翻訳講義
山岡洋一
『ミル自伝』を訳す (2)

 第2回講義(第1章第3段落)

 前回は第1章第1段落と皆さんの訳文に基づいて、3つの点を指摘しました。第1に、翻訳とは意味を伝えるものだという点、第2に、翻訳にあたっては構文 解析がきわめて重要だという点、第3に翻訳にあたって辞書や資料を最大限に活用すべきだという点です。

 この3つは翻訳の基本の基本ですから、今後も繰り返し指摘していくと思います。今回は第3段落を訳してもらったわけですが、全員の訳文を読んで、この3 つの点を少し違った観点から指摘しておくべきだと感じました。第1は、読者に意味を伝えるためには、構文を少し大きな観点でとらえて、パラグラフの構造を 把握する必要があるという点です。第2は、活用すべき資料のひとつである既訳について、もっと批判的に検討する必要があるという点です。今回の第3段落で はこの2つの点が絡み合っています。まずは、比較的簡単な第2の点について論じていきます。

 『ミル自伝』第1章第3段落
 @ In this period of my father's life there are two things which it is impossible not to be struck with: /one of them unfortunately a very common circumstance, the other a most uncommon one. / A The first is, that in his position, with no resource but the precarious one of writing in periodicals, he married and had a large family; conduct than which nothing could be more opposed, both as a matter of good sense and of duty, to the opinions which, at least at a later period of life, he strenuously upheld. / B The other circumstance is the extraordinary energy which was required to lead the life he led, with the disadvantages under which he laboured from the first, and with those which he brought upon himself by his marriage./ C It would have been no small thing, had he done no more than to support himself and his family during so many years by writing, without ever being in debt, or in any pecuniary difficulty; /holding, as he did, opinions, both in politics and in religion, which were more odious to all persons of influence, and to the common run of prosperous Englishmen in that generation than either before or since; /and being not only a man whom nothing would have induced to write against his convictions, but one who invariably threw into everything he wrote, as much of his convictions as he thought the circumstances would in any way permit: /being, it must also be said, one who never did anything negligently; /never undertook any task, literary or other, on which he did not conscientiously bestow all the labour necessary for performing it adequately. / D But he, with these burthens on him, planned, commenced, and completed, the History of India; /and this in the course of about ten years, a shorter time than has been occupied (even by writers who had no other employment) in the production of almost any other historical work of equal bulk, and of anything approaching to the same amount of reading and research. / E And to this is to be added, that during the whole period, a considerable part of almost every day was employed in the instruction of his children: /in the case of one of whom, myself, he exerted an amount of labour, care, and perseverance rarely, if ever, employed for a similar purpose, in endeavouring to give, according to his own conception, the highest order of intellectual education./

既訳の批判的検討
 前回にも指摘した点ですが、既訳のある古典を翻訳するとき、既訳を超えていなければ、読者にとって何の意味もありません。既訳があるのに新訳を読む意味 があるのは、新訳が既訳を超えている場合だけです。

『ミル自伝』の既訳はいくつかありますが、比較的手に入りやすいのは、つぎの3つでしょう。

(1) 西本正美訳『ミル自伝』岩波文庫、1928年
(2) 朱牟田夏雄訳『ミル自伝』岩波文庫、1960年
(3) 山下重一郎訳註『評註ミル自伝』御茶の水書房、2003年

 翻訳の質という観点でみていくと、(3)より(2)の方がはるかに良く、(2)より(1)も方がはるかに良いといえるように思います。もっとも(3)は タイトルにあるように「評註」が中心になっていて、訳書というより研究書といった方が適切かもしれません。それでも、新しい訳ほど質が落ちるように思える のは、読者として納得しがたいことのはずです。この状況でさらにもうひとつ、もっと質の低い新訳をだすというのであれば、もう話にならないというべきで しょう。

 新訳は既訳を超えなければならない。これをいいかえると、新訳とは既訳に対する暗黙の批判でなければならないということになります。訳文を使って既訳を 暗黙のうちに批判するのが新訳です。このため、既訳のある古典を翻訳する際には、既訳の批判的な検討が不可欠になります。既訳のなかで批判の主要な対象に なるのは朱牟田訳だと考えるので、以下では朱牟田訳の問題点を指摘していきます。

