翻訳についての断章
山岡洋一
翻訳
という曲芸
代講としての翻訳
こんな場面を思い浮かべてみよう。突然、有名な先生の代講をしてくれないかという依頼がくる。事情を聞くと、アメリカで評判になった連続講義を日本でも
行っているところだが、先生が急病で倒れ、代わりに講義してくれる人が必要になったのだという。幸い、アメリカでの講演のテープとそれを起こした英文原稿
があるので、同じ内容を講義すればいいという。どういう人たちが何人ぐらい受講するのかを聞き、テープと原稿を送ってもらい、代講がはたして可能かどうか
を考える。
講義の内容は決まっているのだから、それほど問題はないように思える。だが、講義がうまくいくかどうかは、内容だけで決まるわけではない。何をしゃべる
かと変わらないほど、どうしゃべるかが重要だ。たとえば、いかにも自信なげだったり、その分野についての無知をさらけだすような言葉を使ったりすれば、受
講者が白けるに決まっている。それに、質問にうまく答える必要もある。
このように考えてみると、翻訳とはどういう仕事なのかが分かるかもしれない。読者が何かを学ぶために読む本を訳すのであれば、翻訳者は原著者の仮面をか
ぶって、読者にその内容を教える立場に立つ。読者が楽しむために読む本を訳すのであれば、翻訳者は原著者の仮面をかぶって、読者に楽しんでもらうように最
善をつくす。これが翻訳である。
もちろん、翻訳には代講と違う面もある。いつの時代にも、どの分野にも、ベテランの代役として新人が起用され、大成功を収めて一躍スターになった話があ
る。スター選手が故障したときに代役に起用されて活躍し、レギュラーの座を奪った野球選手やサッカー選手、ベテランが急病のときに代役に選ばれて衝撃のデ
ビューを飾った俳優や音楽家の話はいくらでもある。だが、翻訳者が一躍スターになることはない。いってみれば一生代役である。だから地味な仕事なのだが、
だから面白い仕事でもある。自分で書けば、うまくいっても三流のものしか書けないのに、翻訳なら一流のものを読者に伝えることができるのだ。
調べ物という冷や汗物
4番打者が故障して急遽代役に起用された若手は、準備万端整っていなければならない。あわてて相手投手の球種やクセを研究するようではいけない。主役の
俳優が急病で倒れたときに代役に起用された若手は、準備万端整っていなければならない。あわてて台詞を覚えるようではいけない。
翻訳ではそうはいかない事情がある。音楽や演劇ではないから、同じものを繰り返し訳すことはない。それに、もちろん例外もあるが原則としては、訳者が自
分で書ける程度のものを翻訳する理由はない。知らなかった事実や、考えたこともなかったアイデアや、わくわくするような世界があるから翻訳する意味があ
る。だからいつも、準備万端整っているとはいえない部分がでてくる。知らなかった事実や世界の話が原文にでていると、冷や汗をかきながら必死になって調べ
る。
では何を調べるのか。翻訳だから訳語を調べるというのが常識的な答えだろう。だが翻訳はそう簡単ではない。たとえば原著に
stereolithographyという言葉が使われていて、この言葉を知らなかったとしよう。辞書を調べれば、「光造形法」などの訳語があることがす
ぐに分かる。訳語が分かれば訳文らしきものは書ける。だが、だから翻訳はこわいのだ。言葉は記号だから、意味を知らなくても使える。おしゃま女の子や生意
気ざかりの男の子が聞きかじった言葉を使って背伸びしているのをみれば、意味を知らない言葉でも使えることが実感できる。知らない言葉を使って訳文らしき
ものを書くと、原文の意味が分かったように思えてくる。どんなにみっともない間違いをしていても、読者に意味が伝わるはずがなくても気づかなくなる(書い
た本人が意味を理解していないのだから、読者に伝わるわけがないのだが)。だから、訳語が分かっても、それは出発点にすぎない。訳語を手掛かりに、その言
葉が使われる世界を理解するために調べる。
翻訳のためだから、適切な訳語を使って適切な訳文が書けるようにすることが目的だが、それには事実を調べ、世界を理解しなければならない。翻訳の世界で
