新たな方向に踏み出すために
山岡洋一

規範 が重要

 何も大げさな話をしようというのではない。七難八苦を与えるよう月に祈ることはない。だが、自由にのびのびと訳せばいいというのでは、翻訳は甘くなり、 幼稚になり、腐っていくばかりだ。厳しい縛りがあってこそ、がんじがらめと思えるような制約があってこそ、翻訳の質を高めていくことができる。

 その点を改めて痛感するきっかけが最近、2つあった。第1は、染谷泰正氏から字幕翻訳教育の話を聞いたこと、第2は、久しぶりに村上博基の名訳、ル・カ レの『スマイリーと仲間たち』を読んだことである。

 染谷氏は長年の友人だ。何年か前、翻訳教育法を考えるようにという宿題をだされたことがある。当時、染谷氏はビジネス英語、コーパス言語学にくわえて通 訳教育法を研究していたので、おまえは翻訳教育法をやれといったのだろう。気がついてみると、こちらがうろうろしている間に、染谷氏は通訳教育法の権威に なっていた。通訳教育者に頼られるようになっていたのだ。

 その染谷氏が新たに取り組んだのが字幕翻訳教育だった。最近には、大学などで翻訳を教える教員向けに、字幕翻訳教育法を教えるセミナーを開いている。通 訳教育の場合と同じように、教育者の教育に取り組んでいるのである。字幕翻訳の教育には通常の翻訳教育にはない良さがあるという。どういう良さかという と、字幕には長さという絶対的な制約条件がある。和文英訳のような訳し方では長くなりすぎてうまくいかない。だから、学生がみずから工夫するようになると いうのだ。

 たとえば人称代名詞の処理という問題がある。英語から日本語への翻訳の教育にあたっては、人称代名詞をなるべく減らすよう指導する必要がある。だが字幕 翻訳なら、そんな指導をするまでもない。「あなた」や「彼」、「彼女」を多用していては長くなりすぎるので、自分で減らすようになるというのである。なる ほど、厳しい制約があれば、誰でも工夫するし、その結果、翻訳の質が自然に高まっていくようなのだ。

 もうひとつの点は村上博基の名訳だが、最近いくつかの必要があって、久しぶりに読むことになった。村上博基訳、ジョン・ル・カレの『スマイリーと仲間た ち』は名著の名訳なので、個人的にはとくに好きな小説のひとつだ。もう何度も読んでいるし、読むたびに感嘆しているので、いまでは原著と訳書を机の上にな らべただけで、原文と訳文があやふやながらも頭に浮かんでくる。読むというより、生来あやしいうえに、歳とともにますますあやしくなってきた記憶力を試し ているような印象になる。

 今回、あらためて確認したのだが、村上博基は自由にのびのびと訳しているわけではない。こういっては失礼にあたるが、何だか強迫観念にとらわれているか のように、原文の一語一語をもれなく訳している。

『スマイリーと仲間たち』はこの「翻訳通信」で何度かとりあげてきたし、そのたびに冒頭の段落を紹介しているので、またかと思われるかもしれないが、今回 も同じ部分を取り上げる。

 一見関係のないふたつの出来事が、ミスター・ジョージ・スマイリーを、そのあやぶま れた引退生活からよびもどすことになった。最初の出来事の背景はパリ、季節はうだるような八月、例のごとくパリジャンが、灼けつく日ざしと、バスでくりこ む団体観光客に、街を明け渡すときであった。(村上博基訳ジョン・ル・カレ著『スマイリーと仲間たち』ハヤカワ文庫、7ページ)

Two seemingly unconnected events heralded the summons of Mr. George Smiley from his dubious retirement.  The first had for its background Paris, and for a season the boiling month of August, when Parisians by tradition abandon their city to the scalding sunshine and the bus-loads of packaged tourists. (John Le Carre, Smiley's People, Bantam Books, p.1)

 原文は48語で構成されている。このうち訳語が重要になりうる内容語(名詞、動詞、形容詞、副詞)は27語だ。このうちthe ... month of Augustは月を表現するときの決まり文句なので、対象外とした。残りの26語をみていくと、そのうち25語にそれぞれ訳語が割り当てられている。例外 はheraldedだけである。ここでは、heralded the summons of ...が「〜を〜からよびもどすことになった」と訳されていて、hraldedという語の訳語が表面にでていない。

