翻訳とは何か

翻訳のパラダイム -- 「学術的」な翻訳の奇妙な現実

山岡 洋一
奇妙な体験
 インターネットのサイトに、クーンの『科学革命の構造』の翻訳に対する批判が紹介されていた(1)。9箇所にわたって原文と訳文、批判者の訳があげられていた。それを読んでいったとき、何かが変だと感じた。何が変だと感じたのか、具体例をあげて説明しよう。
(1)  URL  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/Articles/kuhn-excerpts.html
原文 (p.148) (2)
  In the first place, the proponents of competing paradigms will often disagree about their list of problems that any candidates for paradigm must resolve.  Their standards or their definitions of science are not the same.

内井訳 (p.227) (3)
まず第一に, 競い合うパラダイムの信奉者たちは, どのようなパラダイム候補であれ, 解決しなければならない問題のリストに関してしばしば一致しないであろう。彼らが持つ科学の標準あるいは科学の定義は同じではない。

中山訳 (p.167) (4)
 まずはじめに、対立するパラダイムの主張者たちは、パラダイムの候補が解決しなければならない問題のリストについて、一致を見ないことが多い。科学についての彼らの規準や定義は同一ではない。

(2)  Thomas S. Kuhn,  The Structure of Scientific Revolutions, Third Edition, The University of Chicago Press, 1996
(3)  内井惣七著『科学哲学入門』 (世界思想社、1995年)
(4)  トーマス・クーン著、中山茂訳『科学革命の構造』 (みすず書房、1971年)
 最初の印象は、たしかにひどい訳だ、これでは意味が伝わらないではないかというものだった。改訳の方なら、まあ普通に読める訳だと感じた。だが、読み進んでいくうちに、目眩がしてきた。

 なぜ目眩がしてきたのか。理由は簡単だ。とんでもない勘違いをしていたのに気づいたのだ。「ひどい訳だ」と思ったのは上記の2つの訳のうちはじめの方、内井による改訳であり、「普通に読める訳だ」と思った方が、批判された中山訳だったのだ。その後、何人かの翻訳者に読んでもらったが、やはり同じ印象のようだ。中山訳はそれほど悪くないのに、それを批判して改定した内井訳はひどくて読めないというのだ。

 内井は中山訳を「学術的な使用に堪えないのでお勧めできない」と批判している。感情的な物言いを嫌うはずの学者としてはおそらく、最大級の悪罵だろう。ここまで罵倒された翻訳がじつは、それほど悪いものだとは思えず、逆に、罵倒した人が正しいと考えた訳文がそれこそ「使用に堪えない」と思えるのだから、目眩がするのも当然ではないだろうか。なぜ、このようなことが起こるのか、そこからどのような教訓を引き出せるのかを考えてみたい。

パラダイムと『科学革命の構造』
 本題に入る前に、表題に使い、上の引用にもでてきた「パラダイム」という言葉について、そしてクーンの『科学革命の構造』について若干触れておこう。

 「パラダイム」という言葉は仕事の場などで頻繁に使われている。通常、「ものの見方や考え方の基本にある世界観」を意味している。ものの本によれば、この言葉はギリシャ哲学で使われ、日本では「範例」の訳語があてられてきたという。特殊な専門用語だったこの語が日常語といえるほどによく使われるようになったきっかけははっきりしている。トーマス・クーンが『科学革命の構造』 (初版1962年) でキイ・ワードとして使ったからなのだ。

 この本は少なくとも一般読者の立場からいうなら、科学史の分野でとくに有名である。日本でも1971年に訳書が出版されて、大きな話題になった。そして、いまでも読まれつづけている。いうならば現代の古典である。だからこそ、翻訳を批判する人がでてくるし、翻訳批判が話題にもなる。

 ここでは、『科学革命の構造』の意義について論じようとは思わない。論じたいのは、あくまでも翻訳という観点から、中山訳とそれに対する批判がどう見えるかだけである。

 だが、本論に入る前に、クーンが「パラダイム」という言葉をどう使ったのかに少しだけ触れておきたい。この言葉に対しては、科学哲学の研究者から批判が寄せられたようだ。批判とそれに対するクーンの見方については、訳書の「補章」でも論じられているし、訳者あとがきでも触れられている。批判の要点はこの概念がさまざまな意味で使われていて、厳密性に欠けるということのようだ。

 たしかに、『科学革命の構造』を読むと、「パラダイム」という言葉がいくつもの違った意味で使われていることがわかる。だが、意外に注目されていない点がある。それは、「まえがき」 (原著第3版Xページ、訳書Vページ) に書かれている定義である。中山訳ではこうなっている。
 

