翻訳講義(第1回)

山岡洋一

翻訳は面白 い


 最近、大学の英文科で翻訳について講義する機会があった。1時間半の1回の講義 だったのでもちろん限界はあるが、翻訳の面白さを伝えようと考えた。以下はそのときに準備した資料を大幅に加筆訂正したものである。

  英文科に学ぶ皆さんが卒業して就職するか、大学院に入って研究者への道を歩んだとき、いくつかの点で翻訳に関わりをもつようになる可能性が あります。

 第1に、世間では英文科を出ていれば翻訳はできるはずだと思われているので、会社のなかで、あるいは院生・研究者として、翻訳をするよう求められる可能 性があります。翻訳をチェックするよう求められる可能性もあります。

 第2に将来、翻訳に取り組もうと考える可能性があります。就職して7〜8年たった時期、30歳前後になって、会社を辞めて翻訳に取り組みたいと考える人 が多くなるようです。

 どちらの場合にも、翻訳とはどういう仕事なのかを知っておくことが重要です。世間ではふつう、翻訳とは英文和訳(あるいは和文英訳)と同じだと考えられ ているので、翻訳と英文和訳の違いをはっきりと認識しておくべきです。以下ではこの点を中心に話を進めていきます。

 じつはもうひとつ第3に、読書を趣味にし、読者として翻訳に接する人が多いと思います。この場合、翻訳の面白さを知っていれば、読書がもっと面白くな り、人生が豊かになるでしょう。翻訳の面白さもやはり翻訳と英文和訳の違いによるものなので、以下の話がヒントになると思います。

 翻訳とはどういうものなのかを考える手掛かりとして、まずこの英文を読んでください。どう訳せばいいかを考えながら。

  The sound stopped, and he was suddenly afraid.  A chill passed over him, as if he had been notified that death was approaching.  He wanted to question himself, calmly and deliberately, to ask whether it had been the sound of the wind, the sound of the sea, or a sound in his ears.  But he had heard no such sound, he was sure.  He had heard the mountain.
  It was as if a demon had passed, making the mountain sound out.

 この文章を訳した例をあげてみましょう。

 音が止んだ。突然、彼は恐ろしくなった。寒けがして、まるで死が迫っていると知らさ れたかのような気がした。彼は冷静に慎重に自分に問いかけてみたくなった。あれは風の音だったのか、海の音だったのか、それとも耳鳴りだったのかと。だが 彼にはそんな音ではなかったと分かっていた。彼が聞いたのは山の音だった。
 まるで悪魔が通りすぎて、山に音をださせたようだった。

 翻訳には正解はありません。10人が訳せば10通りの訳ができ、そのすべてが正解ということもあります。しかしこの場合に限っては、じつは正解がありま す。気づいた人もいるでしょうが、これは川端康成の『山の音』の英訳だからです(Yasunari Kawabata, translated by Edward G. Seidensticker, The Sound of the Mountain, Charles E. Tuttle Company, p.8)。原文は以下の通りです。

 音はやんだ。
 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。
 風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考えたつもりだったが、そんな音なんかしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞こえて いた。
 魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった。(新潮文庫、10ページ)

 以上を比較してみると、翻訳とはどういうものなのかを考えるときのヒントが得られるはずです。たとえば、表面的には以下のような違いがあります。

◎  代名詞、とくに人称代名詞の処理
  英訳にはheとhim、himself、hisが合計9回使われています。原文では「彼」は1回も使われていません。「信吾」が2回でてくるだけです。英 文和訳ではheは「彼」と訳すのが普通ですが、翻訳の場合には「彼」をまったく使わない場合もあります。

◎  辞書にない訳語
 英文和訳では原則として英和辞典に書かれている訳語を使って訳していきますが、翻訳では辞書にない訳語を自由に使います。たとえば以下があります。
−  はじめて suddenly
−  死期  death was approaching
−  冷静に  calmly and deliberately
−  考えたつもりだった  He wanted to question himself to ask ...
−  〜ではないかと思われた  he was sure

◎ 段落
 日本語と英語では段落についての考え方が違っています。英語ではひとつのパラグラフでひとつの意味を伝えるという意識が強いのですが、日本語ではそのよ うに意識されることはあまりないようです。このため、日本語の文章を英語に翻訳するとき、段落構成を変える場合があります。英語の文章を日本語に翻訳する 場合には通常、英文のパラグラフを日本語の段落にするのが最善です。

