翻訳講義
山岡洋一

翻訳 はなぜ難しいのか

  翻訳は難しい。ほんとうに難しい。その証拠に、大量に出版されている翻訳書のなかで、名訳と呼べるものはごくごくわずかしかありません。文 句なしの名訳と呼べる作品を出しつづけている翻訳家はなかなかいません。10人はいても、20人探し出すのは至難の業です。

 では翻訳がそれほど難しいのはなぜなのか、その理由はいくつかあります。ですが、結局のところ、翻訳が難しい理由はたぶん、ひとつしかありません。翻訳 が難しい理由、それは翻訳が簡単だという点にあります。

 翻訳は簡単です。じつに簡単です。慣れ親しんだ分野なら、原文を読むのとほぼ同時に翻訳を進めていくこともできます。キイボードを叩き、仮名漢字変換を 使って文章を入力していく作業には時間がかかるので、完全に同時というわけにはいきませんが、ほぼ同時であれば、十分に可能です。たとえば、ごく普通の単 行本1冊なら、1か月で楽々訳すことができます。週休2日どころか、週休3日でも訳せます。翻訳はそれぐらい簡単なのです。ですが、楽々と翻訳した結果は 悲惨です。これなら原文を読んだほうがいいと思われるような訳になります。

 翻訳は簡単です。だから翻訳は難しいのです。翻訳には、時間も手間もかけず、楽々と行う道が用意されています。楽な道があれば、それを使いたくなるのが 人情というもの。ですが、この楽な道を選ぶと、悲惨な結果になるのです。誰でも選びたくなる楽な道を避けなければまともな翻訳はできません。ですが、楽な 道はいつも目の前にあります。一瞬気を緩めると、そうとは意識しないまま楽な道に入り込んでいます。一瞬たりとも緊張を緩めてはいけない。これが翻訳の難 しさの根幹です。

 では、楽な道とはどういう道なのか、楽な道を避けるにはどうすべきかを考えていきましょう。

英文和訳の道
 欧米の翻訳論を読んでいて、外国語学習で翻訳が果たす役割という項目があり、少々驚いたことがあります。欧米では外国語教育に翻訳を取り入れているのか と思ったのです。読んでいって分かったのですが、驚くようなことではありませんでした。論じられていたのは、日本でいえば、英語教育での英文和訳について だったのです。

 英文和訳なら誰でも知っているはずです。中学高校の英語の時間に教えられているからです。たぶん、英文和訳の学習の集大成といえるのが、大学入試でしょ う。大学入試の英語には2つの特徴があります。第1に辞書が使えません。第2に時間が極端に限られています。

 第1の点について。辞書が使えないのは当たり前ではないかと思えるかもしれませんが、少し考えてみると、英文和訳や英作文の問題があるのに、辞書を持ち 込めないというのは、じつに奇妙なことです。現実の世界では、英文を読んだり書いたりするときに辞書を使わないのは非常識だといえるからです。入試では辞 書が使えないので、入試問題に使われそうな単語や熟語などをすべて覚えておかなければなりません。知らない単語がでてきたら、お手上げになりかねないから です。

 第2の点について。入試では90分などの短い時間のなかで、大量の問題を解かなければならないのが普通です。大量の問題のうちのひとつに英文和訳があっ た場合、読んだらすぐに回答を書かなければいけない。意味をじっくり考えるような余裕はありません。機械的に訳していくしかないのです。

 入試のこのような性格を考えてみれば、中学高校で学んだ英語、とくに受験勉強のときに学んだ英語がどういうものだったかが理解できるはずです。英文を読 んだときに、意味をじっくり考えることなく、機械的に訳せるように訓練するのが、学校英語、受験英語の目標になっていたはずです。

 英文和訳ではたぶん、学校英語のノウハウは2点にまとめられます。第1は、原文の構文を素早く読み取って、決まった訳し方で訳すことです。関係代名詞の 制限用法は後ろから訳す、as soon asは「〜するやいなや」と訳すといった具合です。第2は、単語や熟語の訳語をたいていは1つだけ、多くても2つか3つ覚えておいて、文脈に関係なく使う ことです。たとえばheとあれば「彼は」と訳し、butとあれば「しかし」と訳します。受験英語ではこのようなノウハウを極限まで合理化しています。

