第1回翻訳コンテストの結果発表
山岡洋一

決着がつかず、延長戦へ

 第1回翻訳コンテストは「最難関を目指す」と銘打っただけに、応募者があらわれるかどうか、心配していた。ところが案に相違して、10名の読者から11 の作品が送られてきたので、安心するとともに心強く感じている。

 残念だったのは、出版に使うにはあと一歩という作品が多かったことだ。そこで、この種のコンテストでは異例だろうが、再挑戦の機会を設けることにした。 再挑戦できるのは原則として応募いただいた10人だが、それ以外にも是非挑戦したいという読者がいれば拒まない。ただし、10人の応募者にはいくつかの資 料をお送りするので、新たな挑戦者にはハンディがつくことになる。

 延長戦の応募規定は以下の通りである。

応募要領
課題:J.S. Mill, Of the Stationary State全文(全文はここにあります)。
書式:所定のフォームでMSWordで作成
締め切り:2011年4月10日
送付先:電子メールの添付ファイルにて以下に送付
  GFC01200アットnifty.ne.jp (アットは@に変更)
電子メールの件名:翻訳コンテスト応募
電子メール本文に以下を明記ください。
氏名:
本名(氏名が筆名の場合):
住所:
職業:
電子メール・アドレス:

講評
 原文は19世紀半ばに書かれたものであり、センテンスが一般に長く、構造が複雑だという特徴がある。このため、一読しただけでは意味がとれないという部 分が少なくないはずである。

 こうした文章を訳すときには、第1段階として、原文の意味を明確に理解しなければならない。つまり、訳文を書く作業に取りかかる前に、準備段階が必要に なる。その際にカギになるのは、原文の構造をしっかりと理解することである。章全体の構造、個々のパラグラフの構造、個々のセンテンスの構造を理解しなけ ればならない。いわゆる構文解析が第1歩になるのである。この第1歩でつまづいた応募者が少なくなかった。

 原文の構造は理解できているはずなのに論旨が明確にならない場合、第1段階の原文の意味の理解でもうひとつの要点になる原文の語句の理解に問題がある可 能性がある。今回の課題では、章のタイトルになっているstationary stateという用語の理解が重要である。この用語の意味を十分に理解できていないと、論旨が理解できない。その際に無視できないのは、語句の意味に英和 辞書の訳語に示されるような表面の意味以外に、ニュアンス、含意と呼ばれる意味があることだ。たとえばこのstationary stateは良いことなのか、悪いことなのか、良くも悪くもない中立的なことなのか。そういう微妙なニュアンスを読み違えていると、章の全体にわたって意 味を理解できなくなりかねない。

 構文と語句の意味がある程度まで理解できれば、つぎに全体の論旨を考えられるようになる。原文は事実を伝える文章ではなく、考え方を主張する文章であ る。また、常識的な考え方を解説する文章ではなく、常識的な考え方を批判して、新しい考え方を提起する文章である。テーマはタイトルになっている stationary stateなので、これに関する常識的な見方を示し、問題点を指摘し、新しい見方を提示するという構成になっているはずだと予想できる。こうした全体の論 旨を理解したうえで、もう一度、個々の部分の構文と語句の意味を確認していくべきである。

 原文の意味の理解が第1段階だとすると、第2段階は原文の意味をしっかりと読者に伝えられる文章を書くことである。どのような文体でどのように書けば、 原文の意味を読者に伝えられるのだろうか。そう考えるとき、どのような読者に何を伝えようとするのかがポイントになる。

 この課題文のような古典の翻訳では、過去には想定読者も翻訳の目的もはっきりしていた。「原書購読」のための参考資料として訳書を使う読者を想定し、読 者が原文を読み解けるようにすることが目的だったのである。いわゆる翻訳調のスタイルはそのために最適化されていた。しかし現在では、「原書購読」のため に訳書を買う読者はおそらく、ほとんどいない。原著を読むか、訳書を読むか、どちらか一方だけだと考えるべきである。だから、原文を読み解けるようにする ことを目的とする翻訳調から脱却する必要がある。