 この25語について、原語と訳語の品詞をみていくと、by traditionを「例のごとく」と訳し、bus-loads ofを「バスでくりこむ」と訳した点を除けば、名詞のsummonsを「よびもどす」という動詞で訳しているだけで、残りはすべて同じ品詞になっている。

 25語のうち、固有名詞を除く20語で使われた訳語を対象し、英和辞典にでていない訳語がどれだけあるかも調べてみた。研究社の『リーダーズ英和辞典』 第2版を基準にすると、辞書にでている訳語が7、辞書にでていない訳語が13であった。村上博基が使った語のうち、何と半分強が辞書にでていない訳語だっ たのである。以下が一覧である。

表 村上博基訳『スマイリーと仲間たち』第1段落の原語と訳語

原語

訳語

辞書*

Two

ふたつの

あり

seemingly

一見

なし

unconnected

関係のない

なし

events

出来事

あり

heralded

summons

よびもどす

なし

Mr.

ミスター

あり

George

ジョージ

Smiley

スマイリー

dubious

あやぶまれた

なし

retirement

引退生活

なし

first

最初の

あり

background

背景

あり

Paris

パリ

season

季節

あり

boiling

うだるような

なし

month

August

八月

Parisians

パリジャン

tradition

例のごとく

なし

abandon

明け渡す

なし

city

なし

scalding

灼けつく

なし

sunshine

日ざし

なし

bus-loads

バスでくりこむ

なし

packaged

団体

なし

tourists

観光客

あり

*研究社『リーダーズ英和辞典』に記載されている訳語が「あり」、記載されていない訳語が「なし」

 いくつかの点を指摘しておくべきだろう。

 第1に、原文のひとつの語をそれぞれひとつの訳語で訳していくのは、決して当然のことではない。「翻訳通信」2009年2月号に掲載した「『アメリカ独 立宣言』の翻訳(3)」で、これに似た分析を行っている。「アメリカ独立宣言」の第1段落にある61語を対象に調べていくと、幕末の福沢諭吉訳(1866 年)では訳語が確認できるのは10語しかなく、明治初期の中村正直訳(1873年)では9語しかない。これに対して翻訳調の典型ともいえる宮田豊訳 (1956年)では48語である。このときは今回とは違って、代名詞や前置詞、接続詞などの機能語も対象にしているので、今回と同じ基準でみれば、原文の 32語のうち、宮田豊は32語であるのに対して、福沢諭吉と中村正直はそれぞれ7語にすぎない。福沢や中村は原文の意味を日本語で伝えることを目標にした ので、原語のひとつひとつの訳語が分かるような訳し方はしていない。これに対して翻訳調では原文を読む読者を想定し、読者が原文を読み解けるようにするこ とを本来の目的にしているので、原文の個々の語に訳語をあてはめていく訳し方をとっているのである。

 第2に、原文で名詞の単語を名詞で訳し、動詞の単語を動詞で訳し、形容詞の単語を形容詞で訳し、副詞の単語を副詞で訳していくのも、決して当然のことで はない。これは翻訳調で当然のこととされてきた方法なのだが、問題点がいくつもある。まず、自分が日本語で文章を書くときにどうしているかを考えてみれ ば、品詞を自由に変えられることがすぐに分かる。「自由に変えられる」は「自由な変更が可能」と書き換えられるのだから。

 また、名詞、動詞、形容詞、副詞といった言葉を日本語文法でも英文法でも使うことには問題がある。名前は同じでも性質や使用頻度などに違いがあるから だ。とくに違いが大きいのはたぶん、副詞だろう。英語は副詞の語彙が多く、とくに文修飾の副詞は表現力が豊富だ。日本語で文修飾の副詞にあたるのはおそら く語尾であり、じつに多彩で、豊富な表現力がある。以前に指摘したことがあるが、たとえば、「わたしは少年です」と「わたしは少年なのです」の違いを英語 で表現しようとするのであれば、文修飾の副詞を使うのが普通だろう。逆にいえば、英語の副詞を語尾で訳すことは充分に可能なはずである。原文の意味を正し く伝えるという観点に立つなら、副詞を使わなければならないとする理由はないはずである。