 もちろん例外もありますが、翻訳の仕事をしようと考える人は、たいていの場合、学校英語、受験英語が得意だったはずです。英文を読んだときに、意味を じっくり考えることなく、機械的に素早く訳す訓練を十分に受けて、好成績をあげてきたはずです。そのうえ、翻訳を何年か続けてくれば、時間も手間もかけ ず、楽々と訳せるようになるのは当然です。楽な道が開けてくるのは当然です。そして、英文和訳でどういう訳文ができるかを考えれば、これがいかに危険なこ となのかが分かるはずです。

翻訳調の道
 学校英語、受験英語の英文和訳は現在の感覚で考えればいかにも不合理だと思えるかもしれませんが、もともとは時代の要請にこたられる優秀な学生を選別す るという目的に合わせて作られたものです。当時の時代の要請とは、欧米の進んだ科学技術、理論、思想などを急速に取り入れることでした。そのための手段の 柱になっていたのは翻訳です。ですから、明治大正の時代には、高等教育機関の中心的な役割のひとつが翻訳家養成でした。当時、翻訳のスタイルとして使われ ていたのがいわゆる翻訳調なので、大学入試で、翻訳調の翻訳能力を確認しようとするのは当然でした。

 翻訳調の特徴をみていくと、原文と訳文とで、構文や単語・熟語の一対一対応を追求する点など、学校英語、受験英語に似ていることがはっきりしています。 これは偶然ではありません。翻訳調のスタイルがあり、それを簡略化したのが学校英語であり、受験英語だと考えるべきです。

 翻訳調の最大の特徴はたぶん、原文の語句と訳語の一対一対応でしょう。たとえば、原文にnationと書かれていれば「国民」と訳し、意味は同じでも countryと言い換えられていれば「国」と訳し、societyと言い換えられていれば「社会」と訳していきます。また、nationが少し違った意 味で使われており、たとえば国がなかった原始時代について論じた文脈で使われていても、「国民」と訳します。何が書かれているかよりも、どう書かれている かを重視するのが翻訳調の特徴です。原文で原著者が伝えようとした意味よりも、原著者が使った言葉を重視するのが特徴なのです。

 翻訳調の翻訳は、入試の英文和訳とはいくつかの点で違っています。大学入試の英語には前述のように、辞書が使えないこと、時間が極端に限られていること という特徴がありますが、翻訳調の場合にはどちらの特徴もありません。辞書は使えるどころか、最良のものを使わなければならないとされています。時間につ いていうなら、ほとんど無制限にといえるほど使えるのが常識でした。翻訳調の全盛期には、とくに優秀な学生が大学に残り、一生の生活を保証されて、一生の 仕事として翻訳に取り組む仕組みになっていたからです。この2点で、翻訳調は入試の英文和訳より簡単だともいえます。

 しかし、翻訳調はそもそも、とても理解できるはずがないほど進んでいる欧米の書物をとりあえず日本語で読めるようにしておくことを目的としていますか ら、入試の英文和訳とは比較にならないほど難しいのが当然です。意味が分からないほど難しいからこそ、翻訳調というスタイルを使って翻訳するのです。

 原文と訳文とで、構文や単語・熟語の一対一対応を追求する点では翻訳調は入試の英文和訳に似ていますが、原文に理解するなどとてもできないほど難しい概 念があらわれ、訳語が決まっていない語句が使われている点では、入試問題とは違っています。こうした概念や語句をどう訳すかが、翻訳調では最大の問題にな ります。

 こうした概念や語句にぶつかったとき、どうするか。たいていは、漢字を組み合わせて新しい訳語を作る方法が使われます。こうして作られた訳語は、何らか の意味を読者に伝えるためのものではありません。意味が分からないが、これこれの語句が原文のこの箇所に使われていたと読者に伝えるための符丁のようなも のなのです。先人が作った符丁と自分が作った符丁とを使って訳していくのですから、これは素人にはとてもできない仕事です。専門家が本業として行うのが翻 訳調の翻訳です。

