翻訳講義
山岡洋一
翻訳
学習の考え方
先日、大学の英文科で学ぶ学生と話す機会がありました。英文科に入ったとき、将来は通訳か翻訳の仕事をしたいと考えていたが、大学では通訳
や翻訳を学ぶ機会はなかなかないとのことでした。就職した後、機会があれば翻訳を学びたいということなので、そう思ったときにどのような点をどのように考
えていけばいいのかを話しました。どういう話をしたかを紹介しておきましょう。
翻訳は手段
まずはきわめて一般的な点について話しました。翻訳を目標にする人、翻訳者になりたいという人が少なくないのですが、ほんとうは翻訳は目標、目的ではな
く、手段だと考えるべきです。たとえば、何かを伝えるための手段として取り組むべきものです。例をあげるなら、外国語で書かれたある作品、ある著者、ある
分野が大好きで、その素晴らしさを読者に伝えたいのであれば、他にも評論などの手段がありますが、翻訳が最適の手段になる場合もあるでしょう。
このようなことをいうのは、多数の翻訳者、翻訳家をみてきて、翻訳を目的にしている人と手段にしている人とがいると感じるからです。翻訳は原文があって
成り立つものですし、普通は発注があって成り立つものでもあります。翻訳は二重に受け身の仕事だといえます。仕事がこのような性格なので、翻訳者はたいて
い控えめで、自己主張をあまりしません。自分のことは語らないという人が多いのです。ですから、翻訳者に翻訳を目的にしている人と手段にしている人とがい
るというのは、本人がそう語っているという意味ではありません。そのはずだと感じ取れるという意味です。
翻訳者の多くはどのような分野のものであっても、仕事があれば引き受けるという姿勢をとっています。IT関連でも、料理の解説でも、小説でも、自己啓発
書でも、何でも引き受けます。こういう翻訳者は、もちろん例外もありますが、ほとんどの場合、質の低い翻訳しかできないといえます。これに対してすぐれた
翻訳家は、もちろん例外もありますが、たいていは仕事の範囲を絞り込んでいます。何でも引き受けたりはしない。絞り込んだ範囲で質の高い仕事をしているの
です。分野を絞り込んでいる翻訳者が質の高い仕事をしているとはかぎりませんが、すぐれた翻訳家は仕事の範囲を絞り込んでいるのが普通だとはいえるように
思います。
大雑把な印象ですから、例外もたくさんありますが、分野を問わない翻訳者と話をしてみると、語学力を活かしたいから、自宅でできる仕事だからなど、理由
はさまざまですが、翻訳そのものが目標、目的になっているのだと感じることが少なくありません。だから分野へのこだわりはあまりないのでしょう。これに対
してすぐれた翻訳家には、翻訳そのものよりも、作品や著者などについて話題が豊富な人が多いと思います。著者の魅力を話しだすと止まらないという人もいま
す。そういう話を聞いていると、すぐれた翻訳家にとって、翻訳とは目的ではなく手段なのだろうと思えてくるのです。
仕事は選んでもらうもの
こういう話をすると、自分の好きな分野を選ぶということだと考える人が多いようですが、そうですとはいいにくい点があります。微妙に違うといいたくなる
のです。好きな翻訳を職業に選び、好きな分野を仕事に選ぶと考えていては、たぶん道を間違えるだろうと思います。なぜかというと、選んでもらわないかぎ
り、職業や仕事にはつけないからです。いまの世の中ではたいていの場合、選択権はお金を支払う側にあります。翻訳を趣味にするのなら、自分のお金を支払う
わけですから、分野を自由に選べます。職業や仕事というのはお金を支払ってもらう立場に立つわけですから、支払う側に選んでもらうことが不可欠です。
職業や仕事の場合には、選ぶのではなく、選んでもらえるように努力する必要があります。これならお金を支払う価値があると思ってもらえなければ、仕事は
もらえません。それに翻訳の仕事には一般に、いつ発生するかわからないという性格があります。仕事があるのに担当する翻訳者が決まらないという状況になっ
たとき、この人に任せてみようと思ってもらえれば、翻訳の仕事を依頼される可能性があります。そういう機会があったときに機会を活かせるようにしておくこ
とが肝心です。そのときに鮮やかな翻訳ができれば、仕事が継続する可能性があるのですから。
