翻訳からみえる世の中
山岡洋一
分か
りやすさという愚かさ
サッカーのいわゆる海外組についての記事を読んでいると、イタリア語かスペイン語か英語かでの指示がうまく伝わらないから使いにくいという
監督の談話がでていることがある。海外組のサッカーとは、外国語でのインプットを身体で表現することのようだ。だが、サッカーが外国語の仕事だとは誰も
思っていない。
翻訳は外国語でのインプットを母語で表現する仕事だから、海外組のサッカーと似ているともいえる。だが、翻訳の場合にはなぜか、「語学」とやらの仕事だ
ということになっている。冗談じゃない、日本語の仕事だといいたいのだが、なかなかそうは思ってもらえない。
夏休みには親戚と顔を合わせる機会が多くなる。そんな場で、英文学を学ぶ親戚の大学生に英語の学習方法を助言するはめになった。翻訳の仕事をしているの
だから、英語にくわしいはずと思われたのだ。
英文法がどうもよく分からないので、学び方を教えて欲しいという。そこで、まずは大学で何をどのように学んでいるのかを聞いた。英文法の授業で使ってい
る教科書、副読本などを教えてもらったが、どれも読んだことがない本ばかりだった。ある意味で当然だ。翻訳にあたって英文法の知識は不可欠だが、不可欠な
知識のうちごくごく一部にすぎない。大量にある英文法書のうち定評のある名著は読んでいるか、少なくとも持っているが、それ以外にまで目を通す余裕はな
い。そこで、まずは教科書、副読本がどういうものかを調べてから、学び方を考えることにした。
そんなわけで、英文法書を何点か読むはめになったのだが、正直なところ驚いた。何に驚いたかというと、大学の授業で教師が指定する教科書や副読本の程度
の低さにである。どれも、「分かりやすいと評判」というもので、大きな活字を使い、イラストや写真をたくさん使い、二色刷りにするか、太字や下線などをふ
んだんに使って、重要な部分がすぐに分かるようになっている。文章は少なく、あっという間に読めてしまう。
これでは英文法に不安をもつも当然だと思った。大学に入ったのに、「分かりやすい」と称する幼稚な本を読まされているのだから。そこで、何冊かの難しい文
法書をあげて、読んでみるように勧めることにした。理解できない部分もあるだろうが、いまのうちにこういう本を読んで、頭を鍛えておけと助言した。
ちなみに、偏差値とやらが何かの目安になるのであれば、親戚の学生が通っているのは、そう簡単に入れる大学ではない。少なくとも以前は、「分かりやす
い」入門書なぞには鼻も引っかけそうにない生意気な学生が集まっていた。いまではその大学で、英文科の学生に英文法を教えるときに、こんな本を使っている
のだろうか。
だが、少し世の中を見渡してみれば、驚く方がどうかしているといえるはずである。これはたまたまではない。おそらくはどの大学でも同じような状況があ
る。大学だけでなく、日本中に同じような状況がある。
学習意欲がないわけではない。その証拠に、親戚の学生も学習方法を質問している。大学の様子を聞くと、みな熱心で真面目だという。いまではダブル・ス
クールとやらが大はやりで、大学で学ぶだけでなく、国家試験の予備校や英会話学校、翻訳通訳の学校に通う学生も多いという(なんと、翻訳通訳だそうだ)。
学習意欲が高いことは、街を歩いていても分かる。学習塾や英会話学校をはじめ、各種の学校や教室がたくさんある。繁華街でも住宅街でも、駅のまわりのビ
ルにはたいてい塾や学校の看板がでている。教育産業は大繁盛しているのだ。明治維新以降の日本の近代化を支えてきたのも、戦後日本の躍進を支えてきたの
も、学習意欲の高さなのだから、日本もまだまだ捨てたものではないと思えてくる。
問題は教育の内容だ。親戚が通う大学だけでなく、たいていの学校で、「分かりやすくやさしい」教材を使わなければ受講者は読んでくれない状況にあると、
教師の側は思い込んでいるのだろう。だから、「分かりやすくやさしく」する競争が起こっている。「分かりやすくやさしく」すれば、顧客満足度が高まり、学
校の評価が高まると、考えられているのだろう。
そのための方法がいくつか確立している。ひとつは「顧客」の意見に耳をかたむける方法だ。授業の内容や教科書が「分かりやすくやさしい」かどうかを聞
く。難しいとか分かりにくいとかいわれた部分は改定するか削除する。教える内容を減らし、幼稚にしていき、「顧客」に媚を売るのである。
この方法を使っていたのが、親戚の学生が大学の教科書だといった文法書だ。この本が「分かりやすいと評判」とされている理由は簡単だ。一昔前ならたぶ