 ですが、専門用語の訳語という符丁さえ決めてしまえば、翻訳の作業そのものは英文和訳の回答を書くのとそう変わらないものになります。翻訳調が使われる のはそもそも、意味を理解することなどとてもできないほど進んでいる欧米の書物をとりあえず日本語で読めるようにしておくためですから、意味を考えなくて も訳せる仕組みになっています。もちろん、訳者はその分野の専門家ですから、原著者が何を伝えようとしたのかを考えないはずがありませんが、意味を考える 作業と翻訳の作業とは切り離されています。翻訳にあたっては、原文の意味を読者に伝えるのではなく、原文の表面を忠実に正確に訳すことだけを目標にしま す。それとは別の作業として、原文の意味を考え、その結果は、普通、解説書、研究書などの形で発表します。翻訳書と解説書・研究書が対になって、専門家と しての仕事が完成するようになっています。

 翻訳調は読者に意味を伝えるものではないので、読みやすくはありません。原文の表面を、表面だけを正確に伝えることを目的にしていますから、読みやすい ものになるはずがないのです。普通の感覚で読むと、良くいえば難解、悪くいえば支離滅裂と感じられるはずです。きわめて読みにくいが、原文の一語一句を正 確に訳してあるのが翻訳調なのです。最近では、翻訳調の総本山といえる哲学の分野でも、意味を伝えようとする翻訳があらわれています。翻訳調の信奉者はこ うした翻訳について、「読みやすいが正確さに欠ける」と非難します。こう非難する人には、何を基準に「正確さ」を判断しているのかと質問してみるべきで す。普通はたとえば、原文のnationを「国民」「国」「民族」などと訳し分けていては、nationがどこに使われていたのかが分からなくなるではな いかというのが、「正確さに欠ける」という言葉の意味です。常識をわきまえている人なら、馬鹿げていると思うでしょうが、「正確さ」という言葉はこの程度 の意味で使われているのです。翻訳調が必要になった社会的条件、つまり欧米が理解することなどとてもできないほど進んでいたという条件がなくなっても、こ ういう意見が残っているので、翻訳調はなかなかなくなりません。

 翻訳という仕事の難しさという点で重要なのは、翻訳調の翻訳なら意味を考えることなく訳していけることです。ある専門分野の符丁を覚えるのは、常識のあ る人にとっては苦痛でしょうが(子供なら、無意味な言葉を苦もなく覚えますが)、この障害さえ乗り越えれば、翻訳調の翻訳は機械的な作業になります。時間 も手間もかけず、楽々と訳せるようになるのです。そのうえ、一見、難しそうで、知性がありそうで、偉そうな訳文が簡単に書けるのですから、何とも危険な罠 です。

カタカナ調の道
 翻訳理論にdomesticationとforeignizationという言葉があります。翻訳理論のキイワードのひとつなのに、どういうわけかまと もな訳語がなく(「同化」と「異化」と訳している場合がありますが)、たいていは原語のままで使われています。いかにもみっともないので、以下では「自国 語化」「外国語化」という仮の訳語を使います。

 いまのアメリカで翻訳理論の第一人者だともいえるローレンス・ベヌーティの著作を読むと、アメリカでは翻訳にあたって英語らしい訳にすることが強く求め られているようです。ベヌーティはこれに批判的であり、逐語訳に近い形で原文の表現を活かし、翻訳であることを読者に意識させる訳文を書くべきだと主張し ています。自国語化を当然とする風潮に対して、外国語化を重視すべきだと主張しているのです。

 日本の翻訳の歴史と現状をみると、アメリカとは正反対の状況になっているようです。外国から進んだ文化を取り入れることがつねに翻訳の目的になっていま す。文化のひとつは言葉ですから、言葉という面でも、つねに外国のものを取りいれようとしてきました。外国語化が主流であり、翻訳調もそのひとつです。

 外国から進んだ文化を取り入れた結果、日本の文化は豊かになってきました。日本語も例外ではありません。翻訳によって外国語の良さをさまざまな点で取り 入れてきた結果、いまの日本語ができあがったといえます。典型的な例をあげれば、句読点があります。幕末から明治にかけて、欧米の書物を大量に翻訳するよ うになって、欧米の原語にある句読点が日本語にないことが不便に感じられるようになりました。当時の翻訳家の試行錯誤の結果、ピリオドから句点が作られ、 コンマから読点が作られました。疑問符、カッコ、引用符などの符号も整備されました。いまでは、句読点のない文章は考えにくいほどになっていますが、明治 の初めまでは、句読点がないのが当たり前だったのです。これが翻訳理論にいう外国語化の典型です。外国語の優れた部分を取り入れて自国語を豊かにしてきた のです。