 この段落の冒頭に、「父の生涯のこの時期には、特筆せずにおられないことが二つある」(朱牟田訳13ページ)と書かれています。第1は、「不幸にしてご くありふれたこと」で、定期刊行物への執筆による不安定な収入しかないのに結婚し、たくさんの子供をもったことです。第2は「きわめてめずらしいこと」だ とされています。この第2の点は、朱牟田訳ではこうなっています。

……第二の点というのは、父がこの仕事をはじめた最初からおかれていた不利な立場、さ らに結婚のためにみずから招いた不利な事情のもとにあって、ああいう生活を営むためには、異常な精力が必要とされたという一事である。……(13ページ)

 この訳文を読むだけで、原文をみるまでもなく、何かがおかしいと感じるのではないでしょうか。「異常な精力が必要とされたという一事」がなぜ、「きわめ てめずらしいこと」なのかと。そこで原文をみてみましょう。下線(1)の部分です。この部分の構文を確認しておきましょう。

The other circumstance is the extraordinary energy
which was required to lead the life he led,
with the disadvantages
under which he laboured from the first,
and
with those (the disadvantages)
which he brought upon himself by his marriage

  原文では、「きわめてめずらしいこと」はthe extraordinary energyです。関係代名詞which以下の形容詞節はwhich was required to ... となっていますが、「きわめてめずらしいこと」はあくまでもthe extraordinary energyであって、それ以外ではありません。

 この部分の朱牟田訳にはもうひとつ、若干不思議な点があります。「この仕事をはじめた最初からおかれていた不利な立場」という部分の「仕事」という訳語 がどこからでてきたのか、原文を読むと不思議に感じます。下種〔げす〕の勘繰りかもしれませんが、he laboured from the firstを「この仕事をはじめた最初から」と訳したのではないかと思えます。いうまでもないことでしょうが、このlabouredはunder whichとつながっています。つまり、こうなっているのです。

... he laboured under the disadvantages from the first, ...

 ですから、「この仕事」などとは訳さない方が良いと思います。ちなみに西本訳では、「父が初めから苦労してゐた不利な環境」(21ページ)になってい て、「仕事」などとは書かれていません。

 朱牟田訳にはこの少し後に、つぎのような文があります。

……何しろ父のいだいていた見解は、政治についても宗教についても、当時勢力を持って いたすべての人にとって、また、羽ぶりのよい生活をしている普通の英国人にとって、あとにもさきにも類例がないくらい嫌悪すべき見解だったのである。……

 この部分も、原文を調べるまでもなく、少々奇妙だという感想をもつのではないでしょうか。「あとにもさきにも類例がないくらい嫌悪すべき見解だった」と いう部分が奇妙だと。朱牟田訳によれば、これは当時の一部の人にとっての見方ですから、「過去に例がないくらい」なら自然ですが、「あとにも」というのは なぜなのかと不思議に思います。それほど深く考える必要のない決まり文句、単純な強調にすぎないのでしょうか。

 そう思って原文を読むと、違ったことが書かれています。

... which were more odious to all persons of influence, and to the common run of prosperous Englishmen, in that generation than either before or since; ...

 ここで「あとにもさきにも」と訳されているのは、either before or sinceの部分ですが、この部分の構文はどうなっているのでしょうか。その前にthanがあり、thanは形容詞か副詞の比較級に続いて接続詞として使 われるのが普通です。そう考えてみていくと、この部分の構文はこうつながっています。理解しやすくするために、all ... Englishmenをsb(somebodyの略)に置き換えます。

... which were more odious to sb in that generation than either before or since; ...

 ではこの部分で比較されているのは何と何なのでしょうか。通常、beforeやsinceと性質が同じものが比較されているはずなので、inと before、sinceとが比較されていると考えるべきでしょう。つまり、以下のように考えるべきです。

sb in that generation
←→ sb before (that generation)
←→ sb since (that generation)

 朱牟田訳では「あとにもさきにも類例がないくらい」は「嫌悪すべき」に掛かっているように読めますが、原文では掛かり方が違っています。「その世代」と 「前の世代」「後の世代」を比較しているのですから。

パラグラフ構造をどう読むか
 以上のように朱牟田訳には細かな点でいくつか問題がありますが、この段落にはもっと大きな問題もあります。何をいおうとしているのかがよく分からないと いう問題があるのです。訳文を文に分解してひとつずつを読んでいくと、分かりにくいというほどではないのですが、全体としてはぼんやりとした印象が残るだ けで、しっかりと理解するのが難しいのです。

