翻訳についての断章
山岡洋一

お鼻が高いのね

 
 職業柄、翻訳について論じた本があれば、たいていはほんの数ページ読んだだけで積んどくになることは分かっているのだが、それでもまずは買ってみる。最 近では『翻訳家の仕事』(岩波新書)を買った。「まえがき」によれば、岩波書店のPR誌『図書』の連載を本にしたもので、「現在考えうる最良の翻訳家のう ち37名」のエッセーをまとめたものだという。

 この本を眺めていくと、翻訳というものについてのある種の見方を示しているようで、なかなか面白い。何よりも目につくのは、「現在考えうる最良の翻訳家 のうち37名」の選び方だ。第1に、37名の大部分は文字通りの意味での「翻訳家」ではない。つまり、翻訳を職業にはしていない。有名大学教授か英文学 者、仏文学者などなのだ。第2に、全員が文学の分野の人だ。つまり、哲学、思想、経済経営、科学技術などの分野の翻訳にたずさわっている人は入っていな い。そして第3に、ほぼ全員が文学の分野の人だという点には、もうひとつの意味がある。フィクションのなかでも文学と呼ばれる特殊な分野の人なのだ。

 もちろん、この人選が示しているのは、翻訳についての「ある種」の見方、単刀直入にいうなら権威主義の見方だ。だが、こういう見方を疑ってもみない人が 少なくないのも事実だ。翻訳のなかではフィクションの翻訳がいちばん格が高く、フィクションの翻訳のなかでは純文学の翻訳がいちばん格が高いと思い込んで いる。そして、「現在考えうる最良の翻訳家」は大部分が大学教授などの学者か研究者だと思っている。

 まともに批判するのも馬鹿げているといえるような考え方だが、いくつかの点を指摘しておこう。第1に、肩書についていうなら、たしかに以前は、「翻訳 家」という肩書の人、つまり翻訳以外に収入の道がない人が活躍できる場は、出版翻訳ではごく限られていた。SFやミステリーなどの大衆小説ぐらいだったと いってもいい。私事になるが、出版翻訳をはじめた20年ほど前には、経済、経営などの分野の翻訳書はほとんど、大学教授か評論家の名前でだされていた。翻 訳の質があまりに低い場合が多いので、これなら負けるはずがないと思ったのだが、仕事をもらうのは簡単ではなかった。権威ある人の翻訳でなければ読者に受 け入れられないという理由で、肩書のない無名の翻訳者を起用したがらない編集者がほとんどだったからだ。現在では翻訳出版業界は様変わりしている。翻訳書 の大部分は、「翻訳家」の肩書しかない人が訳すようになっている。例外は専門書と純文学だけといってもいい。

 第2に、すべてのものが金に換算されるいまの世の中で、収入が仕事の価値にほぼ見合っているとするなら(実際には世の中、それほど公正ではないのだ が)、収入を比較するのはそう不当でもないだろう。さまざまな翻訳の仕事のなかで、一般に収入が比較的多いのは産業翻訳、つぎが一般読者向けの出版翻訳で あり、純文学は通常なら収入がごく少ない(だから翻訳を職業にする人はあまり取り組んでいない)。そして、乏しい経験に基づいていうなら、ごく稀にみつか る名訳もたいていは産業翻訳か一般読者向けの出版翻訳の分野のものであって、純文学ではない。このうち産業翻訳は一般には入手できないものが大部分なの で、名訳として推奨できるのはほとんど例外なく一般読者向けの出版翻訳、とくにエンターテインメント小説の分野の作品である。

 第3にこれは余分なことだが、いまの日本で何が不足しているといって、論理的な思考ほど不足しているものは少ないのではないかと思える。人生や社会や経 済や経営や政治などでぶつかる問題を冷静に論理的に考えていくことができない。なぜそうなっているのかを考えていくと、論理的な文章の翻訳の質の低さとい う問題に行き当たらざるを得ない。いまの日本で、論理的な文章の規範になっているのが、翻訳の文体、それも一対一対応で訳していく翻訳調の文体だからだ。 翻訳調の文章を読み、それにしたがって考えていては、論理的な思考ができるはずがない。だから、「現在考えうる最良の翻訳家」をあげるのであれば、論理的 な分野で翻訳調からの脱却をはかっている人を除外するのは片手落ちだろう。

