資料1
フランス語原著の日本語訳と英語訳
ところで, 言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば, それは言語活動(langage)とは別物である;
それはこれの一定部分にすぎない, ただし本質的ではあるが. それは言語能力の社会的所産であり,
同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である. 言語活動は, ぜんたいとして見れば, 多様であり混質的である;
いくつもの領域にまたがり, 同時に物理的, 生理的, かつ心的であり, なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする;
それは人間的事象のどの部分にも収めることができない, その単位を引きだすすべを知らぬからである.
(フェルディナン・ド・ソシュール著小林英夫訳『一般言語学講義』岩波書店、1972年、21ページ)
But what is language [langue]? It is not to be confused
with human speech [langage], of which it is only a definite part,
though certainly an essential one. It is both a social product of
the faculty of speech and a collection of necessary conventions that
have been adopted by a social body to permit individuals to exercise
that faculty. Taken as a whole, speech is many-sided and
heterogeneous; straddling several areas simultaneously--physical,
physiological, and psychological--it belongs both to the individual and
to society; we cannot put it into any category of human facts, for we
cannot discover its unity. (Ferdinand de Saussure, Course in General
Linguistics, trans. Wade Baskin, McGraw-Hill Paperback Edition, 1966,
p. 9)
このあいまいは, 当面の三個の概念を, あい対立しながらあい呼応する名前をもって示したならば, 消え失せるであろう. われわれは,
記号という語を, ぜんたいを示すために保存し, 概念(concept)と聴覚映像(image
acoustique)をそれぞれ所記(signifié)と能記(signifiant)にかえることを, 提唱する; このあとの二つの術語は,
両者間の対立をしるすにも, それらが部分をなす全体との対立をしるすにも, 有利である. 記号は, それで満足するとすれば,
それにかわるものを知らぬからである; 日用語には満足なものが見当たらないのだ. (同上97ページ)
Ambiguity would disappear if the three notions involved here
were designated by three names, each suggesting and opposing the
others. I propose to retain the word sign [signe] to designate
the whole and to replace concept and sound-image respectively by
signified [signifié] and signifier [signifiant]; the last two terms
have the advantage of indicating the opposition that separates them
from each other and from the whole of which they are parts. As
regards sign, if I am satisfied with it, this is simply because I do
not know of any word to replace it, the ordinary language suggesting no
other. (Ibid., p. 67)
資料2 小林
英夫の見方
ここでわたしの自らに課したしごとは, じぶんながらに理解しえたCoursの思想を, できるだけわが身にちかい現代語で再現することである;
本文の訳出にあたっては, うらには万端の用意を控えながら, つねに等量の移植をはかることである. 翻訳である以上,
過不足の出ることはつつしまねばならない. (『一般言語学講義』「訳者のはしがき」viページ)
もちろん原書の予想する読者層は, 必ずしも訳者の予想するわが国のそれとは一致しないであろう. 戦後わが国に言語学熱が急速に高まったとはいえ,
まだまだCoursを受け入れるだけの予備知識には欠ける所が多いにちがいない. ことに国語学徒などは,
ヨーロッパ語のいくつかを習得する余裕はないことであろう. またここ数年らい, 構造主義のブームにつれて, 哲学者, 文化人類学者, 民族学者,
その他多方面の学徒から, Cours理解の要求が熾烈になりつつある.
そのような, いわば言語学のズブのしろうとの方がたにも, なんとかして本書を近づけて上げたい, というのが,
このたびの訳者の悲願なのである. (同上vi〜viiページ)
翻訳にあたってわたしのもっとも重要視するのは, リズムを写すことである, よしんば対象が学術書であってもである. 文勢とはそのことをいう.
文勢を欠く文章は死んでいる. 語を生かして文を殺し, 文を生かして文章を殺す. そのような死んだ文章がひとを動かせる道理はない.
(同上xページ)
そのようにして朱を加えられた原稿にもとづいて初校刷りをえたが, こんどはこれを国語学者亀井孝氏の閲に供した.
わたしが氏から拝借しようとしたのは鋭敏な語感である. 国語・国文にたいする氏一流の潔癖は, わたしの訳文の,
想いもよらぬ所に盲点をあばいてみせた. (同上xiページ)
國語学者龜井孝氏には,別の役割を受け持つていただいた. 氏は專ら譯文の聞手となられた;
眼によりも耳に訴へて,朗々誦すべき文章に仕上げるといふのが私の主張の一つであつたから. 期せずして,私は振仮名癈止論を實踐することとなつた.
私は氏から國語に關する該愽な知識と纖細な感覺とを拜借したのである. (『言語學原論〔改譯新版〕』「譯者の序」9ページ)