ん、高校受験用として使われた程度の内容しか書かれていない。内容が薄いのだ。文部科学省推奨の学校英文法を網羅し、一応体系だった構造らしきものを示す
構成になっている。おそらく古い文法書、それも大学受験用の文法解説書を下敷きにして、今風に二色刷りにし、イラストを入れ、内容をうんと薄めて「ゆとり
教育」に対応するようにしたのだろう。実際に執筆したのは、高校の先生ではないだろうか。
もうひとつはある意味で正反対の方法である。「顧客」の意見は聞かない。媚は売らない。その代わり、「分かりやすくやさしい」ワン・フレーズを繰り返
す。たとえば今回読んだ英文法の本のひとつがそうだった。自己顕示欲の塊のような教師が、思い込みなのか思いつきなのかは分からないが、単純なワン・フ
レーズを自信満々に繰り返していた。「ネイティブの感覚」という言葉だ。これがいかに馬鹿げているかは、日本語を例に考えてみればすぐに分かるはずだ。日
本語の「ネイティブ」でも、たとえば、「鰻が食べたい」と「鰻は食べたい」と「鰻を食べたい」の違いを日本語学習者に聞かれたら、たいていの人は答えられ
ない。感覚では分からない。だから文法が必要になり、論理的な思考が必要になる。こんな単純なことも分からないから、「ネイティブの感覚」などという恥ず
かしいワン・フレーズを連呼できるのだ。「顧客」の側も、いつも媚を売られ、意見を聞かれているし、自信なげな教師にばかり接しているから、自信満々の教
師に出会うと、簡単に騙される。
今回読んだ文法書のなかには、これと似ているが、少し性格が違うものもあった。高校の教師が生徒の疑問に答えるという設定の本で、規則を覚えろというの
ではなく理由を説明するという触れ込みだ。そして、1足す1が2になるのはなぜですかと質問されて、それは2引く1が1だからですと答えるような問答が続
いている。それでも読む人がいるのは、アメリカの最新の理論に基づいているというはったりをかませているからだろう。つまり、この場合、「アメリカの最新
の理論」がワン・フレーズになっているのだ。こういうはったりを読んで、目から鱗が落ちたという人もいるようなので、世の中は分からないものだ。
親戚の大学生の話を聞いていて、いまの若者は気の毒だと思った。媚を売る教師や著者、カリスマを気取る教師や著者、底の浅いはったりをかませる教師や著
者はいても、若いうちに頭を鍛えておけという教師はめったにいないようだし、頭をふりしぼることの苦しさと面白さを伝えてくれる教師はめったにいないよう
だ。どうせ、「分かりやすくやさしい」本しか読まないのだから、本物を教えることはない、偽物をつかませておけばいいと教師は思っているようなのだ。
それにしても、「分かりやすくやさしい」からといって、高校の教師が高校生向けに書いた本を大学の教科書や副読本に使うとは、どういう神経をしているの
だろう。「分かりやすくやさしい」ことがそんなに大切なのだろうか。
少し落ちついて考えてみれば、「分かりやすくやさしい」かどうか、「読みやすい」かどうかは、教科書なり本なりの価値を判断する基準として、それほど重
要ではないことがすぐに理解できるはずだ。たとえば、英米文学を学んでいて、英米の小説をもっとしっかりと読めるように、英文法を学びたいと考えていると
しよう。このとき、英文法書を判断する基準として何よりも重要なのは、「分かりやすくやさしい」かどうかであるはずがない。分かりやすかろうが分かりにく
かろうが、やさしかろうが難しかろうが、英文法を深く理解し、読解力を高めるという目的が達成できるかどうかが最重要である。そして、英文法というものが
単純なのであれば、英文法書も単純で分かりやすくなるはずであり、逆に英文法が複雑なら、英文法書もある程度まで難しくなるのは避けがたい。
単純なことをわざわざ難しく書くのは不誠実だが、複雑で理解が難しいことを分かりやすくやさしいかのように書くのもやはり、不誠実である。もっとも「分
かりやすさ」を売り物にする著者や「カリスマ」を自認する教師に誠実さを求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものなのかもしれない。誠実さで飯が食える
か、著者はどれだけ本が売れたかで判断されるのだと一喝されるかもしれないが。
いまの若者は知的な誠実さなど求めていないという意見もあろう。ダブル・スクールも純粋な学習意欲のあらわれではなく、国家資格などの実利に直結するこ
とに関心をもっているためにすぎないという。しかし、英語はかなりの程度、実利に直結するものだが、実利に直結しているからこそ、「分かりやすくやさし