そういう機会がいつあるのかはわかりません。いくつかの偶然が重なって、思わぬところから機会が生まれてくるものです。そして、めぐってくるのは、翻訳
の機会だとはかぎりません。違った種類の機会かもしれません。翻訳は手段だと考えていれば、同じ能力を違った仕事に活かせる可能性もあります。別の道が開
けるかもしれないのです。いずれにせよ、長い人生のなかでは、さまざまな機会にぶつかるものです。どの機会を活かそうと努力し、どの機会を見送るのかはも
ちろん選択できますが、仕事は選ぶものではなく、選んでもらうものだという点は覚えておくべきでしょう。
まずは読書
ではどのようにして実力をつけておけばいいのか、もう少し具体的な話もしました。
たぶん、いちばん大切なのは、本を読むということでしょう。英文科卒というと、世間では英語はできるだろうと思われます。ところが現実には、英語の本を
10冊も読んだことがないという学生が多いようで、残念なことです。英文を読む能力は広範囲に役立つのですから、これだけは身につけておいた方が良いと思
います。
たとえば、英語の本をまずは100冊読むことを目標にするといいかもしれません。自分のお金を支払って本を買い、読むわけですから、好きな作家、好きな
分野の本を読めばいいのです。たとえばミステリーのように、終わりまで読んでみたくなる本を選ぶのがいいでしょう。はじめはなるべく短い本を選び、まずは
訳書を読んでから、原著を読むのがいいかもしれません。こうして何点かを読むと勢いがつきますし、楽しくなるので、つぎつぎに読みたくなります。
学生なら、1年あれば英語の本を100冊読むことができるはずです。週に2冊ですから、それほど難しいとは思いません。就職して会社勤めになっても、通
勤時間や休日をうまく使えば、週に1冊、年に50冊は読めるはずです。読書百遍という言葉がありますから、難しい本を百回読む方法もあります。これなら
1000円ほどのペーパーバックで1年学べますから、最高の勉強法になるかもしれません。黙読と音読、速読と熟読を組み合わせると効果があるでしょう。本
をたくさん読むか、繰り返し読んでいくと、外国語を読むという点で実力がつき、自信がつくでしょう。
翻訳は外国語で書かれた文章の内容を母語で伝える仕事ですから、日本語の本を読むことも大切です。好きな作家の全集を読むといいでしょう。いま、全集は
以前ほどの人気がないので、古書店で安く売られています。20〜30巻もある全集が1万円前後で買える場合が少なくないようです。重くて読みにくいという
のであれば、文庫判や新書判の全集もあります。全集を読んで、好きな作家の文体や語彙をすっかり学ぶことができれば、文章を書くときに役立つはずです。
日本語の文章を読むとき、書き手の立場で読む訓練を積むことも大切です。普通は読み手として読んでいるわけですが、書き手という立場に立つと、まったく
違った読み方ができます。たとえば、シミュレーションをしながら読む方法があります。自分ならこの点をどう考え、どう書くだろうか、どのような言葉を使
い、どう表現するだろうか。そう考えながら読むのです。自分が考えつかない言葉や表現や論理などが使われていることに気づくはずです。語の意味を考え、語
彙を増やし、表現の幅を広げることができるでしょう。
翻訳学校は……
翻訳そのものの勉強には翻訳学校に通うのがいちばんだと考えるのは、ある意味で当然かもしれません。ですが、よくよく調べてみるべきです。誰が教えてい
るのか、翻訳の実績、翻訳教育の実績がどれだけある人なのか。世の中には翻訳学校がおどろくほどたくさんありますが、ほんとうに翻訳ができる先生、翻訳教
育で実績をあげている先生が教えているケースはそれほど多くないと思います。翻訳者を育てられる学校はほとんどないのが現状ではないでしょうか。
こういうと、翻訳学校の現状をどこまで調べたのかとお叱りを受けるかもしれませんが、ひとつずつ調べていくまでもなく、翻訳の現状をみれば、翻訳学校が
全体として、まともな実績をあげているはずがないと断言できると思います。これだけたくさんの翻訳学校があり、たくさんの人が学んでいるはずなのに、すぐ
れた翻訳者がめったに登場してこないのですから。翻訳学校は夢を売る商売だといった人がいるそうですが、これがまさに現実なのでしょう。翻訳家になる夢を