 以上が表面的な違いの例ですが、こうした違いが出てくる背景にはもっと基本的な違いがあります。翻訳と英文和訳では目的が違うのです。こうまとめること ができます。
−  英文和訳・和文英訳は自分の英語力を教師に示すことが目的
−  翻訳は原文・原著の内容を読者に伝えることが目的

 この基本的な違いから表面的な違いが生まれてきます。例をあげます。

 たとえば、「死期を告知されたのではないかと」をas if he had been notified that death was approachingと訳しています。「死期」という名詞が、death was approachingという節として訳されているのです。

 和文英訳なら、「死期」にあたる語、それも名詞を探そうとするはずです。翻訳ではそうは考えません。「死期を告知されたのではないかと寒けがした」とい う文全体で、あるいはもっと大きな範囲で、原文が何を伝えようとしているかを考え解釈し、英語を母語にする読者にそれを伝えようとします。ですから、読者 に伝えるために必要なら品詞を転換することもあるし、語を節にすることもあります。翻訳はその点で、自由度が高いといえます。

 自由度が高いというのは、もちろん英文和訳や和文英訳とくらべてという意味です。たとえば英文和訳には、この語はこう訳す、この構文はこう訳すという公 式や正解がいくつもあります。公式や正解を覚えておけば、それまでに読んだことがなかった英文を試験のときに示され、辞書を引くこともなく、文章全体の意 味を考えることすらなく、あっという間に答案を書けるようになります。大量の答案を受け取った教師も、短時間で点数を付けることができます。公式や正解が ある以上、公式や正解から外れることはできないわけで、それだけ自由度が低いのですが、その代わり、教える側にとっても学ぶ側にとっても効率が高いといえ ます。

 たとえば人称代名詞をどう訳すかは、翻訳にあたっていつも悩みの種になり、腕の見せ所になるのですが、英文和訳ではそんなことはありません。英文にhe とあれば「彼」と訳せばいいし、youとあれば「あなた」と訳せばいい。これで正解です。考えるまでもなく答案を書けます。きわめて合理的であり、きわめ て効率的です。ただし、「自分の英語力を教師に示す」という目的のもとで合理的であり、効率的なのです。

 英文和訳には公式や正解があり、そのために合理的、効率的になっているわけですが、じつは、ものごとの順序という観点からは、この言い方はあまり正確で はありません。実際には英文和訳の教育と学習を合理化し、効率化するために、長い年月をかけて公式や正解が作られてきたのです。このため、英文和訳の公式 や正解は、英文和訳という世界のなかだけで公式や正解であるにすぎません。

 翻訳は「原文の内容を読者に伝える」というまったく違った目的のために行うものなので、英文和訳の公式や正解は通用しません。英文和訳で教えられた通り に訳せる場合もありますが、ときにはそういうこともあるというにすぎません。翻訳には公式はなく、正解もない。翻訳は自由度が高いというのは、そのような 意味においてです。

 もうひとつ、サイデンステッカーが原文の「冷静に」をcalmly and deliberatelyと2語で訳している点にも注目したいと思います。和文英訳であればおそらくこうはしないでしょう。ですが、英語ではここを deliberatelyの1語だけで訳すと、落ちつかない文章、間の抜けた文章になりかねません。英語では、形容詞や副詞は同義語を2語並べる方が落ち 着きがよくなるのです。日本語には逆に、1語の方が落ちつきがよく、力強い文章になるという性格があります。そこで、川端康成は1語で書き、サイデンス テッカーは2語で訳したのです。

 ちなみに英語では、形容詞や副詞にかぎらず、強調のため、文章のリズムを整えるため、意味を明確にするためなどで、日本語なら1語ですませる部分で同義 語の並列を使うことが多いようです。たとえば法律の言葉では、terms and conditionsやnull and voidが決まり文句になっています。ですから、1語を2語で訳すのは、英語と日本語の性格の違いを考えれば当然のことだといえるかもしれません。

 ですが、それだけではありません。「冷静に」をcalmlyかdeliberatelyか、どちらかだけで訳すことも可能です。しかしそれでは、英語の 小説にはならないとサイデンステッカーは考えたはずです。『山の音』を英語を母語にする読者が楽しんで読める小説にするには、ここは同義語並列にする方が いいと判断したのでしょう。