 この点で原文は印象が違います。パラグラフの構造がしっかりしていて、何を伝えようとしているのかが分かるように感じます。原文と訳文と印象が違うのは なぜなのか。

 原文はこの長い段落が、わずか6つのセンテンスで構成されています。この6つのセンテンスがどういう関係にあり、どうつながっているのか。原文をセンテ ンスごとに区切って示しますので、これをみてください。原文中にスラッシュがあるのは、朱牟田訳で文が分かれている箇所です。

 これをみれば一目瞭然ですが、朱牟田訳では原文にきわめて忠実に訳文を区切っています。原文のセンテンスはすべて、訳文の文に対応しています。ただしそ れだけでなく、原文にコロンかセミコロンがあると、そこでも訳文を区切って、文にしています(第2センテンスのセミコロンだけは例外ですが、「たくさんの 子供を持ったということ、これは」の部分の読点は句点であっても不思議のないものです)。この結果、原文で6センテンスだったこのパラグラフが、訳文では 13の文に分かれています。

 朱牟田訳では、原文にピリオド、コロン、セミコロンがある箇所で、原則として句点を使っているわけですが、文章の流れがつかみにくい訳文になったのは、 そのためだと思えます。なぜそう思えるかは、パラグラフの構造を調べ、第4〜第6センテンスの部分の構造をとくに詳しくみてみるとよく分かるはずです。原 文の構造とそれぞれの部分の趣旨をみていきましょう。

@ この時期の父には特筆すべき点が2つある。
A 第1は、不安定な原稿料収入しかないのに、結婚し、たくさんの子供をもったことだ。
B 第2は、この不利な条件のもとで生活を維持するために、人並みはずれた気力を発揮したことだ。
C(主文) 借金もせずに一家の生活を維持できただけでも大変なことだっただろう。

 ここまで、つまり第4センテンスの最初のセミコロンまでは簡単です。ではセミコロンの後はどうなっているのか。

 まず、最初のセミコロンの後、holding以下は、holding opinionsが柱になっていて、このopinionsをboth以下の句とwhich以下の節で形容しています。内容を考えると、理由を表す分詞構文 だと考えられます。

 つぎにセミコロンがあり、andとありますので、前の何かと並列になっていて、並列が終わることが分かります。ちなみに、andは並列の接続詞ですが、 並列がその後で終わることを示します。では後に何があるかというと、being以下ですから、これも分詞構文で、holding以下の分詞構文と並列され ていると考えられます。したがって、holding以下が理由1、being以下が理由2になっていて、どちらも主文の理由になっているといえます。

 つぎにコロンがあり、今度はandがないbeingです。コロンはセミコロンより強い区切り記号であり、その後にit must also be saidという挿入節があるので、それまでにあげた2つの理由に、もうひとつの理由を追加していると考えるのが順当でしょう。この分詞構文の柱は being oneであり、who以下の節で、このoneを限定しています。

 つぎのセミコロンの後はどうなっているのでしょうか。セミコロンに続くのはnever undertookで、過去形ですから、分詞構文でないのは明らかです。どこから続くのかは、その前をみていけば分かるでしょう。その前にあるwhoを主 部とし、never didに対応しています。このセミコロンは説明をあらわすと考えていいでしょう。

 各部分の趣旨はこうです。

(理由1)父の過激な思想は当時、とくに嫌われていた。
(理由2)信念に反することは書かないし、書くものには信念を盛り込もうとした。
(追加理由)何ごとにも力を抜かなかった。
(追加理由の説明)引き受けた仕事を適切に遂行するために労を惜しまなかった。

 こうみてくると、第4センテンスの構造がじつに単純であることが分かります。主文があり、その理由を3つ示しているだけなのです。第5センテンスのセミ コロン以下、第6センテンスのコロン以下も同じようにみていくと、どちらも主文を補足していることが分かります。

 そこで、第4センテンス以下のパラグラフの構造を考えるにあたって、理由や補足などはいったん括弧内に入れて、センテンスの柱の部分だけをみていくこと にします。こうなります。

B It would have been no small thing, had he done no more than to support himself and his family during so many years by writing, without ever being in debt, or in any pecuniary difficulty.
C But he, with these burthens on him, planned, commenced, and completed, the History of India.
D And to this is to be added, that during the whole period, a considerable part of almost every day was employed in the instruction of his children.

