翻訳に関する断章
山岡洋一
時代は訳読
翻訳通訳理論の研究者、水
野的氏のブログに「時
代は訳読?」という記事があるのを見つけた。先月号の「翻訳調のインフラとしての英語教育」で書きたかった点が簡潔に示されていたのだ。水野氏は
「訳読の理論的解明と有効な教育法としての訳読の方法を開発することが重要だと思う」と記し、「この辺の問題をやってくれる人はいないものか」と書いてい
る。ここまではまったく同感なのだが、次が違う。「やはり自分でやるしかないのかな」と付けくわえているのだ。理論的解明や教育法の開発は若い研究者に期
待するしかないと思っていたので、同世代の水野氏がこう書いているのを読んで感激した。そう時代は訳読なのだ。これからの時代に必要なのは訳読の教育であ
る。そう考える理由をいくつか記しておこう。
語学の時代
明治から戦後しばらくまでは「語学の時代」だったと思う。英語などの外国語が「学」だった時代だ。この時期、とくに明治から大正にかけて、日本にとって
最重要課題は欧米の優れた知識を吸収することであり、そのために不可欠な手段として学校教育でとくに重視されたのが「語学」であった。旧制中学、旧制高校
の語学教育はじつに徹底していたようで、この時代に教育を受けた人たちは読み書き聞き話すのすべての面にわたって、戦後世代とは比較にならないほどの力を
身につけていたように思う。
翻訳という観点からみるなら、語学教育の柱のひとつになっていたのが、英文和訳に代表される訳読だ。翻訳という手段を使って、欧米の優れた知識を日本語
で学べるようにすることが当時の国家目標であり、その際に使われた翻訳のスタイルが翻訳調であった。翻訳調で訳せる翻訳者を育て、選別することが当時の教
育の目的のひとつだったのだから、翻訳調の簡易版といえる英文和訳が重視されたのは、きわめて合理的だったと思う。
もちろん、欧米の優れた文献を訳す翻訳者はそれほど大量に必要だったわけではない。全国津々浦々に作られた学校から、とくに優秀な成績をおさめた少数を
大学に集め、そのなかでとりわけ優秀な学生を政府機関で採用し、たとえば大学教授などの職を与えて、翻訳にあたらせた。こうして、学校での成績を基準に選
ばれた少数の人たちが訳し、大多数の国民は翻訳書で学ぶという仕組みが確立した。
戦後しばらくまで、この仕組みはうまく機能していたように思う。当時の日本人は欧米の進んだ文化を学ぼうという学習意欲が強かった。そこで、抜群の「語
学力」をもつことで選別されたごく少数の人たち、たいていは有名大学教授の肩書きをもつ翻訳者、そういう人が訳した本を買って読むことで、学習しようとし
た。
いまの感覚で考えれば、鼻持ちならない権威主義、エリート主義だと思われるかもしれない。だが、こうした仕組みはある時期まで、ごく自然なこととして受
け入れられていた。これが自然だったわけはたぶん、野球の例を考えてみると理解しやすいかもしれない。元気な男の子ならたいていは野球をやっている。その
なかでとくに運動能力に優れていて自信のある子供が中学高校で野球部に入る。そのなかで、とりわけ優れた選手だけがプロになり、プロのなかでとりわけ優秀
な選手だけがスターになる。野球が大好きだった子供のうちスターになるのは、たぶん10万人に1人ぐらいだろう。それ以外の人はファンとして野球を楽し
む。これと似た仕組みが学習という場で確立していただけなのだ。
この仕組みに綻びがみえてきたのはたぶん。1970年前後である。その背景は単純明快だ。はるかに遠く、理解することなどとてもできないと思われていた
欧米が、この時期から心理的にかなり近くなってきた。翻訳によって欧米の進んだ知識を学ぶ努力が功を奏して、日本の社会が欧米に近づいてきたからだ。そう
なると、大学教授が翻訳を本業とする理由がなくなるし、翻訳調の翻訳者を育成し、選抜するために英文和訳を教育する必要もなくなる。外国語教育は明治以来
の目標のひとつを失うことになった。
英語コンプレックスの時代
その後にあらわれた時代、いまの時代を象徴する事実がいくつかある。たとえば、タレントやスポーツ選手、政治家が英語でスピーチをしたと報道されること
が多い。政治家についていうなら、ある年齢以上の人なら、政治家がアメリカに行って英語でスピーチをしたと報じられているのをみて、驚くかもしれない。な
ぜ驚くかというと、第1に英語でスピーチができるのは旧制高校で教育を受けた世代にとって当たり前のことであって、マスコミがわざわざとりあげるような話
