翻訳についての断章
山岡洋一

翻訳教育と翻訳の技術

  先週号で翻訳教育に触れたところ、いくつかのメールをいただいた。そのなかに、翻訳というのは結局のところ技術の問題なので、教育ができな いわけがないという指摘があった。教育ができないとすれば、それは教える側が怠慢なだけではないかという指摘である。この点について少し考えてみたい。

 この指摘は2つの部分からなっている。第1に翻訳ができるかできないかは結局のところ、技術を身につけ使いこなせるかどうかの問題だという指摘、第2 に、したがって翻訳は教育できるはずだという指摘である。この2つについて順番に考えていこう。

 第1の指摘については、基本的に賛成である。翻訳にはたしかに技術と呼べるものがある。ノウハウといえるほど整理されている例は知らないし、おそらくは 世界中を探してもないのではないかと思うが、翻訳でぶつかる問題の大部分がある種の技術で解決できることは確かだと思う。

 この点は、逆の観点から考えていくと分かりやすい。翻訳という作業は、外国語で書かれた原文を読む作業、原文の内容を理解する作業、理解した内容を母語 で表現する作業の3つの部分に大きく分かれる。読み、理解し、書くのが翻訳だ。この3つの作業に常人にはない才能、啓示やひらめきなどを必要とする部分が あるだろうか。そういう部分があれば、翻訳ができるかできないかは、技術の問題ではなくなる。翻訳教育は不可能である。特殊な才能をもっていれば、教育な ど受けなくても翻訳はできるし、特殊な才能をもっていない人は、どのような教育を受けても、翻訳ができるようにはならない。

 このように考えれば、答えは決まっている。翻訳という作業に特殊な才能なぞ必要ない。翻訳の作業には神秘的な部分は何もなく、翻訳の作業で使っているの はすべて、技術と呼べるものである。他人に伝えられるはずのもの、教育を受け、訓練を受ければ、だれでも身につけられるはずのものである。

 このように、翻訳教育についての第1の指摘は正しいといえるはずだが、だからといって、第2の指摘が正しいとは限らない。翻訳でぶつかる問題の大部分が 技術で解決できるとしても、だからといって、翻訳教育が可能だとはかぎらない。

 第2の指摘が正しいかどうかを考える際には、少々極端な例をみてみると分かりやすいかもしれない。たとえばマラソンの例を考えてみたい。マラソンには見 たところ、何も神秘的な部分はない。42.195キロをいちばん早く走れた人が勝つ。それだけだ。マラソンの指導者のなかですぐに名前が思い浮かぶのは小 出義雄監督だろう。指導した選手がオリンピックで3大会連続してメダルを獲得しているのだから、たぶん、世界一の指導者だといえるはずだ。マラソンの技術 を教え、勝てるようにトレーニングをする能力が誰よりも高いはずである。では、小出監督なら、マラソン教育は可能なのだろうか。小出監督にこう聞いてみる といい。高校生のとき以来何十年の間、数十メートル以上を走ったことが一度もないが、週1日2時間なら時間を取れるから、オリンピックのマラソンで勝てる ように教えてほしいと。そんなことは不可能だといわれるに決まっている。では、マラソン教育は不可能だということなのだろうか。

 例が極端すぎると思えるかもしれないが、極端な例を考えると、問題がどこにあるのかが見えてくる場合がある。マラソン教育は可能なはずである。小出監督 が指導した選手がオリンピックで3大会連続してメダルを獲得している事実をみれば、そう考えるのが自然だ。だがマラソン教育は不可能である。わたしが小出 監督の指導を受けても、マラソンのメダリストにはなれるはずがない事実をみれば、そう考えるしかない。マラソン教育については、可能論も不可能論もどちら も正しいのだろうか。もちろん、どちらも正しくないのだ。ある条件があれば可能だが、その条件がない場合には不可能だというべきなのだ。問題はどのような 条件があれば可能なのかである。

 翻訳教育についても同じことがいえる。じつのところ、条件が整っていれば翻訳教育が可能なことは、疑問の余地がない。その点を示す逸話を紹介しよう。 20年ほど前の話だが、ベテラン翻訳者と話す機会があった。翻訳学校で教えているというので、どのような人がなぜ翻訳を学びにくるのかを質問してみた。答 えは意外だった。いや、翻訳を学ぼうと考える人がいるのは不思議な話で、翻訳はできて当たり前ですからという。失業していたときにたまたま、旧制高校時代 の同級生に頼まれて翻訳をするようになったのだが、そのときに翻訳ができないなどとは考えもしなかったというのだ。なぜ考えもしなかったのか。それは旧制 高校で教育を受けたからだ。旧制高校では授業のほぼ半分が語学であり、なかでも翻訳の能力を高めるための教育を徹底して行った。欧米の進んだ技術や思想を 吸収するために翻訳が緊急の課題だったころに作られ、翻訳教育のための全日制エリート教育機関ともいえるほどだったのが旧制高校だ。そこで教育を受けたの だから、翻訳はできて当たり前なのだ。