売っているのです。翻訳学校に行けば夢を買うことはできるでしょうが、夢が実現するとは思わない方がいいかもしれません。
名訳を読む
たぶん、もっと着実な方法は名訳を読むことです。名訳とその原著を対照させながら読んでいく。この方法をとれば、少なくとも、翻訳の素晴らしさ、楽しさ
が実感できるはずです。自分が翻訳したらここまで素晴らしい訳にはならないことが実感できるはずです。一流のものを知り、一流のものと比較したときに自分
の実力がいかに劣っているかを知ることが、どの分野でも学習の第一歩になります。学習とは一流のものに憧れ、それに近づくために努力することなのです。
たとえば、吉田健一、村上博基、土屋政雄らの翻訳を読んでみるといいでしょう。まず訳書を読み、原著を読み、つぎに両方を対照させながら読んでみる。最
高の趣味になるほど面白いことに気づくはずです。趣味に止まらず、翻訳の勉強をしたいのであれば、原著を自分で訳してみて、一流の翻訳と比較していくとい
いでしょう。
日本語で書かれた本の英訳を読む方法もあります。この場合、英訳を楽しむのではなく、和訳だと考えて楽しむようにするのがコツです。英訳が原著で、日本
語の本が訳書であるかのように考えて読んでいくのです。英訳を訳してみて、もとの日本語と比較してみる方法もあります。
翻訳学校に通うと添削をしてもらえるので役立つという人がいます。たしかに添削をしてもらえれば、自分の翻訳のどこが良く、どこに問題があるのかがよく
分かる場合もあるでしょう。ですが、このときに決定的に重要な点は、添削しているのが誰で、どういう人なのかです。翻訳家として、あるいは翻訳教育家とし
て実績のある一流の人であれば、添削が役に立つ可能性があります。翻訳家としても翻訳教育家としても実力が不足している人であれば、添削は役立たないどこ
ろか、学習の妨げになるだけになりかねません。では、一流の人に添削してもらうにはどうすればいいのか。一流の翻訳家の授業を受ければいい、というのがひ
とつの答えでしょうが、そんな機会はめったにないのが現実です。上にあげた方法を使えば、一流の翻訳家、一流の作家による添削をほとんど無料で受けられる
のです。そんな方法があるのに、高い授業料を払う必要があるのでしょうか。
もちろん、教育機関には教師による教育以外の機能があります。たとえば、受講者が互いに学びあう場になるという機能があります。1人ではなかなかできな
い学習も、仲間がいれば進みます。受講生の実力を評価し、優秀な受講者に適切な職や仕事を紹介する機能があります。教師は仕事の紹介者でもあります。この
ような機能の点で翻訳学校に通う意味があるかどうかは、各人がそれぞれの状況にあわせてしっかり判断すべきでしょう。
下訳者にだけはなるな
出版翻訳関係の翻訳学校では、翻訳学習が進んだ段階で、下訳の仕事で経験を積み、実力がつけば翻訳者になれると教えていることが多いようです。翻訳学校
で教えている翻訳家のなかには、下訳者を探すことを目的にしている人もいるようです。そういう翻訳家の授業を受けて成績が優秀であれば、下訳の仕事をもら
える可能性が高くなります。そして、実際に下訳の仕事を何年か続けているうちに、機会があって、出版翻訳者になった人も少なくありません。
このような事実があることは十分に承知したうえであえていうのですが、翻訳学習者−下訳者−翻訳者という階段があると考えるのは間違いです。下訳者と翻
訳者とは似て非なるものであり、下訳者になることを目指すのは時間の無駄だというだけでなく、翻訳者への道の障害になります。少なくとも一流の翻訳家を目
指すのであればそういえます。
こう考えるのは、実際に下訳者と組んで仕事をした経験が何度もあるからです。何人もの下訳者とともに仕事をした経験に基づいて、下訳者にだけはなるなと
助言したいのです。翻訳という仕事は、元訳者が下訳者を使うという関係ではうまくいきません。質の低い翻訳にしかなりません。下訳者の原稿を元訳者が必死
になって修正しても、質の低い翻訳にしかならないのです。そういう仕事をした経験は、百害あって一利なしです。
下訳者は翻訳経験が乏しいのだから、質が低いのは当然で、その点を前提にうまく指導し、うまく修正するのが元訳者の役割ではないかと思えるかもしれませ