題ではないからだ。第2に、日本を代表する立場の政治家がアメリカに行くのであれば、優秀な通訳を連れていって、日本語で話すのが常識だからだ。英語でス
ピーチができると自慢げなのが驚きだし、通訳を使わない非常識さが驚きなのだ。だがいまでは、こういう世代の人たちははるか以前に引退しているし、数も少
なくなった。テレビのニュース番組で日本の政治家が英語で演説している様子が同時通訳付きで流されると、それだけで支持率が上昇するとみられているような
のだ。
なぜこのような不思議な現象が不思議だと思われなくなったのかを考えていくと、日本人の大多数がもっている英語コンプレックスに行き着く。
いまの英語教育では、若者の過半数が英語嫌いになるのだそうだ。英語は難しいという意識を植え付け、苦手意識と劣等感をたたき込んでいる。コミュニケー
ション能力、とくに会話の能力を育てることがいまでは英語教育の大きな目標になっていることを考えるなら、何とも不思議な現象だと思う。英語圏に行ってみ
るといい。3歳の子供でも英語をちゃんと理解し、しゃべっている。言語というのはそういうものなのだ。3歳の子供でもできることが、中学生や高校生、大学
生にできないわけがない。
会話能力というのはいわば、空気の中にある。日本語の空気を吸っていれば、誰でも日本語を使えるようになり、英語の空気を吸っていれば、誰でも英語を使
えるようになる。中学高校の英語教育で、英語の空気があるところで生活すれば会話はできるようになるという事実をしっかり教えておけば、若者の全員が英語
ならそれほど苦労しないと思うようになっても不思議ではない。その逆だというのだから、まったく奇妙な現象が起こっているのである。この奇妙な現象がある
から、タレントやスポーツ選手、政治家が英語をしゃべるというだけで、マスコミがとりあげるという不思議な現象が起こる。
いまの学校はじつに不思議な場所なのだとつくづく思う。小さな子供たちをみてみるといい。まず目立つのは、身体を動かすのが大好きで、いつも動き回って
いることだ。だが、少し長くみていると、もうひとつ目立つ点があることが分かる。好奇心が旺盛で、何でも知りたがることだ。言い換えれば、子供はみな、学
習意欲がきわめて高い。この学習意欲を、学校という場所は活かすどころか、みな殺してしまい、苦手意識とコンプレックスだけを植え付けるようにすら思え
る。学校で苦手意識を植え付けられても、大学生になり社会人になれば、英語の重要性にいやでも気づく。だから、英会話学校が繁盛する。だが、なぜ英会話な
のか。
いま、たいていの人はタレントやスポーツ選手、政治家が英語をしゃべると聞くと、えらく感心する。だが、外国語というのは前述のように、その空気を吸っ
ていれば誰でもしゃべるようになるものなのだ。大相撲の外国人力士はみな語学の天才なのかと考えてみればいい。そう考えていくと、英語をしゃべることだけ
で感心するのはどこかおかしいことに気づくはずである。英語の空気を吸っているというだけなのだから。
問題は、英語をしゃべるかどうかではない。何をしゃべるかなのだ。英語で中学生か高校生程度のことをしゃべるよりも、日本語でしっかりした発言をして、
英語は通訳に任せる方がはるかにいい。この当たり前のことをしっかり確認しておくべきだ。
何をしゃべるかが問題だと気づけば、しっかりと考えておくことがいかに重要かが分かる。しっかりと考えるときは誰でも母語で考える。英語で考えるべきだ
という人がいるが、不自由な外国語を使えば、幼稚なことしか考えられない。だから、母語で、日本人なら日本語で考える。
だが、考えるとき、「馬鹿の考え休むに似たり」にならないようにするにはどうすべきか。答えは簡単だ。優れた考え、優れた知識などの優れた情報をうまく
取り入れ、うまく処理することだ。考えるとは基本的に、外部から入ってくる情報の処理なのである。そしていま、優れた情報はかなりの部分、英語で入ってく
る。そのうち翻訳されるのはごく一部であり、優れた考え、優れた知識をうまく吸収するためには、英語で書かれた文書をしっかり読んで、しっかり理解しなけ
ればならない。学者や研究者はもちろん、技術者やさまざまな分野の専門家、経営幹部、政治家などなどにとって、英語の本や論文、記事などで入ってくる考え
や知識をうまく処理し、母語で理解することが不可欠になっている。