 もちろん、権威主義と翻訳調の最後の牙城だともいうべき出版社に以上のような点を考えるよう求めるのは、政治屋に品格を求めるようなものなのかもしれな い。それでもこの本を取り上げたのは、いくつかの文章が目についたからだ。引用しておこう。

 外国文学の翻訳者たちの体験談にはいくつかの共通点がある。テキストに耳を澄ませると自分にしか聞こえない声が聞こえてくるのでそれを日本語で表現した いという欲求に駆られること、テキストを読み込むときは読者だが訳文を作る段になると限り無く創作者に近づく気がすることを、誰もが挙げる。ぼくの場合も 同じだ。(同書127ページ)

 こういう文章をいくつも読んでいると、眉に唾をつけたくなる。芸人は笑ってはいけないという言葉がある。お客さまに笑っていただくのが芸人なのだからと いうのだ。同じことがたぶん、翻訳者にもいえる。翻訳者は陶酔してはいけない。読者が陶酔して読める文章を書くのが役割なのだから。その点を自覚していな いと、カラオケ・バーのようになる。陶酔して歌っているのを聞くと、たいていはせっかくの酔いが醒めてしまう。歌っているのはたいてい名曲なのだから、歌 声が小さければ、感激できることもあるのだが。

 もうひとつ、「自分にしか聞こえない声」というのはいかにも危うい考え方だ。ほんとうに優れた作品であれば、その本を読んだときに聞こえる声はひとつで はない。読者によって違った声が聞こえるのが普通だし、ひとりの読者でも高音から重低音まで、何声部もの声を聞き取ることがある。そうした声を日本語で読 者に伝えるように努力するのは翻訳者なら当然のことである。だが、その声が、ほんとうに「自分にしか聞こえない声」だとしたら。思い込みにすぎないか、そ うでなければ独創性の高い読み方であるはずだ。思い込みの場合は論外だが、独創性が高いのであれば、翻訳という方法を使うべきではない。原著に頼らず、自 分で創作するか、評論を書くべきだ。翻訳という作業が社会的なものであることを忘れてはいけない。翻訳は原著の著作権が切れている場合を除けば、独占的な 翻訳権に基づいて行われる。したがって、翻訳者が間違えれば、その作品は日本語では読めなくなるのが普通だ。だから、翻訳者の責任は重い。「自分にしか聞 こえない声……を日本語で表現したい」と言うのは、そういう社会的な責任を自覚しないお気楽な意見ではないかと思えてならない。

 こういう文章もある。

 翻訳の話を文学にかぎってみると、それはとても特殊な世界のように思われているようだ。あたかも、ベテランの自動車整備工がエンジン音を聞くだけで車の どこにトラブルがあるかわかってしまうみたいに、翻訳の世界にだって、素人にはうかがいしれない奥義があったりするんじゃないか。そう、皆さん、思ってい らっしゃいませんか?(同書137ページ)

 これには思わず噴き出した。世の中はもっと辛辣だ。有名大学教授という肩書のある大先生にそんな無遠慮な口を利く人はいないだろうが、たいていは、翻訳 なんかやってないで自分で書いてはどうかというのが世間の人たちの本音だ。そして、書いてはどうかといわれても、自分ではほんとうに優れた作品を書けない と自覚しているのが翻訳者だ。その悔しさをバネに翻訳の質を高めていくのが翻訳者だ。はっきりいって、こんなに鼻高々ではまともな翻訳はできない。

 作家の値打ちは、少なくとも出版社の観点からは、何人の読者がついているのかで決まるようだ。新刊をだせば数十万部売れるという作家もいれば、数万部の 作家もいるし、数千部しか売れない作家もいる。有名な文学賞を受賞すれば読者の数が一気に増えるというから、みな、賞をとりたがる。数十万部の作家になれ ば、田園調布は作家に似合わないが、鎌倉に豪邸が建つ。

 翻訳者の場合はどうだろう。たぶん、ほんとうの意味で当代きっての名訳者でも(この本にはほとんど登場していないが)、翻訳者の名前で売れるのは数百部 なのではないだろうか。翻訳書が売れるとき、何よりも大きな要因になるのは原著者の名前と原著の力だ。だから翻訳者は鼻高々ではやっていけない。だが、翻 訳者の値打ちは何人の読者がついているかで決まるわけではない。まったく別の仕組みで社会的な価値が決まってくる。誇りは高いが鼻は高くないのが、翻訳者 の姿だと思う。

(2007年2月号)