翻訳についての断章
山岡洋一

翻訳 の基準と理想


  先月号で「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」ができる翻訳家はきわめて少ないと指摘した。これを読んだ友人が、そ こまで基準を引き上げたら依頼できる翻訳者がいなくなるという感想を聞かせてくれた。

 この友人は産業翻訳を発注する立場にあるので、先月号で取り上げた出版翻訳とは若干事情が違う。それでも、翻訳の質という点では同じような問題を抱えて いる。ふだん、翻訳の質をもっと高めてほしいと考えているのだが、かなりの程度までは目をつぶらなければ依頼できる翻訳者はいなくなるというのだ。

 何とも忘れっぽい男だと思った。つい10年少し前には、英和辞典にでていない訳語を使ったというだけで「ここは意訳しましたが、よかったでしょうか」と お伺いをたてる翻訳者がいた。たとえば、includeを「〜などがある」と訳したとき、one of the most ....を「とくに」と訳したときなどに、こういう言い訳が必要だと考える翻訳者が少なくなかったのだ。いまではたぶん、専門用語ならともかく、ごく一般 的な言葉についてこのようなお伺いをたてる翻訳者はほとんどいないのではないだろうか。

 10年少し前には、includeとかone of the most ....とかのごく普通の言葉で英和辞典にない訳語を使うのは禁忌とまではいわなくても、少なくとも冒険だという感覚があった。逆にいえば、翻訳で使う訳 語は決まっており、英和辞典に書いてあるという感覚があった。訳語だけではない。構文についても訳し方は決まっており、文法書に書いてあるという感覚が あった。要するに翻訳とは、決められた訳語、決められた構文を使って原文を日本語にしていくことだという見方が強かったのである。いまはこういう見方は力 を失っている。その証拠に、英和辞典にでていない訳語を使ったというだけで「ここは意訳しましたが、よかったでしょうか」とお伺いをたてる翻訳者はほとん どいなくなった。10年少し前の感覚を覚えていて、いまといかに違っていたかに思いをめぐらせていれば、そこまで基準を引き上げたら依頼できる翻訳者がい なくなるという感想はでてこなかったはずだ。だから、忘れっぽい男だと思うのである。

 翻訳とは決められた訳語、決められた構文を使って原文を日本語にしていくものだという見方は、学校英語の英文和訳でたたきこまれたものだ。このため、た いていの翻訳者に馴染みのあるものだ。そして学校英語のなかでも受験英語は目的に合わせて最適化され、効率化されている。構文と単語や連語のそれぞれに一 対一対応に近い形で「正解」が決められているので、原文の意味を考える必要もなく、訳文がすぐに機械的に書ける仕組みになっているのだ。だから、受験英語 をしっかりと学んでいれば、翻訳はできて当たり前、できなければ恥だという見方が以前には強かった。

 たしかに、決められた訳語、決められた構文を使って原文を日本語にしていくのであれば、翻訳は簡単な仕事である。だが10年少し前にすでに、そういう見 方にしたがって作られてくる翻訳が使い物にならないことがかなりはっきりしていた。ある時期に英文和訳型の翻訳が日本の社会で一定の役割を果してきたのは 事実だとしても、「ここは意訳しましたが、よかったでしょうか」とお伺いをたてるような感覚では社会の要請にこたえられる翻訳ができない状況になっていた のである。

 だから、英和辞典にない訳語を使うと「意訳」だとはほとんど誰も思わなくなったのは、翻訳に関する世間の認識に合わせて、発注者と翻訳者の価値観が変 わったことを示しているといえるはずである。

 だが、問題もある。20年ほど前には翻訳とは決められた訳語、決められた構文を使って原文を日本語にしていくものだという見方が強かったので、翻訳はい かにあるべきかを考える必要はそれほどなかった。いまでは、翻訳とは英文和訳と違うものだという点で、おそらくほとんどの発注者や編集者の見方は一致して いる。しかし、では翻訳はどうあるべきかという点になると、「読みやすい翻訳がいい」という漠然とした見方があるだけだ。

 では、「読みやすい翻訳」とはどういう翻訳か。「読みにくくない翻訳」だというと、お叱りを受けるかもしれないが、本来の意味はそうだ。英文和訳型の翻 訳を「読みにくい翻訳」と呼び、英文和訳型ではない翻訳を「読みやすい翻訳」と呼んだ。これがもともとの意味だ。だから、「読みやすい翻訳」という言葉に は積極的な意味はない。どのような翻訳を目指すべきかを示す言葉ではなく、どういう翻訳では困るかを示しているだけである。