……この「パラダイム」とは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの、と私はしている。


  「パラダイム」を「ものの見方や考え方の基本にある世界観」とだけ考えていると、この言葉を使う意味はあまりないともいえる。「世界観」といえばいいのだから。だが、「問い方や答え方のモデル」であれば、はるかに具体的であり、「ものの見方や考え方」の基本に何があるのかを考える際に大きなヒントになりうる。この点は後に、翻訳のパラダイムを考える際に触れていく。

内井惣七の批判
 目眩がしたのは、サイトの紹介を読んだときだが、以下ではもとの資料に戻って中山訳とそれに対する内井の批判についてみていく。

 内井惣七は、『科学哲学入門』 (世界思想社、1995年)の第7章「科学理論の変遷」でクーンの『科学革命の構造』を手厳しく批判している。同時に、中山訳を「学術的な使用に堪えないのでお勧めできない」と切り捨て、クーンからの引用箇所のすべてについて、中山訳を参照しながら訳しなおしている。

 内井は科学理論に「非合理主義」と「主観性」を持ち込んだとして、クーンを批判する。とくに「通約不可能性」の主張で、「科学理論の選択に関して非合理主義を唱道した, と多くの人々に受け取られた」としている (同227ページ) 。この点に関連する引用が3つあり、その1つが冒頭に紹介したものだ。あと2つを引用しておこう。今度は、翻訳批判の際に通常使われる順番通りに、中山訳、内井の改訳の順に紹介する。
 

中山訳
 新しいパラダイムの下では、古い用語、概念、実験はお互いに新しい関係を持つことになる。その結果、適切な言葉ではないかもしれないが、二つの対立する学派間の誤解と呼ぶものに、不可避的に至るのである。 (p.168)

内井訳 -- 中山訳を改訳したもの
……新しいパラダイムにおいて, 古い用語, 概念, そして実験は互いに新しい関係のもとに置かれる。その結果, 二つの競い合う学派の間でわれわれは, まったく正しい言い方というわけではないが, 誤解と呼ばなければならない事態を避けられない。 (p.227)

原文
  Within the new paradigm, old terms, concepts, and experiments fall into new relationships one with the other.  The inevitable result is what we must call, though the term is not quite right, a misunderstanding between the two competing schools. (p.149)

中山訳
 このような例は、対立するパラダイムを同一の規準で測れないことのいま一つの最も重要な面を指摘している。私はどうもこれ以上うまく説明できないが、ある意味では対立するパラダイムの主張者は、異なった世界で仕事をしているのだ。 (p.169)

内井訳 -- 中山訳を改訳したもの
これらの例は, 競い合うパラダイム間の通約不可能性の第三の, そして最も基本的な側面を指し示している。わたしがそれ以上説明できない一つの意味において, 競い合うパラダイムの信奉者たちは互いに異なった世界で仕事をしているのである。 (p.227)

原文
  These examples point to the third and most fundamental aspect of the incommensurability of competing paradigms.  In a sense that I am unable to explicate further,  the proponents of competing paradigms practice their trades in different worlds. (p.150)
 

 わずかこれだけの文章をみても、内井訳の特徴がかなりよくわかる。第1に、内井訳は原文から直接に訳したものではなく、あきらかに中山訳を参考にしたものだ。原文と中山訳を読んで、「学術的な使用に堪えない」と判断した部分だけを変更している。

 第2に、ではどういう部分をどう改訳しているかというと、いわゆる直訳調ではない部分を、直訳調に変更している。これはいくつもの点で確認できる。

(1) 一致を見ないことが多い→しばしば一致しないであろう
 原文をみると、will often disagreeである。内井の改訳はいってみれば、教科書どおりのものだ。

(2) ……→われわれは
 原文にはweが使われている。中山訳にはこの原語に対応する訳語がなく、内井は「われわれは」を補っている。

(3) 同一の規準で測れないこと→通約不可能性
 原文はincommensurabilityである。通常の英和辞典にはでていないが、哲学では「通約不可能性」または「共約不可能性」と訳されることになっているようだ。中山はこの点を十分に認識しながら、「同一の規準で測れないこと」と訳して意味を伝えようとしている。

(4) いま一つの最も重要な面→第三の, そして最も基本的な側面
 原文はthe third and most fundamental aspectである。ここでも内井は、英和辞典のほとんどで先頭に書いてある訳語 (学習辞典なら太字になっている訳語) をそのまま使っている。