ん。実際には、下訳者という立場そのものが翻訳という仕事の性格と矛盾するのだと思います。翻訳という仕事の性格を考えれば、共訳者という立場はありうる
としても、下訳者という立場は成立しえないのだと。
下訳者という立場がなぜ成り立たないのか。その理由はこうです。翻訳とは全体に対して最終的に責任を負う仕事です。外国語で書かれた文書の内容を母語で
伝えることに全責任を負うことこそが翻訳という仕事の核心であり、最大の魅力でもあります。この責任感のない翻訳は、気の抜けたビールのようなもので、仕
事をする立場からも読者の立場からも面白みがなくなります。下訳とは、一部だけを担当し、しかも担当する部分に対してすら責任を負うことができない仕組み
です。全体に対する責任を取り上げられているのが下訳なのです。
下訳の経験が百害あって一利なしだというのは、責任を負わない姿勢が身についてしまい、そのことに何の疑問をもたなくなることが多いからです。こういう
場合はどうすればいいのですか、この語にはどのような訳語を使えばいいのですか、文体はどうすればいいのですかと質問すれば、答えが返ってくるはずだと考
えるようになるのです。下訳者のときには元訳者がこうした質問に答えてくれるはずだと考えています。元訳者にこのような質問ができない場合でも、訳文で明
に暗に質問を投げかけます。これは下訳なのだから、元訳者が読んで修正してくれるはずだと考えて、疑問点や問題点を解決しないまま、生煮えの原稿を提出し
ます。機会があって翻訳者になると、今度は発注者や編集者が修正してくれるはずだと考え、最終的には読者が適切に判断してくれるだろうと考えます。責任は
負わない、その方が楽だと考えるのです。
こういう意見もあるでしょう。なぜ、全体に対して最終的に責任を負わなければいけないのか。翻訳という仕事は個人プレーではなく、チーム・プレーではな
いのか。出版翻訳なら、編集者や校正者と協力するし、専門分野の本なら、専門家の監修を受けることもある。産業翻訳なら、チェッカー、コーディネーターを
はじめ、さまざまな人が協力して質を高めるために努力している。翻訳者個人が全体に対して最終責任を負うというのは、チーム・プレーを乱す傲慢な態度なの
ではないか……。
実際には、訳語は専門家に任せ、文体や表現についての判断は編集者に任せるといった姿勢こそが、傲慢で鼻持ちならない態度なのではないかと思えることが
あります。
たとえば、有名な著者についての愚痴を編集者から聞かされることがあります。翻訳書の原著者ではなく、日本語で書き下ろされる本の著者についての愚痴で
す。小説家ではそういう例はめったにないでしょうが、気軽に読める評論などの著者、とくに売れ筋の本の著者には、鼻持ちならないほど傲慢な人がいるといい
ます。
なぜ傲慢かというと、自分の著作の全体に対して最終責任を負う態度を取らないからなのです。本の著者なら、何をどのように書くのか、何をどのように調
べ、どのような言葉や表現を使うのかのすべてに責任を負うのが当たり前です。誰でもそれが当然だと考えているはずです。ところが、本が売れると、そのよう
な責任を負わなくなる著者がいるというのです。1時間か2時間、馬鹿話をして、そのときにとったテープをもとに本を作るよう編集者に要求します。実際に書
いているのは編集者かライターというケースが少なくないのです。そこまで極端ではなくても、手を抜いているので原稿の質が低く、編集者が全体を書き直さな
ければとても本にならないという場合もあります。
著者であれば、自分の著作の全体に対して最終責任を負うのが当然です。この点に疑問をもつ人はまずいないでしょう。翻訳者は違うという理由がはたしてあ
るのでしょうか。日本語で書き下ろされる本では、編集者やライターが手を入れなければならない場合、本の質はどうしても低くなります。翻訳の場合も同じで
す。何人もの人が協力して作っているのは事実ですが、翻訳者も編集者や校正者も、あるいはチェッカーやコーディネーターも、それぞれの立場で全体に対して
責任を負う姿勢をとるからこそ、質の高い仕事ができるのです。その責任を放棄するのは、傲慢な態度だというしかありません。
(2006年2月号)