翻訳の技法
山岡洋一

「アメリカ独立 宣言」の翻訳に学ぶ

 
 2009年2月号まで3回にわたって、「アメリカ独立宣言」の翻訳の歴史をとりあげた。そこで論じた点について、今回は少し角度を変えて、翻訳の技法と いう観点で何が学べるかを示していく。そして、技法には限界があることにも触れる。

代名詞をどう訳すか
 外国語の文書を母語に翻訳してできた翻訳文には、母語で書かれた文とは違った特徴があるのが普通です。翻訳文は、外国語の文書を学んで書かれるのですか ら、外国語の特徴を取り入れて、母語に本来はなかった性格をもつようになると考えるのが自然でしょう。

 しかし、ものごとはそう単純ではありません。外国語の良さを母語に取り入れるのは簡単ではないので、翻訳文は外国語で書かれた原文より、表現が単純にな ることが少なくないはずです。そしてもうひとつ、母語が本来もっている表現の豊かさのうち、外国語にない部分は、翻訳文から抜け落ちることになる場合が少 なくないはずです。このため翻訳文は、外国語の表現の豊かさと、母語の表現の豊かさのうち、たまたま重なっている部分だけを使って、貧弱な文章になる可能 性があります。

 日本語の表現の豊かさのうち、翻訳で何が抜け落ちるかをみていくと、典型的な例が代名詞、とくに人称代名詞だと思います。英語という観点から日本語の普 通の文章を読んでいくと、人称代名詞の豊富さに驚くはずです。英語の場合、一人称なら基本的に単数形のI(my、me)と複数形のwe(our、us)し かないのに、日本語にはいくつもの語があります。三人称はとくに違いが大きく、英語には基本的にhe、she、theyとitしかないのに、日本語には数 え切れないほどあります。それ以外に、代名詞を使わない表現もあるし、普通名詞を人称代名詞に使う方法もあります。たとえば、「父」や「母」、「先生」や 「社長」などがあり、これらが人称代名詞の代わりに使われています。名詞の代わりに使われるのが代名詞だから、人称代名詞の代わりに使われるのは、代人称 代名詞とでも呼ぶべきでしょうか。

 英語には人称代名詞がわずかしかなく、日本語には人称代名詞とそれに代わる語が多数あるのですから、この部分に限っていえば、英語より日本語の方が表現 がはるかに豊かだといえるはずです。しかしこれは、翻訳文ではない英語と翻訳文ではない日本語を比較したときの話です。日本語のうち、ある種の翻訳文、つ まり翻訳調の翻訳文をみていくと、人称代名詞は英語の一語に対して一語が使われているだけで、英語と同じ数しか使われていないのです。

 今回、「アメリカ独立宣言」の翻訳の歴史をみていったときに明らかになったように、この傾向は明治半ばから昭和の末期まで続いています。明治半ばに翻訳 調が採用され、その後の翻訳の主流になったのは、それなりの時代的背景があり、合理的な根拠があったからです。しかし、それから100年たった現在では、 翻訳調の時代的背景も合理的な根拠も、ほとんどなくなっていると思えます。そして、落ち着いて考えてみれば、原文にheとあれば「彼は」と訳し、they とあれば「彼らは」と訳す方法をとらなくてもいいのではないかと思えるはずです。幕末から明治初期の福沢諭吉や中村正直の翻訳に学んで、もっと柔軟に考え てもいいのではないかと。

 つまり、人称代名詞の訳し方については、これまで、日本語の豊かな表現力を殺して、ごく単純に訳す方法がとられてきました。幼稚な日本語で、貧弱な表現 で訳してきたともいえます。ですが、単純で、幼稚で、貧弱なのは、翻訳者自身の表現力ではありません。翻訳者はもっと豊かな表現力をもっているのに、翻訳 の規範に従って、表現力を発揮しないようにしてきただけです。なんとももったいない。そう痛感すれば、その瞬間から、自分がもともともっている表現力を活 かせるようになるでしょう。

 しかし、たいていの翻訳者は、翻訳調の人称代名詞の訳し方が習い性になっているのではないかと思います。何しろ、英語を学びはじめた子供のときから、原 文にheとあれば「彼は」と訳し、theyとあれば「彼らは」と訳す方法をたたき込まれてきたのですから。そこで、人称代名詞の豊かな表現力を取り戻すた めに、2つの方法を示しておきます。