 では、この文章を訳すときにどのような読者を想定し、何を目的にするべきなのだろうか。翻訳にあたってはこの点をしっかりと考えておくべきである。この 点の答えは各人で違っていてもいいのだが、文体や言葉を選ぶ際に、各人の答えにしたがって一貫性をもたせなければならない。

 以上では翻訳の過程を2つの段階に分けて考えていったが、実際のところはこの2つは絡み合っている。たとえば構文解析には学校で学んだ英文法の知識が不 可欠だが、英文法書を読みなおすという方法では、よほどの時間をかけないかぎり成果がでるとは考えにくい。それよりいいのは、自分の訳文を読みなおすこと である。読みなおしたときに、論旨が明快な文章になっているだろうか。原著者のJ.S.ミルは冗談のひとつもいえない不器用な人だったそうだが、論理的な 思考では誰にも負けないほど明晰だったという。だから、訳文に論旨が明快でない部分があれば、原文の読み違いである可能性が高い。そのとき、構文解析を間 違っている可能性が充分にあるので、文法書などを調べて確認してみるといい。こうすれば、おそらく構文解析の間違いをほぼなくせるはずである。

 語句の意味についても同じことがいえる。自分の訳文を読みなおしたときに自信がもてない部分、あやふやな部分、意味が通じにくい部分が探し出せれば、原 文の語句の意味を再検討するきっかけになる。自分が書いた文章を批判的に読むのは簡単ではないが、たとえば、想定読者に入る人に読んでもらって、分かりに くい点を指摘してもらう方法がある。適切な人が身近にいないのであれば、翻訳後に少し時間をおいてから読む方法がある。また、音読してみるのも良い方法 だ。音読して言葉につまる部分があれば、何かがおかしいという場合が多い。

 以上の観点から応募者の翻訳を読んでいったとき、全体的に気になった点がいくつかあった。

 第1は、上述の第1段階でつまづいた人が多かったことだ。古典を訳すときには、既訳があるので、少なくとも既訳よりも間違いを減らすことが読者に対する 最低限の義務である。応募者の訳文を読んでいったとき、コンテストのお知らせで「既訳は手に入りにくいので、無理をして入手する必要はないと考えます」と 書いたのは間違いだったと痛感した。既訳をしっかり読めば避けられたはずの間違いが散見されたからだ。例をあげよう。第3段落の第1センテンス、セミコロ ンの後に以下の部分がある(全文はここにある)。

for the tone and tendency of their speculations goes completely to identify all that is economically desirable with the progressive state, and with that alone.

 ここで2つのwithがなぜこの位置にあり、どのような役割を果たしているかを説明できない訳が多かった。既訳をしっかり読めば(あるいは辞書を丹念に 引くだけでも)理解できたはずであり、残念だった。

 また、第2節の第1パラグラフで、itが何を指すのかが不確かか、間違っている訳が目立った。たとえば以下のセンテンスのitである。

It may be a necessary stage in the progress of civilization, and those European nations which have hitherto been so fortunate as to be preserved from it, may have it yet to undergo.

 以上の例は構文解析の問題だといえるだろうが、もっと大きくみれば、この章全体の論旨をうまく把握できていないという問題だともいえる。論旨が明確に理 解できていて、全体の論理構造がつかめていれば、構文解析を間違ったとしても、訳文を読みなおしたときに、どこかがおかしいと感じたはずである。おかしい と感じていれば構文や語句の解釈を見直して、違った結論を導き出せたかもしれない。このようなフィードバックの仕組みがうまく機能していないと感じる訳文 が多かった。

 その点を象徴するのが、stationary stateの訳語である。全体の論旨に合わない訳語を使っている人が少なくなかった。

 そのなかで、出版品質にいちばん近いとみられたのは、EKさんの訳であった(優秀賞に選んだ場合には名前をだすが、現在の段階では頭文字にする)。全体 としてしっかりした文章になっているが、出版に使うにはおそらく20箇所ほどを修正する必要がある。たとえば、以下の部分は出版品質とは言いにくい。