 語彙という点では、外国語化がもっと進んでいます。この文章で使っている言葉のうちかなりの部分はもともと翻訳語として作られたものです。翻訳語を追放 して純粋の大和言葉だけで文章を書こうとしても、不可能なのではないでしょうか。

 翻訳調について話すと、そんなものはもう古いという人もいるでしょうが、実際には外国語化という観点でみたとき、翻訳調がいまでもきわめて強固であるこ とに気づくはずです。現在の翻訳調が翻訳調とはみえないのは、昔とは違って、漢字を使った訳語を作れるほどの教養のある人が少なくなったからだと思いま す。いまでは、新しい訳語はほぼすべてカタカナ語になっています。カタカナの羅列が現在の翻訳調の特徴なのです。漢字だらけだった昔の翻訳調とはまったく 違うという印象を受けますが、本質は変わりません。やはり構文と語句の一対一対応が使われています。

 カタカナ語を羅列したスタイルは昔の翻訳調とはたしかに印象が違うので、本質が同じだといっても、これを翻訳調と呼ぶのは適切ではないでしょう。そこで 現代の翻訳調ともいえるカタカナ語の羅列をカタカナ調と呼ぶことにしましょう。

 翻訳調とカタカナ調の違いは訳語の作り方にあります。翻訳調では漢字の組み合わせで訳語を作るのに対して、カタカナ調では原語をカタカナで表記して使い ます。このため、カタカナ調を使うと、翻訳調よりもさらに楽に、時間も手間もかけずに訳せるようになります。原文に訳しにくい用語がでてきたら、カタカナ にしておけばいいのですから、これほど楽なことはありません。

楽な道の落とし穴
 以上のように、翻訳を行うとき、実に楽な道が3つ用意されています。英文和訳、翻訳調、カタカナ調の3つです。この3つの道のうち少なくとも翻訳調とカ タカナ調はある分野で正しいとされている方法ですから、なぜ使ってはいけないのかという反発もあるでしょう。ですが、この3つの道には、意味を考えなくて も訳文が作れるという共通点があります。書いた本人が(この場合は訳者ですが)、意味を理解していないときに、読者が理解できる文章ができるでしょうか。 できないと考えるべきでしょう。翻訳に用意されている楽な道を選ぶと、意味が読者に伝わらない訳文ができる。ここに問題があるのです。

 翻訳調の場合には、ある意味でそれで良かったといえます。翻訳調は、原文の意味を伝えることを意図していません。意味が分からないほど難しいことを前提 に、とりあえず日本語で読めるようにしておくのが翻訳調の目的です。意味は解説書を読まなければ分からない、いや、読んでも分からないのが普通なのです。

 ですがいまの世の中で、こういう翻訳に対する需要があるのでしょうか。読者はそんな訳を求めているのでしょうか。そんな翻訳を読まされくらいなら、原文 を読む方がいいと読者は考えるのではないでしょうか。

 読者が求める翻訳、読んでもらえる翻訳にするには、無理にでも楽な道を避けなければなりません。意味を考えなくても訳文ができあがる道は避けなければな りません。そのための基準をいくつかあげていきたいと思います。

 読者の立場に立つなら、年間に8万点に近い書籍が出版され、マスコミやインターネットで無数の情報が提供されているいまの世の中で、訳者が意味を考えず に機械的に訳した文章を読む理由はありません。どれほど評判になっていても、ベストセラーになっていても、そういう翻訳は読まないのが正解です。ですか ら、避けるべき翻訳の見分け方を覚えておくと便利です。以下にあげる基準は、翻訳者への助言という観点からのものですから、基準のいくつかを満たしていな くても、翻訳の質が低いとは限りません。ですが、翻訳の質を見分ける際にある程度の目安になるでしょう。