 第4センテンスでは、It would have been ..., had he done ... と仮定法過去完了が使われていますが、これが第5センテンス冒頭のBut、第6センテンス冒頭のAndがどのようにつながっているのかは、このように枝葉 末節を取り除いて考えると、はっきりみえてきます。実際には、原文のままでも明確なのですが、訳文では、間に文が入っているので、このつながりがみえてき ません。いいかえるなら、コロンやセミコロンがうまく訳出されていないので、パラグラフの構造がみえにくくなっているのです。

 日本語の文章では、コロンやセミコロンを使うことはないので、原文のコロンやセミコロンがもつ意味を、何らかの方法を使って読者に伝える必要がありま す。たとえば、理由や補足の部分をカッコ内に入れる方法がありますし、コロンやセミコロンの部分、あるいはピリオドの部分に何か言葉を追加する方法があり ます。

 皆さんの訳を読んで、ひとつ、感心した例があります。第3センテンスの最初のセミコロンの部分、原文でいえばholdingの前のセミコロンの部分に、 「理由は多々ある」という文を入れた訳があったのです。これだけで、訳文がずいぶん読みやすくなっています。こういう工夫がもっとあってもいいでしょう。

第3回講義(第1章第10段落)

 今回は前回の第3段落から少し飛んで、第10段落を訳してもらいました。この段落はペンギン・クラシック版でほぼ2ページあり、第1段落、第2段落のほ ぼ2倍あります。ただし、これまでとは違って、センテンスがどれもかなり短くなっています。ですから、センテンスの中の構造で苦労することはあまりなかっ たはずです。それでも、パラグラフとしてみたとき、構造が分かりにくい部分があったと思います。

 例をひとつあげます。第1センテンスと第2センテンスをどう訳しているのか、典型的な例をみてみましょう。ただしこれは何人かの訳文を組み合わせて作っ たものなので、だれかひとりの訳文だというわけではありません。

 歴史を書いていくというのはわたしが自発的におこなっていたことだが、それとは別に 父に命じられていた課題もあった。それは詩を書くことだったが、わたしにとってとくに嫌な課題のひとつであった。ギリシャ語やラテン語では詩を書かなかっ たし、作詩法も教わらなかった。……

 これを読むと戸惑いを感じるのではないでしょうか。詩を書くように命じられていたという話の直後に、ギリシャ語やラテン語の詩は書かなかったという話が でてきます。原文を読むと、第3〜第5センテンスもギリシャ語、ラテン語の話です。そして、第6センテンスにこう書かれています(これも皆さんの訳文から 合成したものです)。

……わたしは父に英語の詩を書くように求められた。……

 要するに、「詩を書くよう命じられた」→「ギリシャ語やラテン語の詩は書いていない」→「英語の詩を書くように求められた」という流れになっているので す。なぜこのように書かれているのでしょうか。第1センテンスから第2センテンスに移るときに唐突だという印象を読者に与えないようにするには、どうすれ ばいいのでしょうか。

読者の二重性
 この点を考えていくと、翻訳における読者の二重性という問題にぶつかります。読者の二重性とはこういうことです。この原著の場合、原著者のジョン・ス チュアート・ミルは19世紀半ばのイギリスの読者に向けて書いています。この原著を訳すとき、訳者は21世紀の日本の読者に向けて書くことになります。こ のように、翻訳の場合には、原著で想定されている読者と、訳書で想定する読者が違うのがふつうです。このように読者が違うことから、翻訳ではさまざまな問 題がでてきます。

 この場合なら、「詩を書くよう命じられた」という部分を読んだときの反応が、原著者の想定した読者といまの日本の読者とではかなり違うという問題がある はずです。当時の読者はおそらく、「ギリシャ語やラテン語の詩を書くように命じられたのだろう」と考えたはずです。だからこそ、「ギリシャ語やラテン語の 詩は書いていない」と原著者はことわっているわけですが、そのままでは、訳書で想定する読者は戸惑うはずです。このように反応が違うのは、原著の読者と訳 書の読者では常識が違うからです。常識の違いは翻訳における読者の二重性で、とくに大きなテーマになる点です。