(5) 私はどうもこれ以上うまく説明できないが→わたしがそれ以上説明できない一つの意味において
 原文はIn a sense that I am unable to explicate furtherである。ある意味で、内井の改訳の特徴をもっともよく示しているといえる。英文和訳の常識に従うなら、内井の改訳は満点である。不定冠詞まで訳してあるのだから、減点される部分はひとつもない。

 こうした改訳の結果、どうなっただろうか。英文和訳の試験なら良い点がとれるが、「意味を伝えているか」という基準で考えると、質が低いといわざるをえない翻訳になった。目眩がする結果になったわけだ。

パラダイム論と翻訳批判
 内井はなぜ、中山訳を「学術的な使用に堪えないのでお勧めできない」と批判したのか。その理由は一切説明していない。こう切り捨てただけである。たとえば、「最も重要な面」を「最も基本的な側面」に変更すべきだとする理由は何も書かれていない。改訳から判断するなら、おそらく英文和訳の原則を守れといいたかったのだと思える。この見方が正しいとするなら、内井はクーンのいう対立するパラダイムの意味を考えてみようともしなかったのではないかと思える。

 まず、中山と内井の翻訳の違いは、クーンのいうパラダイムの概念できれいに説明できる。2人はまさに「異なった世界で仕事をしている」のだといえる。

 つぎに、内井はクーンのパラダイム論のなかでもとくに「競い合うパラダイム間の通約不可能性」 (中山訳では「対立するパラダイムを同一の規準で測れないこと」) の主張を強く批判しているようだ。だが、中山の翻訳に対する内井の反応はまさに、「通約不可能性」を示す実例になっているように思える。サイトに紹介されている内井の改訳を読んで目眩を感じたのは、「これでは意味が伝わらないではないか」と思ったからだ。いいかえれば、翻訳の質が低すぎると思ったからだ。ところが内井は逆に、中山訳の質が低すぎると感じた。まさに翻訳の質を判断する際の規準が違い、「異なった世界で仕事をしている」のだといえる。

 もちろん、ここで対象になっているのは、科学史でも科学哲学でもなく、翻訳である。しかし、科学史や科学哲学の理論を考える際にも、その理論がたったいま、自分が考えている点、書こうとしている点に適用できるかどうかを考えてみるのは当然ではないだろうか。まして、他人の仕事を根拠を示さずに切り捨てようとするときであれば。内井の批判を読んで不思議に思うのはこの点である。

 前述のように、クーンは「パラダイム」を「問い方や答え方のモデル」と定義している。このように考えると、この言葉は翻訳についての分析にも使える。「パラダイム」が「ものの見方や考え方の基本にある世界観」とだけ考えていると、ある翻訳のパラダイムがどのようなものかを考えるのは、たいていの場合、時間の無駄になる。ためしに、内井の改訳の基本にある世界観がどういうものかを考えてみるといい。わかりっこないと答えたくなるのではないだろうか。だが、「訳し方のモデル、模範になるもの」が何かを考えると、はるかに答えを得やすくなる。回答がすぐにも思い浮かぶかもしれない。では、内井にとって「訳し方のモデル、模範になるもの」は何なのか。

 おそらく、あらたまってこう質問すると、内井は天野貞祐訳のカント『純粋理性批判』や金子武蔵訳のヘーゲル『精神の現象学』をあげるかもしれない。金子武蔵の『精神の現象学』については、『翻訳とは何か?職業としての翻訳』 (日外アソシエーツ、2001年) でくわしく論じたので、ここでもう一度論じようとは思わない。金子訳の特徴は原語と訳語の一対一対応、英文和訳調の訳文にある。「原書」を読むときの参考として使うことが目的になっており、読者が訳書だけを読むとは想定されていない。

 中山茂はどうだろう。中山はおそらく天野や金子の訳を嫌っている。原著で読んだほうがはるかに分かりやすいと思ったはずだ。だから、原語と訳語の一対一対応、英文和訳調の訳文を拒否している。訳書が刊行された1971年は天野訳や金子訳がもてはやされていた時期なので、この2つの原則を拒否するのはおそらく、勇気のいることだったに違いない。だから、完全には拒否できていない。たとえば『翻訳とは何か?職業としての学問』で金子訳と対比した長谷川宏訳の『精神現象学』と比較すると、拒否の姿勢が不徹底だと思える。それでも、英文和訳調ではなく、原著の内容を「日本語で伝える」姿勢ははっきりしている。