「読みやすい翻訳」が合言葉になって、過去10年ほどで、英文和訳型の翻訳は完全に主流から外れたと思える。だから「読みやすい翻訳」という言葉は十分に 役割を果たしたといえるはずである。

 だが、言葉は一人歩きする。「読みやすい翻訳」を文字通りに受け止めると、幼稚な日本語で書かれている方がいいということになりかねない。原文の味わい や微妙なニュアンスをすべて取り去り、理解が難しい部分をはしょって簡単にすれば、たしかに文字通りの意味での「読みやすい」文章になる。それでいいのだ ろうか。いいわけがない。

 英文和訳型の翻訳は原文に忠実な翻訳を標榜していた。だが、原文そのものに忠実に訳そうとしたのではない。原文の構文と単語の訳し方として英文和訳で教 えられている方法を忠実に守って訳そうとしたのだ。その結果、英文和訳型の翻訳では、原文に忠実といいながら、原文とは似ても似つかぬ訳文ができるのが普 通だ。つまり、原文に忠実に訳すという目的を達成できないのである。問題はここにあるのであって、原文に忠実に訳すという目的にはない。

「原文に忠実に訳す」というのは、いってみれば同義反復である。訳すという以上、原文に忠実でなければならない。これに対して「読みやすい翻訳」は、自己 矛盾に陥りかねない。文字通りの「読みやすさ」を追求すれば、一部の例外を除いて、翻訳ではなくなる可能性がある。「読みやすい翻案」になりかねない。

 だから、「読みやすい翻訳」に代わるものとして、新しい言葉が必要なのだと思う。そのような観点から提案しているのが、「原著者が日本語で書くとすれば こう書くだろうと思える翻訳」である。

 英文和訳型の翻訳はほんの10年少し前まで、ほとんどの分野で主流だったが、いまでは逆に、ほとんどの分野で主流ではなくなった。この点を考えれば、価 値観が意外にあっさりと変わることが実感できるはずである。なぜそれほどあっさり変わるのだろうか。

 その理由を理解するカギは「主流」という言葉にある。変わるのは何が「主流」かだけなのだ。つまり、英文和訳型の翻訳と「読みやすい翻訳」の例でいうな ら、英文和訳型の翻訳はいまでもあるし(ありすぎるほどあるし)、「読みやすい翻訳」は以前にもあった。世の中が微妙に変わり、読者の要求が微妙に変わっ たとき、それまで主流であった英文和訳型の翻訳は力を失い、それまで傍流であった「読みやすい翻訳」が流行りになった。

 いつの時代にも翻訳にはさまざまなスタイルがある。そのなかで言い訳を必要としないスタイルが主流である。よほどの力や権威がある翻訳家ならともかく、 並みの翻訳者なら言い訳を必要とするスタイルが傍流である。たとえばいまでは、ひとつ前の時代に主流だった英文和訳調で訳すとき、「時間がなかったもの で、少々直訳的になっていますが、よかったでしょうか」といった言い訳が必要になることが少なくない。逆に、英和辞典にない訳語を使ったときは、言い訳が 必要になるどころか、自慢のタネにすらなる。

 翻訳者個人にとって、考え方はそう簡単に変わるものではないし、翻訳のスタイルはそう簡単に変えられるものではない。それでも、世の中全体としてみれ ば、翻訳のスタイルは変わっていく。英文和訳型ではない翻訳を目指してきた翻訳者は、強い向かい風を感じなくなって、ある程度まで自由に仕事ができるよう になる。英文和訳型を当然としてきた翻訳者は強い向かい風を受けるようになり、しぶしぶながらでも妥協しようとする。

 とくに重要なのは、新しい世代の翻訳者だろう。英文和訳調では新規に参入するのがむずかしいので、英文和訳型ではない翻訳ができる翻訳者が自然に増えて いく。だがそれだけでなく、新しい世代の翻訳者にとって、実力を高めようと努力する際に、目指すべき理想をはっきりさせておくことが不可欠である。前述の ように、「読みやすい翻訳」はどういう翻訳では困るかを示しているだけなので、理想にはなりえない。そこで提案するのが、「原著者が日本語で書くとすれば こう書くだろうと思える翻訳」である。

「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」は、翻訳の質を判断する際の基準であると同時に、翻訳者が目指すべき目標でもある。また、森 鴎外や吉田健一ら、明治以降のすぐれた翻訳家がとってきたスタイルでもある。そこまで基準を厳しくしたら依頼できる翻訳者がいなくなると心配する人がいる のも理解できなくはないが、理想は高い方がいいに決まっている。

(第2期第31号)