はこうした作業を「調べ物」ということが多い。
調べ物というのは要するに、訳者が自分の無知を補うために行うものだから、自慢できるようなことではない。冷や汗をかきながら行うものだ。だが、以前に
は調べ物は得意だと自慢する人もいた。アメリカの金融市場の動きを紹介する翻訳書の「訳者後書き」にそういう自慢が書いてあって、苦笑したことがある。そ
の本にはたくさんの訳注がついていたが、その本の想定読者層を考えると、大部分が不要だと思えた。同じテーマの記事を新聞で読んでいれば分かるはずのこと
に訳注がついていたのだ。その訳注を読んでいて気づいた。訳者は金融市場について何も知らないのだ。その証拠に、訳注のうちかなりの部分は間違いか不適切
だったのだ。この訳者が代講を引き受けたら、受講者は白け、苦笑して席を立つのではないだろうか。
最近は調べ物が得意だと自慢する翻訳者にあまり出会わなくなったように思う。考えてみれば当たり前のことだ。インターネットに大量の情報があり、検索サ
イトを使えば簡単に検索できるので、調べ物が以前とは比較にならないほど簡単になったのだ。簡単にできることを自慢するわけにはいかない。
翻訳という曲芸
翻訳者の立場は前述のような代講を引き受けた人に似ているが、翻訳はもちろん、「話す仕事」ではない。「母語(日本語)でものを書く仕事」である。その
点で小説家や評論家、新聞・雑誌の記者の仕事に似ているといえる。
ものを書く仕事をする人はたいてい、書いている時間よりも、構想や調査、研究などに費やしている時間の方が長い。たとえば最近翻訳したジェームス・アベ
グレン著『新・日本の経営』は、著者が50年にわたる日本企業研究の集大成として、10年近い期間をかけて調査し、研究してきた結果だ。執筆の期間はおそ
らくせいぜい半年だから、執筆の10倍以上の時間を調査と研究にかけていることになる。
翻訳者は1冊の本を訳すのに10年もかけることはできない。せいぜい数か月で訳す。だから、調査にかけられる時間もはるかに短い。その点を考えると、翻
訳という仕事が容易ではないことが、ある程度まで実感できるのではないだろうか。翻訳者が原著者の仮面をかぶって、読者にその内容を伝えたり、楽しんでも
らったりすることがなぜ可能かが不思議になってくるのではないだろうか。
翻訳が可能なのは何よりも、原著者が優秀で、原著がすぐれているからだろう。いいかえれば、すぐれた原著だけが翻訳されるからだろう。原著者はたとえば
10年間の調査・研究の成果を凝縮して、想定した読者が理解できる書籍という形で提示する。想定読者が理解できるように書かれてあれば、そして翻訳者が想
定読者と同等以上の知識と理解力をもっていれば、翻訳は不可能ではない。
もうひとつの要因として、原著者が調査・研究に費やした10年間に、翻訳者が遊んでいたわけではないことも強調しておくべきだろう。フィクションでもノ
ンフィクションでも、すぐれた原著はひとつの世界を作り上げている。たいていの場合、本を買って読みさえすればその世界に入れるわけではない。ある水準、
ある範囲、ある種類の知識や言語能力、感性などが必要になる。そして翻訳の場合には、原著を読んで、原著者が作り上げた世界に入るだけでは不十分であり、
その世界を母語で再現する力がなければならない。原著者が調査・研究に費やした10年間、翻訳者は遊んでいたわけではなく、原著に近い分野の翻訳をしてい
る。そして、冷や汗をかきながら必死に調べ、表現を磨いてきている。その蓄積によって、原著者の作り上げる世界を理解する能力、母語で再現する表現力をか
なりの程度まで獲得できているのである。
原著の想定読者層があまり重ならない本をばらばらに訳していったのではそうはならないかもしれないが、想定読者層がかなり重なる本をつぎつぎに訳してい
けば、ひとつの本を翻訳したことがつぎの本を訳す際の準備になる。知識が蓄積し、表現力が向上していく。そういう仕組みがなければ、翻訳という曲芸をうま
くこなすことはできないかもしれない。
翻訳通信2005年2月号