 こう考えると、中山訳に内井が苛立った理由がわかりやすくなる。原語と訳語の一対一対応、英文和訳調という原則を守っていないので、「原書」を読むときの参考にならないといっているのだ。

 以上の見方は正しいのだろうか。方向としてはそう間違っていないと思えるが、念のために内井の『科学哲学入門』のなかから、翻訳についての姿勢を示す部分を引用しておこう。
 

……ラプラスの確率の定義は次のように行われる (拙訳。わかりにくい表現だが, 歴史的な文献の文章を勝手に意訳するわけにはいかない。意味は後で解説する)。 (前掲書44ページ)

……彼女はこれらの最終的に三つの主要グループに分類した。(1)形而上学的パラダイム, (2)社会学的パラダイム, そして(3)構成物 (artefact, construct) パラダイムである (最後の命名はあまり感心しないが、彼女の言葉を勝手に変えるわけにはいかないので, そのまま訳しておく)。 (前掲書220〜221ページ)


 下線部分で「勝手に」という言葉が使われていることに注目したい (下線は引用者による) 。内井は中山訳を読んで、「勝手に意訳」し、「勝手に変え」たと感じたのだろう。内井のいいたいことはわかる。問題は、内井の改訳なら原文を「勝手に意訳」し「勝手に変え」るものにならないのかである。内井の改訳のなかから、いくつかの例をみていこう。

内井の改訳の問題点
 原文のthe third and most fundamental aspectを、中山は「いま一つの最も重要な面」と訳し、内井はこれを「第三の, そして最も基本的な側面」と改訳した。内井はfundamentalの訳語を「重要な」から「基本的な」に変えたわけだが、「重要な」という訳語が英和辞典のfundamentalの項にないわけではない。それどころか、手元にある英和辞典では大辞典はもちろん、ポケット辞典すら、fundamentalの訳語として「重要な」をあげている。英英辞典をみても、結果はおなじだ。どの英英辞典でも、fundamentalの語義として、of central importanceなどをあげている。

 手元にある英和辞典などをすべて調べていったが、「重要な」という訳語がないものは結局、ひとつしかなかった。森一郎著『試験にでる英単語』 (青春出版社) だ。かの有名な「でる単」である。ここであげられているのは「根本的な」だけである。森は「一つの単語に一つの訳語」をめざすと宣言している。たとえば、fundamental = 「根本的な」「と覚えておけばいいのであって、……他の意味は無視してよい, いや, 無視すべきであるということになる」 (同書新版27ページ) 。「基本的な」は「根本的な」の類語だから、京都大学文学部の内井教授は森一郎の教えに忠実に従ったことになる。

 要するに、英語の常識からいうなら、森が正しいと断言するのでないかぎり、the most fundamental aspectを「最も重要な面」と訳しても、それだけでは原文を「勝手に変えた」ことにならない。また、「最も重要な面」を「最も基本的な側面」に変更した結果、原文を「勝手に変えた」ことになる可能性もある。

 原文のwill often disagreeを中山は「一致を見ないことが多い」と訳し、内井は「しばしば一致しないであろう」と改訳した。内井の改訳は英文和訳なら満点がとれる回答だ。だが、翻訳という観点からは問題が2つある。第1に、oftenを「しばしば」と訳すように教えられているが、実際に名訳で使われている訳語は何十もある (くわしくは、ちくま新書の『英単語のあぶない常識』で論じた) 。

 第2のwillは、問題の根がもっと深い。『どうして英語が使えない?』 (ちくま学芸文庫) の著者、酒井邦秀氏に教えられた点をまとめるとこうなる。

(1) 過去形が過去についての「推量・想像」を示さず、現在形が現在についての「推量・想像」を示さないように、未来形のwillは本来、未来の「推量・想像」を示すものではなく、したがって「だろう」と訳せるものではない。

(2) だが、学校英語では「だろう」と訳すよう指導すべきだとされている。これはもともと、生徒の理解度を判断しやすくするための便宜的な方法であった。つまり、中山のように訳すことにほんとうは何の問題もないのだが、これを正解とした場合、willの意味がわからなかったり、willを見落としたりした生徒も、やはり正解になる。それでは困るので (教師が混乱するので) 「だろう」と訳すよう指導することになっている。

 未来形のwillと推量をあらわす「だろう」の違いはたぶん、英語学者の間では十分に意識されている。たいていの学習辞書は訳語に「だろう、でしょう」しかあげていなくても、「I will be 30 next year. 来年30歳になります」といった例文をあげている。学習辞書では常識的な訳語の問題を例文の形でさりげなく指摘することがあり、これもその一例なのだろう。