 第1は、日本語の小説とその英訳を比較対照しながら読む方法です。古くは紫式部から、夏目漱石、川端康成、三島由紀夫らを経て、村上春樹や吉本ばなな、 宮部みゆきらの現代の作家まで、じつに多様な作家の作品が翻訳されています。だから、好きな作品を選べます。原著を読み、訳書を読み、比較対照しながら読 んでいくと、じつにさまざまな点を学べるはずです。人称代名詞もそのひとつです。訳書を日本語に訳してみる方法もあります。自分の訳と原著を比較すると、 訳し方の問題点がよく分かるはずです。たとえば、訳書にheと書かれているとき、日本語の表現がじつにさまざまなことが分かります。

 第2は、翻訳にあたって制限を設ける方法です。人称代名詞を自由に豊かに翻訳できるようにするために制限を設けるというのは、何か奇妙だと思えるかもし れませんが、手足を縛れば自由に振る舞えるようになる場合もあるのです。だから、制限を設けます。「彼」「彼女」「彼ら」「あなた」といった訳語をまった く使わずに訳すという制限です。要するに、安易な道を閉ざして訳してみるのです。このような制限を設けると、原文に人称代名詞がでてきたときに、ほとんど 無意識のうちに機械的に訳すという方法がとれなくなります。原文をよく読み、しっかりと解釈し、うまく表現しようと考えるようになります。この方法をしば らく続けていると、人称代名詞はもちろんですが、それ以外の部分でも訳文の表現が豊かになると思います。

構文の訳し方
 前回、「『ア メリカ独立宣言』の翻訳(3)」(「翻訳通信」2009年2月号)で、以下の部分の訳し方について、幕末の福沢諭吉訳と翻訳調の典型ともいえる宮 田豊訳を比較しています。

   He is at this time transporting large Armies of foreign Mercenaries to compleat the works of death, desolation and tyranny, already begun with circumstances of Cruelty & perfidy scarcely paralleled in the most barbarous ages, and totally unworthy the Head of a civilized nation.

福沢訳(1866年)
英国王殺人滅国ノ暴政ヲ遂ケント欲シ方今ハ外國ノ大兵ヲ雇テ我国ニ送リタリ其不義惨酷往古ノ夷狄ト雖ドモ爲サル所ニテ豈文明ノ世ニ出テ人ノ上ニ立ツ者ノ挙 動ナランヤ

宮田訳(1956年)
 彼は、最も野蛮な時代にも殆んど比類のない全く文明国民の支配者に価しない残虐と不実との限りを尽くして既に始められた殺戮・荒廃及び暴政の諸行為の仕 上げをするために、今、外国傭兵の大部隊を輸送中である。

 そのときは触れていませんが、ここで翻訳の技法という点で問題になるのは、英語の後置修飾をどう扱うかです。後置修飾とは、関係代名詞、分詞などを使っ て、被修飾語句の後ろに修飾要素がおかれるものです。原文では後置修飾がいくつも使われています。

the works of death, desolation and tyranny
← already begun with circumstances of Cruelty & perfidy
← scarcely paralleled in the most barbarous ages, and totally unworthy the Head of a civilized nation

 ここで、下線部分が被修飾語句で、←以下が後置修飾です(実際にはさらに、どちらの下線部分でもof以下がその前にある名詞の後置修飾句になっていま す)。

 後置修飾の訳し方が問題になる理由は簡単です。英語には前置修飾と後置修飾があるのに、日本語には後置修飾がなく、基本的には前置修飾しか使えないから です。そのうえ、英語の後置修飾は長くなる傾向があります。長いから後置修飾にしているのです。上の宮田豊訳では、英語の後置修飾をそのまま前置修飾に変 えて訳しています。その結果、曖昧で、意味不明な訳文になっています。

 英語の後置修飾は長くなりうるという性格をもっており、この部分の原文にみられるように、二重に使うこともできるし、ときには三重、四重に後置修飾が使 われている場合もあります。日本語では後置修飾が使えないので、前置修飾にして訳すのが常識になっていますが、限度があります。それほど長くはなく、単純 な構造の後置修飾なら、後ろから前に訳す常識的な方法でもそれほど問題はありません。しかし、二重、三重の後置修飾を後ろから前に訳したのでは、明快な原 文から謎解きのような訳文が生まれるのが普通です。ここが翻訳者の腕の見せ所、明快な訳文を書くために、はりきるところです。

