訳の「英國王」、中村正直訳の「英王」はその好例です。また、○○さん、○○君など、固有名詞に敬称をつける場合もあれば、姓名だけ、姓だ け、名だけで敬称をつけない場合もあります。他にも多数ある表現のうちどれを使うかで、話し手、聞き手、話題になっている第三者の関係について、話し手が どうとらえているかが一瞬にして明らかになります。これほど表現力が豊かな言葉が英語にあるのかどうかはよく分かりませんが、英語の人称代名詞にこうした 表現力がないことだけはたしかです。

 話し手、聞き手、話題になっている第三者の関係についての見方を一語で示すのですから、日本語は表現力が豊かだといえますが、半面、厄介だともいえま す。「先生」というべきなのに、「あの人」といったというだけで、場がしらけることがあります。聞き手との関係が悪くなることもあります。いじめや引きこ もりのきっかけにすらなりかねません。おそらくはこの点がひとつの原因になっていると思いますが、もうひとつの点が指摘できます。

 もうひとつの点とは、英語の代名詞が何百年も変化しないのに対して、日本語の代名詞が時代によって大きく変わってきていることです。「アメリカ独立宣 言」が発表されたのは、1776年です。200年以上たっているわけですが、人称代名詞はいまと変わりません。1776年というと江戸時代ですから、日本 語の代名詞がいまと変わらないなどとは考えられません。たぶん、日本語の代名詞には聞き手や第三者との関係を示す「含意」があるので、なるべく「含意」の ない言葉を探そうとして、新しい言葉を使うようになるのでしょう。安全を期して、敬意をあらわす語を使おうとする結果、敬意という「含意」が薄れていき、 別の言葉を探さなければならなくなるという事情もあるのでしょう。この点が目立つのが二人称です。君、御前、貴様などはどれも、もともとは目上の人に対し て使う言葉でしたが、やがて同輩に使うようになり、目下の人に使うようになって、敬意を示すときは別の言葉が必要になっています。

 翻訳には「彼」や「彼女」などが不可欠だと思えるかもしれませんが、そんなことはありません。「彼」も「彼女」もまったく使わなくても、翻訳は可能で す。自分のことをもちだして恐縮ですが、過去1年に、翻訳で「彼」や「彼女」を使ったことは一度もないはずです。普通の日本語の会話や文章で「彼」や「彼 女」を使うことがあるではないかと思われるかもしれませんが、その場合、「彼」や「彼女」がふさわしい状況があるからなのです。翻訳にあたって、「彼」や 「彼女」がふさわしい場面はめったにでてこないので、「彼」も「彼女」も使わずに翻訳することになります。原文にはもちろん、heやsheが頻繁にでてく るのですが、そのすべてを「彼」も「彼女」も使わずに翻訳することは十分に可能です。「彼」や「彼女」を使うと、上述の厄介さや含意をすべて避けられるの で便利だし、解放感すらあるかもしれません。しかしこれは安易な方法であり、安易に流れてはまともな翻訳はできないとも思います。

 もっともこれは、ともすれば安易に流れる自分に対する戒めとして考えていることであって、高橋正次郎から土田宏までの訳者が安易だったなどとは考えてい ません。なかには翻訳調の公式通りの訳になっている場合もありますが、たいていは、翻訳調という規範の範囲内で、工夫した訳になっています。しかし、翻訳 調という規範がなかった幕末明治の訳と比較すると、違いが歴然としているといえます。

 この違いをさらに考えていくために、つぎに第1段落の訳し方をみていきます。(以下次号)

資料1 代名詞の訳し方

@ 福沢諭吉訳(慶応二年、一八六六年)
方今(ほうこん)我諸州正(まさ)シク此ノ難ニ羅(かか)レルカ(が)故ニ政府舊来(きゅうらい)ノ法ヲ變革スルハ諸州一般止(や)ム得サ(ざ)ルノ急務 ナリ

A 中村正直訳(明治六年、一八七三年)
亞米利加(アメリカ)新地ノ人民・既ニ久シクカクノ如キ苦難(クナン)ヲ忍受(ジンジユ)シタリ・而〆(シコウシテ)今遂(ツイ)ニ政府ノ舊治法ヲ變ゼザ ルベカラザル事情ニ迫(セマ)リ至レリ・

B 高橋正次郎訳(明治二八年、一八九五年)
此植民地ガ是マデ忍ビ來キタル困苦、夫斯ノ如シ、而シテ今日彼等ヲ促シテ從前ノ政體ヲ革命セシムル必要、夫レ斯ノ如シ。

C 倉持千代訳(昭和四年、一九二九年)
是が是等植民地の歴然たる忍従であつた而して今や是が彼等をして彼等の以前の政治制度を變更せしむる必要である。

D 高木八尺訳(昭和六年、一九三一年)
植民地の久しきに亙れる苦難は全くかゝる場合に他ならぬ。又かくの如きが現今諸植民地を餘儀なくして從來の政治の形體を變革せしむる理由である。

E 立教大学アメリカ研究所訳(昭和二五年、一九五〇年)
植民地の久しきにわたれる苦難は全くかかる場合に他ならない。またかくの如きが、現今諸植民地をして余儀なく從來の政治の形体を変革せしむることを必要と したのである。

F 人権思想研究会訳(昭和二五年、一九五〇年)
これら植民地の忍耐強い苦悩は、そのようなものであり、また今や従来の政府組織を変更するの止むなきにいたらしめた必要もまたそのようなものである。

G 高木八尺訳(昭和二六年、一九五一年)
これら植民地の隠忍した苦難は、全くそういう場合であり、今や彼等をして、餘儀なく、從前の政治形態を變改ししめる必要は、そこから生ずる。

H 宮田豊訳(昭和三一年、一九五六年)
これら植民地の忍耐強い屈従はこのようなものであったのであって、これが、植民地が、今、従来の政治形態を余儀なく変革せざるをえない必然の理なのであ る。

I 高木八尺訳(昭和四五年、一九七〇年)
これら植民地の隠忍した苦難は、全くそういう場合であり、今や彼らをして、余儀なく、従前の政治形態を変改せしめる必要は、そこから生ずる。

J 斉藤真訳(昭和五六年、一九八一年)
これら[アメリカの]植民地が堪え忍んできた苦難は、まさしくそうした場合であり、いまや彼らはやむなく、彼らの従来の統治形体を改変する必要をみるにい たったわけである。

K 土田宏訳(昭和五七年、一九八二年)
これら植民地が耐え忍んできた苦難は、正しくそういう場合であり、今や我等は、従来の政治形態を余儀なく改変する必要を理解するに至ったのである。

L 友清理士訳(平成一三年、二〇〇一年)
これら植民地が堪え忍んできた苦難はそうした域に達しており、植民地をしてこれまでの政治形態の変更を目指すことを余儀なくさせる必要性もまたしかりであ る。


(2009年1月号)