 西本訳をみると、こう訳されています。

……私の書かされたのは希臘語や羅典語の韻文ではなかった。……それで私の書かされた 韻文は英語のであった。(33ページ)

 語順を変えただけのようにみえて、じつは読者の違いを十分に考慮した訳文だと思います。前回の講義で、古典の新訳は既訳に対する暗黙の批判でなければな らないという話をしましたが、それだけではなく、批判的継承でなければならないといえます。既訳の素晴らしい点をしっかり継承しなければならないのです。

翻訳は前から訳す
 翻訳の原則といった話ばかりになっているので、今回が少し翻訳の技法の話をします。比較的簡単に使える技法の話です。

 まず指摘したいのは、「翻訳では前から訳すとうまくいくことが多い」という点です。英文和訳で後ろから前に訳していくのが常識になっている構文でも、翻 訳では前から訳す方がよい場合が多いのです。たとえば、時をあらわす接続詞のbeforeは、「〜より前に」などと訳すことになっていますが、「の後に 〜」などとすると、前から後ろに、つまり原文の順番通りに訳せまし、そう訳さないと文章がおかしくなる場合もあります。

 前から後ろに訳していくのは、同時通訳にも共通する方法です。たとえば、I think that ...を「〜とわたしは思います」と訳そうとすると、そのセンテンスが終わるまで、この部分を訳せなくなります。そこで、たとえば「わたしが思うに〜」と 訳せば、そういう問題がなくなります。このため、同時通訳では前から順に訳していくのが常識になっています。翻訳の場合には同時通訳とは違って時間的な余 裕がたっぷりあるので、後ろから訳してもかまわないのですが、それでも、前から順に訳す方がはるかに良いという場合が少なくありません。ただし、前述の beforeの場合のように、前から順に訳そうとすると、常識的な訳語が使えなくなることもあるので、工夫が必要です。

 今回の範囲で、exceptが4回使われています。これは「〜を除いて」という風に後ろから前に訳していくのが英文和訳の常識になっていますが、この方 法では文章がぎくしゃくすることになるでしょう。典型的な例をあげます。第17センテンスの訳例です。これも皆さんの訳文を組み合わせて作ったもので、と くにだれかの訳というわけではありません。

……父は今世紀の詩にはほとんど価値を見いださず、わたしはウォルター・スコットの物 語詩以外、それらにほとんど触れることはなかった。父にスコットの物語詩を勧められて読み、わくわくするような物語が大好きだったので、それだけは強烈に 好きになった。……

 後ろから前に訳していくと文章がぎくしゃくすることがあるという点を理解できるでしょうか。前から順に訳していくと、すっきりした文章になるはずです。 たとえば、こうします。

……父は今世紀の詩にはほとんど価値を見いださず、わたしはそれらにほとんど触れるこ とはなかった。例外はウォルター・スコットの物語詩で、父に勧められて読み、わくわくするような物語が大好きだったので、強烈に好きになった。……

 前から順に訳すために、「〜以外」を「例外は〜」に変えています。今回の第10段落で使われている4つのexceptはすべて、同じ方法で訳す方が良い ように思えます。

意味不明になりそうな部分の訳し方
 原文の第8センテンスの下線部分をみてください。朱牟田訳ではこうなっています。

……私の詩的野心への自発的刺激は普通なら恐らくその辺で終わるところだったのだ が、……

 この「私の詩的野心への自発的刺激」という訳を原文と比較すると、じつに忠実な訳であることが分かります。原文のpoetical ambitionを「詩的野心」と訳し、spontaneous promptingsを「自発的刺激」と訳しているのですから。英和辞典で調べてみると、どれも、それぞれの語の訳語として真っ先にあげられていることが 分かるはずです。したがって、文句のつけようがないほど正しい訳なのでしょうが、読者の立場に立つと、この訳では分かったようで分からないという印象を受 けるのではないでしょうか。

 この場合、たとえばspontaneousという形容詞が曲者で、「自発的」とか「自然発生的」とかと訳すことになっているのですが、このような漢字ば かりの訳語には、意味が伝わりにくいという問題があることが少なくありません。

 このような場合、原文の意味をごく普通の言葉で友だちに伝えてみようと考えると、うまくいくことが多いと思います。そのためには、原文に使われている語 がどのような意味をもっているのか、どのようなイメージを伝える語なのかを考えていくといいでしょう。つまり、訳語をいったん忘れて、意味を考えるので す。