 翻訳では、原文を正しく訳すことは大切ですが、それだけではありません。いわゆる誤訳はいけない。これは当たり前の話です。ですが、これは当たり前の話 にすぎません。もっと大切な点があります。たとえば小説の翻訳であれば、読者が小説として楽しめる文章になっていなけばならない。いくら正確でも、小説と して楽しめない文章では読者は読んでくれません。「冷静に」の1語をcalmly and deliberatelyと2語で訳しているのは、考えようによっては原文に忠実ではないともいえます。ですが、それよりも読者が小説として楽しめるよう にすることの方が重要なのです。

 もちろん、原著が別の分野のものであれば、読者の要求も違っています。たとえば自然科学や社会科学など、論理が大切な分野のものであれば、原著の論理を 読者がしっかりと把握できるようにすることが重要になるでしょう。読者のために訳すのが翻訳ですから、読者が何を求めているかを考える必要があります。た だし、読者に媚びる必要はありません。ほんとうに良いものを読者に提供するのが、翻訳者の責務だと思います。

複数の翻訳を比較する
 ひとつの原著を訳した複数の翻訳を比較すると、以上に述べた点をさまざまな形で確認できます。たとえば、『不思議の国のアリス』には何種類もの訳があ り、簡単に買える訳書も少なくありません。いくつかをみてみましょう。なお、訳文のルビは〔 〕で示しています。

原文
冒頭
Alice was beginning to get very tired of sitting by her sister on the bank, and of having nothing to do: once or twice she had peeped into the book her sister was reading, but it had no pictures or conversations in it, "and what is the use of a book," thought Alice, "without pictures or conversations?"

第9段落前半
  Presently she began again.  "I wonder if I shall fall right through the earth!  How funny it'll seem to come out among the people that walk with their heads downwards!  The Antipathies, I think --" (she was rather glad there was no one listening, this time, as it didn't sound at all the right word)

矢川澄子訳、新潮文庫
  アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何もすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二 度のぞいてみたけれど、挿絵〔さしえ〕もなければせりふもでてこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。

 またもやひとりごとのはじまりだ。「このまま地球をつきぬけちゃうのかしらん? 頭を下にしてあるいている人たちのなかへ、ひょっこりあたしが出ていっ たら、さぞこっけいだろうな。たしかツイセキチュウとかいうのよね−−」(ヒヤヒヤ、こんどばかりはだれにも聞かれないでよかった。このことばはどうみて も怪しげだもの。地球の正反対側のことなら対蹠地〔たいせきち〕じゃないか)

北村太郎訳、王国社
  アリスは、あーあ、つまんないなと思い始めていたんだよ。土手に姉さんと並んですわってばかりいて、なんにもしないものだからさ。一回か二回、姉さんの読 んでる本をのぞきこんでみたけれど、絵もなけりゃカギかっこでくくった会話もなくて、文章べったり。「絵ぬき、会話ぬきの本なんてさ、どこがおもしろいん だよ」とアリスは、声にださずにつぶやいた。

 アリスはまたひとりごと。「地球を真下まで落っこってくのかも知れないよっ! 頭を下にして歩いている人たちのあいだにあたしが出てったら、おもしろい だろうな−−あ! たしか、あの人たち、反感人〔アンティパシーズ〕−−」(こんどはだれも聞いていないでよかったね。ふつうは反感人なんていわないも の。対蹠人〔アンティポディーズ〕っていうんだよね)

高橋康也・迪訳、河出文庫
 アリスはお姉〔ねえ〕さんと並〔なら〕んで土手にすわっていましたが、なにもするこ とがないので、たいくつしてきました。お姉〔ねえ〕さんの読んでいる本をちらっとのぞいてみたのですが、その本にはさし絵もないし、会話のやりとりもあり ません。アリスは思いました。「絵がなくて、おまけに会話もない本なんて、いったいなんの役に立つっていうの?」

 アリスはひとりごとのつづきをしました。「もしかしたら、地球をつきぬけて落ちていくんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人たちの中にひょっこ り出たりしたら、さぞおかしいでしょうね! 反対人〔はんたいじん〕っていったと思うけど−−」(こんどはだれも聞いていなくてアリスはほっとしました。 少しちがっているような気がしたからです。ほんとうは反対人ではなくて対蹠人〔たいせきじん*〕というのです)。
* 日本とアルゼンチンのように地球の反対側に住む人間。antipodesは「蹠(あしうら)が向かいあわせ」の意。「反対人」 (antipathies 感情的反発)という言いまちがいは、これから多くの「なじめない」人物に出会うはずのアリスの不安な予感のせいか。