 ではどうすればいいのか。ひとつは、単純な制限を設ける方法です。前回に指摘したように、宮田訳でとくに問題になるのが、「殆んど比類のない」の部分で す。連体形が何を修飾しているのかが不鮮明になっているからです。連体形があれば、すぐ後ろに体言があるのが普通です。たとえば、「殆んど比類のない残 虐」とか、「殆んど比類のない行為」とかであれば、意味は鮮明です。ところが宮田訳では、連体形の直後に被修飾語句がなく、「殆んど比類のない全く文明国 民の……」と続くので、読者は戸惑います。いまの翻訳ならこの部分ではたいてい、読点が使われて、「殆んど比類のない、」になります。「連体形+読点」で す。この読点は、修飾の対象である用言が少し後ろにあることを示しています。しかし、読点があってもなくても、読者にとって意味不鮮明であることに変わり はありません。そこで、「連体形+読点」を使わないようにするのです。この縛りを設けると、人称代名詞のときと同じように、機械的には訳せなくなり、原文 をよく読み、しっかりと解釈し、うまく表現しようと考えるようになります。

 もうひとつは、福沢諭吉や中村正直ら、翻訳調が確立する以前の翻訳をよく読む方法です。学べるところがたくさんあるはずです。「翻訳通信」2008年 12月号に「アメリカ独立宣言」第1段落の13種類の既訳を並べてあります。このうち、翻訳論で取り上げられることが多い福沢諭吉訳はこうです。

人生已ムヲ得サルノ時運(じうん)ニテ一族ノ人民他國ノ政治ヲ離レ物理天道ノ自然(じ ねん)ニ従テ世界中ノ萬國ト同列シ別ニ一國ヲ建(たつ)ル時ニ至テハ其建國スル所以ノ原因ヲ述ヘ人心ヲ察シテ之ニ布告セサルヲ得ス

 この部分は、「一族ノ」から「建(たつ)ル」まで、4つの節が並列されて、「時」で再統合されるとも読めます(この読み方は、立教大学の長沼美香子准教 授に教えていただいたものですが、別の読み方も可能だということです)。そう考えると、福沢訳が日本語本来のリズムを活かして、長い後置修飾を長い前置修 飾の形で見事に訳しているともいえます。前置修飾は構造が複雑だと読み解くのが難しくなりますが、構造が単純なら、長くても読めますし、そういう例はいく らでもあります。一例をあげます。

いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際に はあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 いうまでもなく、『源氏物語』の冒頭部分です。念のために、与謝野晶子訳とサイデンステッカー訳の同じ部分をあげておきます。

 どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣と かいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。

In a certain reign there was a lady not of the first rank whom the emperor loved more than any of the others.
http://webworld.unesco.org/genji/en/part_1/1-1.shtml

 この2つの訳を読めば明らかなように、原文は最後の「ありけり」の前に「人」が省略された形になっていて、「女御、更衣」から「時めきたまふ」までが 「人」を修飾していると読めます。サイデンステッカーはこの長い前置修飾を長い後置修飾にして訳しています。福沢訳はある意味で、『源氏物語』のこの文章 に似ているように思います。こういう訳をよく読んで、日本語本来のリズムを身につけておけば、長い後置修飾をうまく処置できるようになるのではないでしょ うか。

拡張の方向
 以上では人称代名詞と後置修飾の2つを取り上げましたが、同様の方法は他の点にも使えます。たとえば、人称代名詞以外にも、翻訳にあたって機械的に訳語 を割り当てている単語や連語がたくさんあります。機械的に訳語を割り当てているとき、その語句が文中でどのような意味をもっているのかは、ほとんど考えて いないのが普通でしょう。それでも、頭のどこかで違和感を覚えている場合があるはずです。そういう語句にぶつかったとき、違和感を大切にして、常識的な訳 語を使わないようにする方法があります。まずはいくつかの語句に絞って、常識的な訳語を使わないようにしてみるといいでしょう。そうすれば、原文をよく読 み、しっかりと解釈し、うまく表現しようと考えるようになります。

 例を挙げるなら、おそらく、indeedとかat leastとかの副詞と副詞句の訳語に違和感を覚えることが少なくないはずです。日本語と比較したとき、英語の表現が豊かな部分に、副詞があるように思い ます。英語の豊かな副詞表現を日本語の副詞表現で訳そうとすると、どうも違うと思える場合が少なくないはずです。常識的な訳語を使わないようにすると、さ まざまな工夫が必要になります。副詞を形容詞や名詞や語尾で表現することも考えるようになります。語尾で表現するというと、意外に思われるかもしれません が、以下の2つの文章をどう英訳するかを考えてみるといいでしょう。