 この場合なら、要するに、「だれかにいわれたからではなく、書いてみたくなったから詩を書こうとすること」といった意味ですから、それをうまく文章にす ればいいのです。

調べて書く
 第1回の講義のときに、翻訳とは意味を伝えるものだと指摘しました。また、翻訳にあたって辞書や資料を最大限に活用すべきだとも指摘しました。今回の範 囲である第10段落にはイギリスの詩人やその代表作の名前がたくさんでてきます。これを漠然と訳してはいけません。

 たとえば第16センテンスには、SpenserとFairie Queeneという固有名詞がでてきます。既訳をみて、「スペンサー」と訳し、一重鉤括弧付きの「仙女王」と訳すのは、いかにも安易です。まず、訳書の想 定読者にとって、「スペンサー」で十分なのかを考えるべきです。せめて「エドマンド・スペンサー」にすべきではないでしょうか。また、Fairie Queeneは長編ですから、二重鉤括弧にすべきだし、書名も『神仙女王』などがあり、最新の訳書では『妖精の女王』となっているので、検討の余地があり ます。

 翻訳にあたっては、こうした点をしっかりと調べることが重要です。皆さんは英文和訳には慣れているはずですが、調べるという点が英文和訳と翻訳の違いの ひとつになっています。大まかにいえば、英文和訳と翻訳の違いはこうです。

 英文和訳は読んで訳す。
 翻訳は原文を読み、理解して解釈し書く。

 英文和訳は英文が読めていることを教師などの採点者に示すのが目的です。翻訳は、原文の意味と情報を読者に伝えることが目的です。英文が読めているだけ ではだめ、意味と情報が読者に伝わらなければ、翻訳になりません。意味と情報を伝えるためには、訳者自身が意味を理解し、情報を正確につかんでいなければ なりません。そのために必要なのが、調べるという作業です。

 翻訳の業界ではこれを調べ物といいます。翻訳にあたっては、調べ物で手を抜いてはいけない、調べ物に時間をかけることが大切だといわれています。調べ物 は翻訳者にとって脅迫観念のようなものなので、翻訳者が集まると、調べ物に関する話題がつきないのが普通です。若い翻訳者と話すと、この仕事は調べ物に時 間がかかって大変だという人がいますし、逆に、調べ物なら得意ですから任せてくださいという人もいます。この調べ物について、注意しておくべき点が2つあ るように思います。

 第1に、調べ物は苦しいがしなければならないこと、翻訳にあたっての義務といったものではないと思います。調べ物は逆に、楽しい作業なのです。翻訳をし ていて、何かを調べだすと、面白くて止まらなくなること少なくありません。仕事として翻訳に取り組んでいるのであれば、かならず締め切りがあるわけですか ら、面白くて楽しい調べ物に無制限に時間を使うわけにはいきません。どこかで打ち切らなければと思いながら夢中になるのが調べ物です。

 たとえば、第17センテンスにサー・ウォルター・スコットの話がでています。19世紀のスコットランドの詩人、『アイバンホー』などで有名ですね。ス コットについて少し調べていくと、面白い話がでているはずです。ジョン・スチュアートの一人娘、ウィルヘルミナに求婚して断られたというのです。『ミル自 伝』の著者の名前はジョン・スチュアート・ミルで、すぐ下の妹の名前がウィルヘルミナなのですが、これは偶然ではありません。この本の第1章第2段落にで てきますが、原著者の父親のジェームズ・ミルはスコットランドの農村で靴屋の息子として生まれ、サー・ジョン・スチュートに才能を認められて大学までの学 費を世話してもらっているのです。父親にとって、ジョン・スチュアートは恩人です。だから、長男にジョン・スチュアートという名前をつけたのです。ジェー ムズ・ミルの伝記などを調べると、スコットが求婚したウィルヘルミナはジェームズ・ミルの幼なじみで、初恋の人だという説もあるようです。だから、長女の 名前がウィルヘルミナなのでしょう。このように、ジェームズ・ミルとサー・ウォルター・スコットには関係があるわけで、そのあたりを調べだしたら面白くて 止まらなくなります。ですが、『ミル自伝』の翻訳には無関係な話に深入りすることになるので、どこかで打ち切るしかありません。