 村上博基は原文のひとつの語をそれぞれひとつの訳語で訳していく方法をとり、さらに、原文の名詞は名詞、副詞は副詞で訳す方法をとっているので、幕末明 治初期の福沢諭吉や中村正直とは違って、原文の意味を伝えるために自由に訳す方法はとっていない。いうならば、明治半ば以降の翻訳調で定められた厳しい規 範を遵守して訳しているのである。それだけではない。原文の1つのセンテンスを1つの文で訳していくこと、センテンスを決められた方法で訳していくことと いった点でも、翻訳調の規範をほぼ受け入れている。この規範を守っていれば、訳文が原文から離れていく危険はなくなる。いわゆる豪傑訳にはならない。しか し誰でも知っているように、訳文の明晰さや美しさは失われるのが普通だ。原文のリズムやスタイルなど、フィクションで決定的に重要な点は再現できない。訳 書だけを読む読者には意味がよく分からない悪文になることが多い。村上博基の訳はそうなっていない。ル・カレのスパイ小説のようなエンターテインメントの 分野では、原書と対照しながら読む読者など、本来はいるはずがない(村上博基の翻訳の腕を学びたい人だけは例外だが)。エンターテインメントなのだから、 楽しみのために読む。読者が楽しめる小説になっているかどうか。この点がおそらく、もっとも重要な基準だ。この基準でみたとき、村上博基の翻訳が一流中の 一流であることは、まず疑問の余地がない。

 つまり村上博基は、原文のひとつの語をそれぞれひとつの訳語で訳していくことなどの翻訳調の縛りを受け入れたうえで、日本語としての質がきわめて高い訳 文を書いているのである。なぜこのようなことができるのか。その秘訣は英和辞典の訳語を無視している点にある。

 いまでは、少なくとも一般読者向けの出版翻訳の世界では翻訳調の規範は力を失っているので、想像しにくいかもしれないが、つい20年ほど前まで、英和辞 典にあげられている訳語が、翻訳にあたって使っても差し支えない語のすべてだった。辞書にない訳語を使うのは「意訳」とされ、いってみれば禁忌であった。 村上博基は翻訳調の規範の大部分を受け入れているが、この部分だけは受け入れていないのだ。

 村上博基の翻訳を読むと、真っ先に感じるのは日本語としての質の高さだが、それを支えているのが圧倒的な語彙の力であることにすぐに気づく。たとえば前 述のように、by traditionを「例のごとく」と訳し、bus-loads ofを「バスでくりこむ」と訳した点だけをみても、考えにくいほど語彙が豊富であることが分かる。語彙が豊富だから、訳語以外の点で翻訳調の規範を受け入 れることができたのだろうか。あるいは逆に、翻訳調の規範を受け入れたから豊富な語彙を活かすようになったのだろうか。どちらなのかは分からないが、おそ らく、翻訳調の規範がきわめて強かった時代に翻訳をはじめたので、語彙を増やす方法で翻訳の質を高める方法をとったのではないかと思う。

 なぜそう思うかというと、字幕翻訳の例があるからだ。そしてもうひとつ、韻文の例が思い浮かぶ。韻文はどの言語でも、厳しい規範があるのが普通だ。日本 語には五七調や七五調があるし、中国語には押韻や平仄などがあり、英語にはアクセントのパターンや押韻などがある。こうした厳しい制約があるからこそ、韻 文を書く人は語彙を増やすために努力する。規範が厳しいからこそ、美しい文が書けるようになる。

 韻文の規範はそれぞれの言語の性格に基づいているのが普通だ。たとえば日本語で、五七調や七五調の規範は古臭く、嫌悪すべきものだという見方があるが、 たとえば、人びとの記憶に残りやすい標語を作ろうとすると、自然に五七五になる。1500年以上にわたって使われてきたのだから、古い規範であるのは確か だが、合理的だからこそこれほど長く力をもちつづけているのである。

 これに対して翻訳調の規範は原文に忠実な翻訳を簡単に行えるようにするという点では合理性があるのだが、いってみれば、日本語の生理に反する制約であ る。だから、これを非合理的な束縛だと考え、自由にのびのびと翻訳したいという見方が強まっているのは当然だと思える。だが、この束縛のもとで、村上博基 の名訳が生まれていることを忘れてはならないと思う。

 字幕翻訳教育の例をみても、制約条件が質の向上のきっかけになるといえるはずだ。もっとも厳しい規範だけで優れた翻訳ができるわけではないことは、翻訳 調の翻訳を読めば明らかだろう。規律があり、志の高さがあることが不可欠のはずだ。
 (2010年1月号)