 学校英語のwillの取り扱い方で問題なのは、便宜的なものにすぎなかったはずの「だろう」が唯一絶対の正しい答えであるかのように考えられるようになった点である。もちろん、英語のwillが「推量・想像」に近い意味で使われる場合もまれにあるし、日本語で「推量・想像」として表現するものを英語でwillを使って表現する場合もある。だから、英語のwillを「だろう」と訳していい場合もある。だが、そうとはかぎらないのだ。したがって、「一致を見ないことが多い」を「しばしば一致しないであろう」と改訳すると、たしかに英文和訳では満点がもらえるが、「原文を勝手に変える」結果になる可能性もかなりある。

 こうしたその可能性を少し考えてみるだけでも、内井による中山訳の批判は、《相当ズサン》で、《詰めが甘い》ものだと思える。もっとも内井のような科学哲学家に翻訳についての《分析を求めるのは酷かもしれない》 (こう書くと、何という汚い言葉、権威ある学者を小馬鹿にした言葉を使うのかと思われるかもしれないが、これは内井がクーンを批判した言葉をそのまま使ったものだ) 。

 誤解を招かないように付け加えるなら、fundamentalの例で、中山訳がたいていの辞書に書いてある訳語を使っているから正しいと主張しているわけではない。英和辞典にある訳語、それも先頭に書かれている訳語を使わなければ原文を「勝手に意訳」し「勝手に変えた」とする考え方がおかしいと言いたいのだ。言葉の意味は文脈に依存する。たとえばfundamentalであれば、辞書にすらいくつもの語義や訳語を並べてあるほどなのだから、実際の用例でもつ意味ははるかに多様なはずである。多様な意味で使われる原語に訳語を一対一対応させるのは、そもそも無理がある。まして、will often disagreeの例が示すように、英文和訳の常識に従っていないから原文を「勝手に意訳」し「勝手に変えた」とするのは、噴飯ものである。

誤訳という問題
 内井が中山訳を批判 (というより罵倒) したのが正当だといえる理由があるとするなら、そのひとつは、中山訳に誤訳が多いと判断された場合であろう。そして、内井の罵倒があったからだろうが、中山の誤訳がいくつか指摘され、前述のサイトにも紹介されている。内井が問題視したのは、誤訳の多さなのだろうか。

 結論からいうなら、そうだとは思えない。中山訳にとくに誤訳が多いとは思えないし、誤訳がないわけではないが、「学術的な使用に堪えないのでお勧めできない」とされるほどではないと思えるのだ。

 なぜそういえるのか。たとえばこう考えてみるとわかる。内井惣七著の『科学哲学入門』に誤りはないのだろうか。そういう趣味がある人がいれば、たぶん、何十箇所かの間違いをすぐに発見するだろう (上に引用した部分にすら、内井の間違いだとしか思えない部分がある) 。当たり前ではないか。人間が書いているのだから、間違いがないわけがない。間違いがあれば、訂正すればいい。それだけの話だ。だれも大騒ぎしない。なぜ、翻訳の間違いだけ大騒ぎするのか。どこかが歪んでいるとしか思えない。

 誤解がないように付け加えるなら、誤訳があってもいいといいたいわけではない。訳者の立場からは、誤訳を出来るかぎり減らすために努力するのが当たり前である。そのために訳書を原稿の段階で何人かに読んでもらうことも少なくない。刊行後に誤訳の指摘を受ければ、喜んで訂正する。これは翻訳でなくても、どんな仕事でも当然のことである。誤りがある可能性はつねにあるので、意見を聞いて訂正する。翻訳だけは特別だとする理由があるのだろうか。

 内井が中山訳に誤訳があると思ったのであれば、訳者か出版社に私信を送って指摘するべきだ。増刷のときに間違いを修正するよう求める。中山は、指摘が正しいと思えば、たぶん内井に感謝して修正するだろう。それでお終い。非難や罵倒の応酬にはならない。

翻訳という観点から学べる点
 最後に、翻訳という観点で、中山訳に対する内井の批判から何が学べるかを考えておこう。

 正面切って質問すれば、天野訳や金子訳が翻訳の模範だと内井は答えるかもしない。だが、ほんとうにそうなのかはあやしいと思う。たとえば、fundamentalやwill often disagreeについて指摘したように、内井の翻訳の理想像は、天野・金子流よりも学校英語に近い。もちろん、学校英語は天野・金子流の亜流なので、たいして違いはないともいえる。だが、天野や金子ならwillを「だろう」と訳すのは便宜的なものにすぎないことを知っていたはずだ。亜流の人たちはそれが正しいと信じているのだから始末が悪い。