1 わたしは少年です。
2 わたしは少年なのです。

 どちらも同じになるというのでは、芸がなさすぎると思うのであれば、すぐに思いつくのは、indeedなどの副詞を使う方法でしょう。これで、英語の副 詞表現を語尾の表現で訳せることが実感できるのではないでしょうか。

 同じ方法は、各種の構文の訳し方など、さまざまな点に応用できます。しかし、一度に取り組まない方がいいでしょう。候補はたくさんあげておくといいで しょうが、そのなかで順番を決め、一度に1つか2つに絞り込んで、1週間だけ、あるいは1ヵ月だけというように期間を決めて行っていくのがいいと思いま す。

肝心要の点
 以上では、翻訳の技法という観点から、「アメリカ独立宣言」の翻訳に学ぶ方法をあげてきました。翻訳の実務では技法がきわめて重要だからですが、翻訳は 技法だけで品質を高められるほど単純ではありません。

 翻訳にあたっては、原文をさまざまな点で訳文のによって再現しようと努めます。原文の意味を正しく伝えようと努めるのはもちろんですが、それだけでな く、原文の文体、論理性、明晰さ、勢い、リズム、美しさなども再現しようと努めます。原文が何を伝えようとしているかだけではなく、どう伝えようとしてい るかも大切なのです。

 この点は福沢諭吉訳を翻訳調の訳と比較してみれば、よく分かるはずです。翻訳調の訳は、読者が原文を同時に読むという条件を満たしていれば(翻訳調はそ ういう読者を想定した訳し方ですから、無茶な前提ではありません)、意味を伝えるという点で、福沢訳にそう劣っているわけではないとも思います。しかし、 原文の論理性や明晰さ、勢いを伝えるという点では、これはもう比較になりません。

 なぜそうなっているのかを考えると、福沢諭吉が原文を深く理解し、原著者に強く共感して訳したからだと思います。翻訳調の訳はこれに対して、いうならば 小手先の技法に頼った訳だと思えます。翻訳調というのは、特殊な技法の体系ですから、これは当然の結果だといえます。小手先の技法に頼っていては、ほんと うの意味で質の高い翻訳にはなりえないのでしょう。

 いまではたぶん、翻訳調はよくないという点で、ほとんどの人の意見が一致するはずです。過去四半世紀にわたって、翻訳の世界では翻訳調を克服するための 努力が続けられてきました。その際に合い言葉になってきたのは、「自然な日本語」「こなれた訳文」でしょう。自然な日本語で訳出するために、さまざまな技 法が提案され、試されてきました。上に記したことのほとんどは、その成果を踏まえています。

 しかし、翻訳調ではない技法を強調してきた結果、日本の翻訳は大きく前進したといえるのでしょうか。おおいに疑問だと思います。「こなれた訳文」が合い 言葉になった結果、幼稚で単純で貧弱な訳文がもてはやされるようになったにすぎない。そういえるのではないでしょうか。

 であれば、翻訳調のどこに問題があるのかをもう一度考え直すべきでしょう。直訳だから、つまり原文の一字一句に忠実すぎて、自然な日本語でないから問題 なのか。違う違うと思います。翻訳調は原文に忠実な翻訳ではありません。個々の単語や連語の訳し方、構文の訳し方として確立された方法、つまり技法に忠実 なだけです。決まった訳し方で訳しているだけなのです。だから、原文とは文体、論理性、明晰さ、勢い、リズム、美しさなどの点で、似ても似つかぬものにな ります。そしてもっとも重要な点、原文の意味を訳文だけで伝えることができないのです(原文を同時に読まなければ、意味は理解しにくいはずです)。だか ら、翻訳調を克服するというときに目指すべきは、自然な日本語の訳文ではなく、こなれた訳文ではなく、原文に忠実な訳文だというべきです。しっかりした日 本語で、原文を忠実に再現することを目指すべきだと思います。

 翻訳の技法はたしかに重要です。しかし、優れた技法だけで、原文に忠実な訳文ができるわけではありません。何よりも必要なのは、原文の深い理解と強い共 感です。この点こそ、福沢諭吉や中村正直の翻訳から学ぶべき点です。肝心要の点は、原文の深い理解と強い共感であり、これがなければ、精神のない翻訳機械 になるだけです。どうすれば深く理解し、強く共感できるようになるかと質問したくなるでしょうか。でも、そう質問する人はいないはずです。簡単な方法がな いことは誰でも知っているからです。そして、答は誰でも知っています。ひたすら努力するしかないのです。

(2009年3月号)