楽な道を避けるには
 英文和訳の道、翻訳調の道、カタカナ調の道はどれもすぐ手近に用意されているので、翻訳にあたって一瞬気を緩めると、これらの道に入り込むことになりか ねません。そこで、楽な道に入り込まないように、いくつもの障害物を設けておくのがいいと思います。

 第1に、代名詞、とくに人称代名詞を最大限に使わないようにするべきです。「彼」「彼女」「あなた」「わたし」などの代名詞は大部分、欧米の文章を翻訳 する際に外国語化の方法のひとつとして取り入れたものであり、まったく使わなくても日本語の文章は書けます。代名詞をなるべく使わないようにすると決めて おけば、機械的な翻訳は難しくなり、原文の意味を考えるきっかけになります。

 第2に、学習用の英和辞典に太文字で書かれているような常識的な訳語はなるべく使わないようにするべきです。単語や連語をみて反射的に頭に浮かぶ訳語は 正しい場合ももちろんありますが、意味を考えることなく、訳語だけを覚えている場合も少なくないはずです。訳語ではなく意味を考えてみる。その後に意味に 相応しい訳語を考えるようにするのが大切です。たとえば、butは「しかし」とは限りません。逆接とは限らず、順接の場合もあるのです。このような可能性 をつねに考えてみるべきです。

 第3に、カタカナ語はなるべく使わないようにするべきです。簡単な例をあげれば、driveと「ドライブ」には意味の範囲に違いがあります。「ドライ ブ」は目的がとくになく、運転そのものを楽しむ場合に使いますが、driveはたとえば通勤のための場合にも使います。一般的にいって、カタカナ語の意味 範囲はかなり狭く、原語の意味範囲のうちごく一部の特殊な部分だけが重なっているにすぎません。この点を意識するだけでも、カタカナ語をかなり減らせるは ずです。

 第4に、各種の符号をなるべく使わないようにするべきです。句読点や引用符は使わないわけにいきませんが、疑問符、感嘆符、ダッシュなどは翻訳以外の文 章ならほとんど使わないのが普通です。原文に疑問符やダッシュがあるからといって、訳文に疑問符やダッシュが必要だとはいえません。符号を減らすと、機械 的には訳せなくなり、文章を工夫しなければならなくなります。

 第5に、ヤード・ポンド法が使われている場合、特別な理由がないかぎりメートル法で表記すべきです。意味を考えるきっかけになり、思わぬ間違いを減らす こともできるでしょう。

 第6に、英字や洋数字は可能なかぎり避けるべきです。翻訳論では前述のように、domesticationとforeignizationを原語のまま 使っています。それだけでなく、翻訳論をtranslation studiesと表記し、人名もLawrence Venutiなどのように表記する人が多いようです。これは言葉に、日本語に、翻訳にいかに鈍感かを示すものだと思います。訳語を考える手間すら省いてい るのですから、まともな文章になるはずがないといえます。翻訳にあたって英字を使えるのは略語だけと考えておくといいでしょう。

 第7に、構文の訳し方として常識になっている方法をできるかぎり避けるべきです。たとえば、原文の主語を「〜は」「〜が」と訳さない方法を考えてみるべ きです。関係詞の制限用法を前から訳す方法を考えてみるべきです。こうした方法をいつも考えていると、意味を考えない機械的な訳を避けられるはずです。

 第8に、これが決定的な点ですが、訳そうとするのを止めて、文章を書く姿勢をとるべきです。訳そうとすれば機械的になり、意味を考えなくなりかねませ ん。書く姿勢をとれば、何を読者に伝えるかを考えざるをえなくなります。翻訳は訳すのでは書く、これがコツです。

 翻訳にあたってはこのように、たくさんの障害を設けておくことが大切だと思います。障害を設けて、楽な道に入り込まないようにしておくべきなのです。楽 な道へのを無理やりにでも避けたとき、原文の表面の裏に、豊かな意味の世界が開けていることを意識できるようになります。原文をまったく違った観点から眺 められるようになることもあるでしょう。その結果できる訳文は、意味を考えない機械的な訳文と、ほんのわずかに違っているだけかもしれません。ですが、ほ んのわずかの違いで文章が活き活きしたものになる場合もあるのです。もっともこれは第一歩にすぎません。名訳への道にはまだまだ先があります。

2005年12月号