い」かどうかよりも、実利が得られるかどうか、つまり英語をしっかり理解でき、使いこなせるようになるかどうかが重要なのではないだろうか。実利が得られ
る学習に関心をもつのは奇妙なことではない。奇妙なのは、強迫観念のように「分かりやすくやさしい」かどうかだけにこだわっていて、役に立つかどうかを無
視しているように思えることなのだ。
いまの世の中、みなそうなのだろうか。そう思って世の中をみていくと、当たり前の常識が常識として通用する世界もあることに気づく。典型的な例をあげれ
ば、スポーツの世界がそうだ。
一昔前には「体育会系」という言葉があった。根性と体力が売り物、頭は使わないというのが、少なくとも外部からみたときの「体育会系」の印象だ。上下関
係がきびしく、上級生や教師にビンタをくらうのは日常茶飯事という印象だ。だが、「体育会系」という言葉はいつか死語になり、スポーツの世界はいくつかの
点でかなり変化している。そして、昔と同じ健全さも維持している。
何よりも、スポーツは結果が重要な世界だ。実力本位の世界だ。そして、世界を相手に戦っている。このため、当たり前の常識が常識として通用するのだろ
う。
スポーツの世界では、「分かりやすくやさしい」ものを求めるような甘ったれた考え方は通用しない。かならず本物を求める。それもあらゆる面で本物を求め
る。そうでなければ勝てないからだ。一昔前の体育会系とは違って、根性と体力だけを売り物にしたりはしない。頭を使う。スポーツは科学であり、科学的、論
理的でなければ勝てないのだ。
だが、根性と体力を否定するわけではない。たとえば「身体を苛め抜く」という表現を使う。それでも、やみくもに苛めるのではなく、科学的なトレーニング
方法を使って苛め抜くのだ。筋力トレーニング、いわゆる筋トレが好例だ。兎飛びや腹筋運動、腕立て伏せなどの昔ながらの方法も使わないわけではないが、そ
れよりも、スポーツの種類とポジションに合わせて、必要な筋肉をうまく鍛える方法をとっている。高地トレーニングという方法もある。走るのはただでさえ苦
しいのに、海抜3000メートルの高地で走るのだという。高地では酸素が薄いので、もちろんはるかに苦しい。だが、苦しい訓練を行うからこそ、はるかに楽
に走れる大会で勝てるのだという。そして、誰よりも苦しい練習に耐えてきたから、試合に勝てるという自信が生まれる。
世界に通用する人材を育てるのだから、下に合わせようとはしない。力のある人材を見つけだし、徹底して鍛える。レギュラーも控えも平等に扱うなどといっ
た甘ったれた考え方は通用しない。そしてみなが上に合わせようと必死に努力する。たとえば160キロの速球を投げる投手がいれば、投手はみなそれを目指す
し、打者はみな160キロの速球を打てるように努力する。
英文法の話をスポーツにあてはめればどうなるかを考えみるといい。たとえば、前述の「ネイティブの感覚」をスポーツにあてはめるとどうなるか。少年野球
でも、おそらく「プロの感覚で打て」なぞとはいわない。はるかに論理的だ。論理的に教え、苦しい練習を反復し、身体に覚え込ませる。
200ページほどの「分かりやすくやさしい」本を読めば甲子園にでられるという話を高校球児にしてみるといい。せせら笑われるだけだろう。そんな甘い話
があるわけがないことをよく知っている。
苦しい練習はしない、難しい練習もしない、楽でやさしい練習だけにしようという監督がいればどうなるか。カリスマを気取ろうが、素敵なワン・フレーズを
思いつこうが、アメリカの最新理論をもちだそうが、結果はあきらかだ。身体を苛め抜いていない選手、技術を身体に覚え込ませていない選手が試合に勝てるは
ずがない。
逆に、スポーツで常識的な方法を英語教育で採用するとどうなるか。たとえばスポーツなら誰でも強調する反復練習を採用するとどうなるか。詰め込み教育は
いけないといわれる。そんなことをしても役に立たないし、若者が勉強嫌いになるだけだといわれる。黙々とシュート練習を繰り返しているサッカー少年かサッ
カー少女に、そんなことをしても役に立たないし、サッカーが嫌いになるだけだと説教してみればいい。
力のある人材を鍛える方法をとるとどうなるか。クラスのなかでいちばん力がある人に合わせて授業をする。「分かりやすくやさしい」本ではなく、しっかり
した名著、おそらくはかなり難しい本を教科書に使う。こうするとおそらく、猛烈な抵抗にあう。たぶん、エリート主義だといわれて非難される。だが、スポー
ツの世界では、世界のトップになれるエリートを育てるというのは、ごく当たり前の考え方だ。そう公言したとき、非難を受けるどころか、喝采を浴びるはず