 原語と訳語の一対一対応、英文和訳調の訳文という金子流の翻訳のパラダイムはおそらく、とても理解できそうにもない欧米先進国の知識や文化、思想などを、後進国日本が必死になって学ぼうとしていた時代に相応しいものだったのだろう。金子流の翻訳のパラダイムには歴史的な使命があったのだと思う。

 そして、金子流の翻訳のパラダイムが強固なものであったために、亜流が生まれ、学校英語という形でいまでも生きつづけている。時代を考えれば、もはや使命を終えたパラダイムだといえるだろうが、そんなことにはおかまいなしに、いまでも学校では金子流の亜流が唯一絶対のものになっている。

 パラダイムは通常、「ものの見方や考え方の基本にある世界観」を意味しているが、実際には「モデル、模範」という形で広まっていく。たいていの場合、人は世界観を意識的に選択したりはしない。だが、科学者なら「一般に認められた科学的業績」を「問い方や答え方のモデル」にすることで、世界観を確立する。科学以外の分野でも、たとえば翻訳の分野でも、ほとんどの場合に無意識のうちに何かを「モデル、模範」にして、その背景にある世界観をとりいれる。そして、「モデル、模範」は業績よりも人であることの方が多いはずだ。だれを模範にしているか、だれに憧れ、だれに褒められたいと考えているかで、大げさにいえばその人の世界観が決まる。クーンの『科学革命の構造』を読むと、そういう見方を学ぶこともできる。

 こう考えていくと、内井が翻訳に関してだれを模範にし、だれに憧れ、だれに褒められたいと考えているかは、改訳の方向からほぼ想像がつく。おそらくは、中学か高校のころの英語の先生なのだ。そう考えれば、will often disagreeを「しばしば一致しないであろう」と改訳した理由も簡単に説明がつく。そう考えなければ、こう改訳した理由がわからない。だが、内井はこの点をおそらく意識していない。クーンのパラダイム論をしっかり読めば、気づいたかも知れないのに。

 いま翻訳に求められているパラダイムはどういうものだろうか。おそらく、原著の意味を日本語で伝えようとする翻訳であろう。原著者が日本語で書いたらこう書いたであろうと思える訳文を目指す翻訳であろう。

 だが、翻訳のパラダイムが時代後れになっても、その事実はなかなか認識されない。たとえば、金子流の亜流の翻訳書が売れなくなるという形で危機が進行しているのだが、虚栄の塔に閉じこもっていては、その事実すら見えにくいはずである。だから、oftenを「〜することが多い」と訳したりすると、すかさず「しばしば」と訂正するような人がでてくる。こう直す人は、英語の先生を模範にしているので、なおさら始末におえない。自分が間違っている可能性など露ほども考えることなく、自信をもって訂正する。

 学校英語を模範とするパラダイムの人が、中山訳のように原著の意味を日本語で伝えようとする翻訳をみると、まったく不当だと思える評価を下すことが少なくないのだ。

 最後に蛇足。「学術的な使用に堪えないのでお勧めできない」という内井の罵倒を読んだとき、「学術的な使用」に訳書を使うのだろうかと不思議に思った。原著はアラビア語でもサンスクリット語でもなく、平易な英語で書かれているのだから、「学術的な使用」には原著を使ってくださいといいたくなった。そうはできない理由が、内井にはあるのだろうか。

 たぶんある。ひとつのヒントは、前に引用した「拙訳。わかりにくい表現だが, 歴史的な文献の文章を勝手に意訳するわけにはいかない。意味は後で解説する」という文章だ。この後にあるのは、「意味を伝える翻訳」というパラダイムからみればほんとうに拙い訳であり、明晰だったはずの原文をまさに「わかりにくい」文章に「勝手に変えている」。これではわかるはずがないので、内井教授の解説を読まなければならなくなる。

 内井の翻訳のパラダイムには、経済的な観点からみてあきらかな合理性がある。一流の著者が書いた明晰な原文がある。これを「わかりにくい表現」で翻訳すれば、解説が必要になる。翻訳と解説と二度にわたって活躍の場ができる。二度美味しいのだ。だが、読者にとっては二度不味いともいえる。「学術的」な翻訳はこうでなければならないとすれば、何とも奇妙な現実ではないだろうか。

(2002年9月号)

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