 もうひとつ、翻訳にあたっては、原著でデーマになっている点についてはかなりの知識があることが前提になります。たとえばこの『ミル自伝』を訳すとする と、その前提として、ジョン・スチュアート・ミルと父親のジェームズ・ミルがイギリスの思想史でどのような地位を占めているのかといった点を知っているこ とが前提になるのです。肝心な点については、調べなくても知っているようでなければならないのです。あわてて調べるようではだめです。皆さんの場合は英米 文学科で学んでいるわけですから、思想史についてはあまり詳しくは知らなくても、せめて、この段落にでてくる詩人や詩の名前ぐらいは知っていなければなり ません。知らないというのであれば、恥ずかしいと思うべきです。恥ずかしながら、調べなくてはいけない。そう考えるべきです。

 10年ほど前にインターネットが急拡大し、調べ物はそれ以前と比較にならないほど楽になりました。以前なら時間をかけて本などで調べなければならなかっ た点が、インターネットの検索サイトを使って、短時間で調べられるようになりました。ですから、せめてインターネットをうまく使って、知らなかった点は しっかり調べてくださ


『ミル自伝』第1章第10段落
 @ But though these exercises in history were never a compulsory lesson, there was another kind of composition which was so, namely, writing verses, and it was one of the most disagreeable of my tasks. A Greek and Latin verses I did not write, nor learnt the prosody of those languages. BMy father, thinking this not worth the time it required, contented himself with making me read aloud to him, and correcting false quantities. C I never composed at all in Greek, even in prose, and but little in Latin. D Not that my father could be indifferent to the value of this practice, in giving a thorough knowledge of those languages, but because there really was not time for it. E The verses I was required to write were English. F When I first read Pope's Homer, I ambitiously attempted to compose something of the same kind, and achieved as much as one book of a continuation of the Iliad. G There, probably, the spontaneous promptings of my poetical ambition would have stopped; but the exercise, begun from choice, was continued by command. H Conformably to my father's usual practice of explaining to me, as far as possible, the reasons for what he required me to do, he gave me, for this, as I well remember, two reasons highly characteristic of him: one was, that some things could be expressed better and more forcibly in verse than in prose: this, he said, was a real advantage. I The other was, that people in general attached more value to verse than it deserved, and the power of writing it, was, on this account, worth acquiring. J He generally left me to choose my own subject, which, as far as I remember, were mostly addresses to some mythological personage or allegorical abstractions; but he made me translate into English verse many of Horace's shorter poems: I also remember his giving me Thomson's "Winter" to read, and afterwards making me attempt (without book) to write something myself on the same subject. K The verses I wrote were, of course, the merest rubbish, nor did I ever attain any facility of versification, but the practice may have been useful in making it easier for me, at a later period, to acquire readiness of expression. L I had read, up to this time, very little English poetry, Shakespeare my father had put into my hands, chiefly for the sake of the historical plays, from which, however, I went on to the others. M My father never was a great admirer of Shakespeare, the English idolatry of whom he used to attack with some severity. N He cared little for any English poetry except Milton (for whom he had the highest admiration), Goldsmith, Burns, and Gray's Bard, which he preferred to his Elegy: perhaps I may add Cowper and Beattie. O He had some value for Spenser, and I remember his reading to me (unlike his usual practice of making me read to him), the first book of the Fairie Queene; but I took little pleasure in it. P The poetry of the present century he saw scarcely any merit in, and I hardly became acquainted with any of it till I was grown up to manhood, except the metrical romances of Walter Scott, which I read at his recommendation and was intensely delighted with; as I always was with animated narrative. Q Dryden's Poems were among my father's books, and many of these he made me read, but I never cared for any of them except Alexander's Feast, which, as well as many of the songs in Walter Scott, I used to sing internally, to a music of my own: to some of the latter, indeed, I went so far as to compose airs, which I still remember. R Cowper's short poems I read with some pleasure, but never got far into the longer ones; and nothing in the two volumes interested me like the prose account of his three hares. S In my thirteenth year I met with Campbell's Poems, among which Lochiel, Hohenlinden, the Exile of Erin, and some others, gave me sensations I had never before experienced from poetry. (21) Here, too, I made nothing of the longer poems, except the striking opening of Gertrude of Wyoming, which long kept it place in my feelings as the perfection of pathos.


(2006年6月号)