ここに問題がある。英会話なら、英語の空気を吸っていれば、誰でも身につけられる。だが、優れた考え、優れた知識が書かれている文書を読む能力はそうは
いかない。母語で書かれている文書ですら、しっかりと意識的に学ばなければ読めるようにならない。まして外国語で書かれた文書は、よほどの学習を積み重ね
なければ読めるようにならない。
英語で書かれた文書を読み、その内容を母語でしっかりと理解し、考えられるようにするにはどうするべきか。ここで登場するのが訳読である。
訳読の時代
国際的な会議に出席するのであれば、英会話学校での勉強など、たいていの場合はそれほど役に立たないことに気づくはずである。まったく役に立たないとい
うわけではない。雑談のときには役立つことが少なくないはずだから。だが、会議がはじまると、とたんに心細くなる。このときに役立つのは英語の読み書きの
能力、そして、英語で入ってきた情報をいち早く母語で処理し、考える能力である。そうした能力を養うのに最適の方法が訳読なのだと思う。
訳読とは、英語の文章を読み、それもかなり難しい文章を読んで、日本語に訳していく学習方法だ。いま、いちばん不人気な学習方法だといえるかもしれな
い。なぜ不人気かというと、英文和訳の伝統が根強いからだろう。わたしは少年です、あなたは少女です、あなたは少女ですか……などなど、正気とは思えない
英文もどきを正気とは思えない日本語もどきで訳すのはかなわないと思うからだろう。これを嫌うのは正しい。これからの時代の訳読は、こうであってはならな
い。英語もどきではなく正しい英語の文章を、日本語もどきではなく正しい日本語で訳していくべきだ。母語で外国語を学ぶのが訳読の核心なのだから。
そのために欠かせないのがたぶん、第1に適切な文法理論と、第2に英語の語句の意味(訳語ではなく意味)を調べるための適切な方法である。
文法理論についていうなら、訳読のための文法はいまだに5文型などが中心だとみられる。5文型はC・T・アニアンズの『高等英文法』(1903年)で提
唱されたものだ。1903年というと明治36年である。日本が英語学習法を確立しようとしていた時期に最新だった理論だ。単純で使いやすいという利点があ
るのだが、最善の文法理論だとは思えない。最大の問題はアニアンズが提唱した理論だという事実にある。OEDの編集者であり、優れた学者なのだが、基本的
に英語という世界のなかで英文法を考えたのも事実だ。ギリシャ語、ラテン語などと比較する作業は行っているが、少なくとも、日本語の世界から英語がどうみ
えるかは考えていない。そして訳読にあたって肝心の点は、日本語の感覚で英語を理解していくことだ。それには日本語文法と英語文法でどこに違いがあり、ど
こに共通点があるかをみていく必要がある。アニアンズに頼るわけにはいかないし、欧米の最新の文法理論にも頼るわけにはいかない。
第2の点では、英文和訳のために作られた英和辞典から脱却する必要があるのは確かだと思う。語句の意味を調べるとき、英和辞典には問題が多すぎるし、英
英辞典は使い勝手が悪い。英英辞典の最大の問題は、アニアンズの5文型と同じ点、つまり英語の世界の感覚で英語の語句の意味を考えている点にある。英和辞
典はどうかというと、英英辞典を下敷きに、語義の部分、つまり語句の意味を示す部分を訳語に置き換えたものにすぎない。英語の語句が日本語の感覚でどうみ
えるかは考えていない。だから、どちらも訳読のために適切だとはいえない。
インターネットの発達で、大量の用例を簡単に検索できるようになり、全文データベースを構築して分析するのも容易になったが、これで辞書が不要になると
は思えない。新しい辞書の編集にあたって、用例収集が楽になったといえるだけだろう。訳読にふさわしい辞書が必要だとすれば、それはそれは大変な作業にな
るはずである。国家的な事業といえるほどの熱意と経費が必要になると思える。いま、辞書が売れなくなっているので、出版社が新しい辞書の編集に投資できる
とは思えないという事情もある。
第2の点は訳読を中学高校の英語教育に取り入れるには不可欠だと思えるが、もっと対象を絞り込めば、不要かもしれない。たぶん、訳読教育の対象になるの
は、その必要を痛感している社会人と学生だろう。この層を対象に民間の英語教育として訳読を行うのであれば、英会話学校に代わるほどではなくても、ある程
度の規模のある産業に育つ可能性がないわけではないと思う。
(2009年10月号)