柳瀬尚紀訳、ちくま文庫
 アリスは姉とならんで川べりにすわって、なにもしないでいるのがそろそろ退屈になっ ていた。一、二度、姉の読んでいる本をのぞいてみたけれど、絵もなければ会話もない。「読んでもしようがないのに」とアリスは思った。「絵も会話もない本 なんて」

 やがて彼女はまたしゃべり出した。「あたし、このまま落っこちて、地球を通り抜けてしまうんじゃないこと! 頭を下にして歩いている人たちのなかにひょ いと出ていったりしたら、とてもおかしいじゃない! 退席地〔たいせきち〕っていったかしら−−」(今度は誰も聞いていないのでむしろほっとして、という のもこの言葉はどうも正しくなさそうだった)

福島正実訳、角川文庫
 アリスは、土手の上で、お姉〔ねえ〕さんのそばにすわっているのが、とても退屈〔た いくつ〕になってきました。おまけに、何もすることがないのです。一、二度、お姉〔ねえ〕さんの読んでいる本をのぞいてみたけれど、その本には、絵もなけ れば会話〔かいわ〕もありません。「へんなの」とアリスは考えました。「絵もお話もない本なんて、なんの役〔やく〕にもたちはしないわ」

 やがて、アリスはまたしゃべりはじめました。「このまま落〔お〕ちていくと、地球〔ちきゅう〕をつき抜〔ぬ〕けてしまうんじゃないかしら! 頭を下にし て歩いている人たちのことろへ飛び出したら、おかしいだろうな! 対情地人〔アンチパシーズ〕とかいうんだわ」(このときにはアリスは、だれもまわりに聞 〔き〕いている人がいなくてよかった、とおもいました。どうも、正しい言葉のような気がしなかったからです。注−−そのとおり。ほんとうは antipodes 対蹠地〔アンチポーズ〕、またはそこに住む人間が正しいのです)

脇明子訳、岩波少年文庫
 アリスはお姉さんといっしょに、草のしげった土手にすわっていましたが、何もするこ とがないので、だんだん退屈になってきました。お姉さんは本を読んでいたので、アリスは一、二回、どんな本なのかなと、のぞきこんでみましたが、そこには 絵もなければ、会話らしいものもありませんでした。「絵も会話もないなんて」と、アリスは思いました。

 しばらくしてアリスは、またしゃべりはじめました。「こんなに落ちたら、地球の反対側へつきぬけてしまうんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人 たちのまんなかに飛び出したら、きっとおかしいでしょうね! ええと、たしか対〔たい〕テキ人〔じん〕よね−−」(今度はアリスも、だれも聞いていなくて よかったと思いました。地球の反対側に住んでいる人のことは、ほんとうは対蹠人〔たいせきじん〕というのですが、アリスはそれがうまく思い出せず、自分で もちょっとまちがっているような気がしたのでした。)

山形浩生訳、朝日出版社
 川辺でおねえさんの横にすわっていたアリスは、なんにもすることがないのでとても退 屈〔たいくつ〕してきました。一、二度、おねえさんの読んでいる本をのぞいてみたけれど、そこには絵も会話もないのです。「絵や会話のない本なんて、なん の役にも立たないじゃないの」とアリスは思いました。

 しばらくして、アリスはまたはじめました。「このまま地球をドンッとつきぬけて落ちちゃうのかな! 頭を下にして歩く人たちの中に出てきたら、すっごく おかしく見えるでしょうね! それってたとえば日本でいうとあるぜん人、だっけ−−」(ここではだれも聞いている人がいなくて、アリスはむしろホッとした んだ。だってどう考えても正しいことばには聞こえなかったし)

 まず、この7種類の訳を読むと、翻訳には正解がないことがよく分かるはずです。原文は同じなのに、訳文はそれぞれかなり違っています。印象が違い、言葉 が違い、スタイルが違います。たぶん、翻訳では10人が訳せば10通りの訳ができ、そのすべてが正解ということがたしかにあるのだと実感できると思いま す。