 要するに、旧制高校のようにそれにふさわしい条件が整っていれば、翻訳教育が可能なことは確かである。逆にいえば、条件が整っていなければ、翻訳教育は 不可能である。これも当然のことだ。

 条件の1つは学ぶ側の力である。マラソンの例に戻ろう。世の中はかなりの程度、公平にできている。小出監督の指導を受けられないからといって、世の中の 不公平さを嘆く理由はない。小出監督の指導を受ける選手は、小さなときから駆けっこが大好きで、それなりの練習を積んできた人だけだ。本人にとってはたぶ ん楽しい練習なのだろうが、他人がみれば、信じがたいほど苦しそうな練習を積んでいる。練習の積み重ねがないのなら、マラソンに出られないのは当然だし、 まして勝つことなどできない。

 マラソンと比較すれば、とくにオリンピックのマラソンに出場し、勝つことと比較すれば、翻訳ははるかに簡単ではあるが、それでも積み重ねが大切であるこ とに変わりはない。外国語で書かれた文章を読み、さまざまなことを考え、母語で文章を書く。どの部分をとっても、本人にとっては楽しいとしても、他人に とっては苦しそうに思えるかもしれない勉強を積み重ねていなければならない。もちろん、マラソンとはさまざまな違いがある。最大の違いはたぶん、年齢制限 がないことだろう。マラソンなら30歳を過ぎてから練習をはじめても、たぶん遅すぎるだろうが、翻訳の場合はそんなことはない。だが、積み重ねがなければ 力がつかない点は同じだ。

 翻訳に特殊な才能が必要なのであれば、才能がある人なら、翻訳学校で少し学んだだけで、隠れていた能力が一気に開花するかもしれない。だが、翻訳に必要 なのは特殊な才能ではない。ごく普通の力だ。外国語で書かれた文章を読む力、さまざまなことを考え理解する力、母語で文章を書く力はどれもごく普通のもの だが、地味な努力の積み重ねがなければ身につかないものでもある。世の中はかなりの程度、公平にできているのだ。地味な努力の積み重ねがなくても素晴らし い能力を発揮できるというわけにはいかない。

 だが、この点から、じつは翻訳教育のほんとうの問題がでてくる。マラソンに必要な積み重ねは走ることだが、翻訳の場合、地味な努力の積み重ねで身につけ ておくべき力とは何なのか。外国語を読む力、理解する力、母語で書く力。どの力もとくに変わったものではない。本来なら学校が教えていなければならない基 本的な技術ばかりだ。翻訳はできて当たり前という意見があるのは、学校教育がしっかりしていれば、翻訳に必要な力は誰でも身についているはずだからだ。学 校教育が本来の任務を果していれば、翻訳はできて当たり前、できなければ恥だといえるはずなのだ。では、翻訳教育とは何なのか。いったい何をどう教えるべ きだというのだろうか。

 翻訳教育が可能かどうかは、いまの学校教育との関係で考えるしかない。翻訳教育で教えるべき点の大部分は、本来なら学校教育で教えるべき点なのだ。学校 が16年もかけて教えられなかった点を週2時間の授業で教えることが可能なのかと考えれば、翻訳教育は不可能に決まっている。いまの日本の学校教育が本来 の役割を果たしていないのは明白だから、その隙間〔ニッチ〕を埋めようと考えるのであれば、翻訳教育は可能なはずである。

 230年ほど前に、アダム・スミスが『国富論』で当時の学校教育についてこう論じている。「オックスフォード大学では教授の大部分は長年にわたって、教 える振りをすることすらしていない」。たぶん、いまの日本の学校は教える振りぐらいはしているのだろうが、ほんとうに教えているとは思えない。とくに、学 ぶことの楽しさや感動を教えていない。翻訳に必要な技術はどのような仕事にも必要不可欠なものばかりなので、これを十分に教えていないことは大きな問題だ が、それ以上に技術を学ぶ理由を教えていない。だから、みずから学ぼうという意欲と情熱を引き出せない。意欲と情熱があれば、たいていのことは自分で学べ るものなのだ。

 翻訳の技術のなかには、学校では教えない部分もあるという意見もあるだろう。たしかにある。だが、それは数時間もかければ学べる程度のものだ。それ以上 の教育が必要なのは、学校教育が本来の任務を果たしていないからである。

2004年3月号