だ。
スポーツは実力の世界なので、誰でもスターになれるわけではない。必死に練習してもベンチにすら入れない人や、早々に負けて憧れの本大会にでられない人
の方がはるかに多い。世の中は不公平にできており、努力しても報われるとはかぎらない。それでも、若いときに身体を鍛え、根性を鍛えておけば、かならず役
に立つといわれている。いまではさらに、論理的で科学的な思考をスポーツで鍛えておけばかならず役立つというべきかもしれない。頭は空っぽといわれていた
時代の体育会すら、頭で勝負する世界で活躍する人材を輩出しているのだから。
生まれつきスポーツ無能で、体育会とは無縁だった立場からいうなら、スポーツよりも読書が好きというタイプの若者には、学生の間に頭を鍛えられるような本
を読んでほしい、「分かりやすい」本ではなく本物を読んでほしいと思うが、話はそう簡単ではないかもしれない。
なぜ簡単ではないかというと、ひとつには、「分かりやすくやさしい」本、カリスマ教師、ワン・フレーズ、はったりなどが馬鹿げていることは、いってみれ
ば常識だからだ。本物だとは誰も考えていない。教師がそういう本を勧めるのは、本物だからではない。本物ではないからだ。いまの学生はそういう本しか読ん
でくれないと思い込んでいるからだ。そういう本が売れているのは、本物だからではない。本物ではないからだ。気楽に読め、一時の楽しみになり、気楽に話せ
る話題になるからだ。スポーツでいうなら、たとえば草野球にあたる部分だ。草野球で活躍すればプロになれると思っている人はまさかいるまい。
簡単ではない理由にはさらに、草野球にあたる部分は目につくのに、プロ野球や大リーグにあたる部分が近づけなくなっているという事情もある。
アメリカや韓国など世界各国の若者はジャック・デリダらの難しい本を読んでいるのに、日本の若者はこういう本を読まなくなったと嘆いている人がいた。た
しかにいまの日本ほど、知性を粗末に扱う国はそうないかもしれない。だが、なぜデリダなのか。その人は、デリダの本を読んだことがあるのだろうかと疑問に
思った。もちろん例外もあるのだが、ほとんどの場合、デリダの日本語訳は読めたものではない。『翻訳通信』2005年5月号の「翻訳論の出発点」で、ソ
シュールの『一般言語学講義』を例に、フランス語の原著の英訳と日本語訳をくらべると、英訳なら読めるのに、日本語訳は読めないものになっていることを紹
介した。デリダの著作の日本語訳はほとんどの場合、さらに極端になっている。日本語として読んだとき、意味をなしていないとすら思える。
デリダだけではない。本物と思える本の訳書のほとんどは、いわゆる学者訳であり、翻訳調で訳されていて読者を寄せつけない。学者や研究者の翻訳能力が低
いからだとはかぎらない。学者や研究者のなかには翻訳調だけが格調の高い生きた文章だと考えている人がいる。翻訳調以外では論理を伝える文章は書けないと
思い込んでいる人がいる。だから翻訳調を使うのは、翻訳のときだけではない。論文を書くときにも翻訳調の文体で書く。普通の日本語とはまったくといっても
いいほど違う文章を書く。
一般の日本語と、学者が使う翻訳調とは、さまざまな意味で接点をもてなくなっている。一昔前、二昔前にはそうではなかった。翻訳調はもともと、欧米の進
んだ知識や考え方を学ぶために作られたものだから、翻訳調で訳された翻訳や、翻訳調で書かれた論文には、欧米のすぐれた知識や考え方を学ぶという実利に直
結する性格があった。だから、学者でなくても、学者になりたい学生でなくても、読む意味があった。純粋な知的好奇心からだけではなく、実利の追求のために
も読む意味があった。いまではそういう意味での実利が薄れているので、翻訳調の翻訳や論文を読む意味があまりなくなっている。
若者にとって(中高年にとってもそうだが)、学習意欲や知的好奇心を刺激してくれる本物の本、頭脳を苛め抜けるような本の魅力が落ちているのである。ど
うすれば魅力が回復するのか、若者を教える立場にある教師、本を提供する立場にある出版社の編集者や著者、翻訳者が真剣に考えるべきなのだと思う。そうし
なければ、スポーツで身体を鍛える機会が得られなかった若者が気の毒なように、本物の知に接して頭を鍛える機会が得られない若者が気の毒だ。
人間関係の潤滑財として、天気の話や血液型の話、芸能人の噂などは役に立つ。同じように「分かりやすく読みやすい本」も役に立つ。だが、それだけではい
かにもさみしい。本物に触れる機会もほしい。本物を普通に読める翻訳で提供することができれば、何かの役に立つのではないだろうか。
(2005年9月号)