 つぎに、それぞれの訳がどう違うかを考えていくと、読者をどう想定するかで訳文が違ってくることが分かるはずです。

 たとえば矢川澄子訳は、10歳前後の女の子にお兄ちゃんが本を読んであげるように訳されています。原著は著者がアリスという女の子に話した物語がもとに なったのですから、その原文の雰囲気をそのまま文章にしたのだといえます。7種類の訳を朗読してみればすぐに分かりますが、朗読に使うのなら、文句なく矢 川訳がいちばんです。日本語の美しさを最大限に活かしているから、朗読する人にとっても、聞く人にとっても心地よい文章になっています。

 もちろん、黙読のときにも無意識のうちに頭のなかで音を聞いているものですから、朗読に適した文章とは黙読に適した文章でもあります。

 矢川訳と対照的な訳もあります。たとえば、柳瀬尚紀訳はあきらかに朗読用ではありません。また、10歳前後の女の子を読者対象にもしていません。この点 をよく示すのが「退席地」という訳語です。「対蹠地」と読みは同じなので、朗読では違いが分かりません。それに読者が「退席地」という語をみて、「対蹠 地」を間違えたのだと分かるはずだと想定されています。かなりの年齢の人、難しい言葉をよく知っている人が読者として想定されていることになります。

 高橋康也・迪訳はおそらく、大学の英文科で学ぶ学生を想定して訳されています。原文を読みながら研究している読者が対象なのでしょう。アリスの物語を楽 しみたい読者にとって、訳注は余分でしょうが(ときには興ざめでしょうが)、原文を読んで研究しようという学生には不可欠だともいえます。

 福島正実訳も、原著を読むときの参考として訳書を読む読者を想定しているように思えます。いくつかの点からこのことが想像できます。たとえば、「対情地 人」に〔アンチパシーズ〕というルビがついていますが、これは原著を読んで勉強しようとしている読者以外には意味をなさないものだと思えます。

 原文のthought Alice,の部分をそのままの位置で訳していることもヒントになります。英語では、せりふの途中にsaid Aliceといった言葉をはさむのはごく普通の方法です。著者によって違いがありますが、なかにはせりふの90%以上にこのような言葉をはさむ著者もいま す。日本語ではこれが普通というわけではないので、文脈に応じて自由に訳すことができます。

 感嘆符を原文の通りに使っていることもヒントになります。感嘆符は日本語の文章ではめったに使わないものなので、矢川訳のように感嘆符を抜くこともでき ます。

 このように、原著を読むときの参考として訳書を読む読者を想定すると、翻訳とはいいながら、英文和訳にかなり近い訳文になることがあります。原文と対照 させて調べると、一語一句を丁寧に正確に訳してあるのに、訳書だけを読むと、どうも小説を楽しめないという場合もあります。いや、その方がはるかに多いと いえるかもしれません。小説を小説として楽しんで読める翻訳を求めるのなら、福島訳や高橋訳、柳瀬訳より矢川訳がはるかにいいといえるように思えます。

 少し脱線になりますが、翻訳にあたって原著を読むときの参考として訳書を読む読者を想定することは意外に多いように思います。高橋訳は意識的にそういう 読者を想定しているように思えますが、福島訳の場合には、とくにそういう読者を意識していなかった可能性もあります。それでも無意識のうちに、原著を読む ときの参考として訳書を読む読者を想定する可能性があるのです。なぜかというと、翻訳の質が話題になるときはたいてい誤訳の話になり、誤訳の指摘のうちか なりの部分は、英文和訳の公式や正解の通りになっていないというものだからです。誰でも誤訳だなどと言われたくないのは当然ですから、原著と突き合わせて 読む読者を無意識のうちに想定することになりかねません。

 この点ではおそらく、いちばん不幸なのは英語の原著を和訳している翻訳者でしょう。別の言語であれば、そもそも読める人が少ないし、英文和訳とは違って 公式や正解が確立しているわけでもないので、かなり自由に訳すことができます。原著が英語の場合は、誰でも読めて当然だし、英文和訳の公式や正解が唯一絶 対のものであるかのように考えている人が少なくないので、ほんとうの意味で自由に訳すのは難しいという問題があります。

 逆にいちばん自由に訳せるのは、日本語の原著を英訳している英語圏の翻訳家かもしれません。原著を読むときの参考として訳書を読む読者はまずいないと考 えられるので、原著を解釈した結果を自由に表現できるはずです。サイデンステッカーの翻訳をはじめに紹介したのは、翻訳がいかに自由なものなのかを実感で きると考えたからでもあります。英文和訳の公式や正解から自由になれば、同じように自由に訳すことができます。

 もっとも、ある意味では原著の内容を適切に解釈し、正確に伝えるのは、翻訳者にとって当然の責務ですから、正確さを損なわないようにするよう求める圧力 がつねにかかっているのは、悪いことではありません。翻訳には正解はなく、原著の内容をどう解釈し、どう伝えるかは翻訳者の自由であるという原則さえ明確 になっていれば、原著の内容を正確に伝えているかどうかがつねに問題にされるのは、そう悪いことではないのです。翻訳にあたっては自由度がかなり高いので すが、一歩間違えれば、訳しにくい部分や理解できなかった部分は飛ばしてしまうといった、いい加減で無責任な訳になりかねないからです。

 本論に戻りましょう。今回は『不思議の国のアリス』を取り上げ、入手しやすい訳書だけを対象にし、したがって比較的最近に訳された訳書だけを対象にしま した。同じ方法を使えば、さまざまななジャンル、さまざまな言語の原著の翻訳について調べてみることもできます。また、翻訳というものがいかに多種多様か が分かり、翻訳というものの面白さが分かるでしょう。

 何種類もの翻訳がでているという点では、たとえばコナン・ドイルのシャーロック・ホームズが面白いかもしれません。昭和の初めに訳されたものからごく最 近に訳されたものまで、さまざまな訳書があります。古書店や新古書店に行けば、文庫本の山のなかから古いが素晴らしい訳が見つかることがあります。

 また、英語よりドイツ語の方が得意という人なら、『ファウスト』の何種類もの訳をくらべてみると面白いと思います。いちばん古い森鴎外訳から最新の柴田 翔訳、池内紀訳まで、何種類もの訳をたいていは文庫版で読めるはずです。意外にも、翻訳は新しいほど良いとはいえない場合があることに気づくかもしれませ ん。森鴎外訳が素晴らしいと感じる人は少なくないはずです。

 小説よりも社会科学や人文科学の方がいいという人なら、経済書や哲学書で複数の訳を比較してみるといいでしょう。たとえばアダム・スミスの『国富論』は 明治から平成まで少なくとも9人が翻訳しています。古書店でしか手に入らないものが多いのですが、手元に8人の10種類の訳があります。そのなかでいちば ん良いと思うのは、大正末から昭和の初めにかけて出版された氣賀勘重訳です。文語体で訳されていて少々読みにくいのと、約3分の1しか訳されていないのが 難点ですが、素晴らしい訳だと思います。

 翻訳のスタイルが大きく違うものとしては、以前に指摘したことがありますが、長谷川宏のヘーゲル訳を岩波のヘーゲル全集などの訳と比較してみると面白い と思います。

 この方法には問題もあります。そのひとつに、複数の訳書のなかには質の高いものも低いものもあることがあげられます。どんな仕事でもそうですが、一流の ものをみて真似るのが上達のコツです。三流のものをみて、この程度なら自分にもできそうだと考えるのは不幸の始まりです。だから三流のものには目もくれな いのが正解です。複数の訳書のなかに三流のものがまじっていれば、時間を無駄にするだけではなく、悪影響を受けることにもなりかねません。この点は十分に 注意しておくべきです。

 しかし最大の問題は、複数の訳書がでている本がそう多くないことです。複数の訳が出版されるのは通常、原著の著作権が切れている場合だけです。つまり、 原著者の死後50年以上(英米の原著者の場合には死後60年以上)を経過している場合だけです。普通は、古典と呼ばれているものしか、複数の訳書が出版さ れることはありません。『不思議の国のアリス』は1865年に出版されていますから、ほぼ150年前の作品です(著者のルイス・キャロルは1898年に亡 くなっているので、著作権が切れています)。もっと新しい本は出版社が独占翻訳権を取得しているのが普通なので、複数の訳がでることはめったにありませ ん。

 もっと新しい本で翻訳について考えてみたい場合には、複数の翻訳を比較する方法は使えないので、別の方法を使います。この点については、次回に説明した いと思います。

2003年12月号