第3段落
例えばマクロック氏にとって、繁栄とは富の大量生産でも正しい分配でもなく、劇的な増加以外の何物でもない。高い収益こそが繁栄の目安なのだ。繁栄とはす なわち富の増加であり、収益が落ち込めば経済の進歩は途絶え、結果として繁栄は終焉に向かうはずだと考えている。

 とはいえ、全体的に論旨が明快であり、問題点も概ね小さいと思える。欲をいえば、常識的な訳し方からもう少し大胆に飛躍して原文の意味を伝えるようにし てもいいと思う。前述のように、常識的な訳し方は原書購読の参考にする読者向けに原文を読み解けるようにすることを目的にしているので、原文が伝えている 点を訳文だけで理解しようとする読者向けの翻訳には適さない部分が少なくないからである。

 TSさんは2つの翻訳を提出してくれた。ただ、ですます調とである調の違いはあるものの、翻訳のスタイルや言葉の選択にはあまり違いがなかったのは残念 だった。2つの訳を作るのであれば、1つは常識的な訳語や訳し方からもっと大胆に飛躍した訳にしても良かったように思える。全体として翻訳の品質は高いと 思えるが、翻訳スタイルと語句の選択にもっと工夫がほしかった。とくに問題なのは、第1段落だ。翻訳では(どんな文章でもそうだが)、冒頭が肝心である。 冒頭がまずいと読者は読んでくれないことが多いのだ。

 MSさんの翻訳もあと一歩だと思えた。たが、2つの既訳を参考文献にあげているわりには、疑問符がつく部分がいくつかみられた。原文と既訳を慎重に読み 込めばもっと良くなったはずである。たとえば、以下の部分は、訳文だけを読む読者が意味を理解できるとは思えない。

第2段落
今では、この最終的な目的地はその全体が見えるほど近くにあるとか、すでにその直前まで来ているとか、ずっと前に到達していたのであれば、それは目的地の 方が私たちの前に飛んで来たからだとか認識されている。

 以上でとりあげなかった方の訳文にも、それぞれ素晴らしい部分があった。全体として、原文の理解にもっと時間を使っても良かったのではないかと思えた。

 もうひとつ、応募者全員の訳にいえることだが、ミルのこの文章で読者に何を伝えるのかをもっと考えるべきではないかと思う。

 ミルの『経済学原理』はほぼ150年前に出版され、その後50年以上にわたって、経済学の標準的な体系書として使われてきた。明治初めに日本人が経済学 を学びはじめたときには、これが最先端であった。しかしその後、マーシャルやケインズが登場し、第2次世界大戦後にはサミュエルソンが登場して、いまでは 経済学の大系を学ぶためにミルの『経済学原理』を読もうとする人はほとんどいなくなっている。経済学の歴史のなかで一時代を代表する書物にすぎなくなって いるのである。自然科学の感覚で経済学をとらえるのであれば、マーシャルらに乗り越えられたことがはっきりしている古い学説に興味をもつ理由はどこにもな いといえる。しかし、経済学は自然科学ではない。経済という目の前にある現実を理解しようとするとき、最新の経済の見方で納得できる答えが得られない場合 には、古い学説に戻って考えてみるのが常識である。昔の経済学で論じられていたのに、その後に忘れられてきた部分から、何らかのヒントが得られないかと考 えるからだ。だから、経済で何かの問題にぶつかると、70年前のケインズを読みなおし、200年以上前のアダム・スミスを読みなおそうとする。150年前 のミルの著作を読みなおすのも、ごく自然なことである。

 では、150年のミルの文章から何が学べるのか。翻訳にあたってはこの点を明確に意識して訳文を書いていくのが望ましい。勢いがあり、説得力がある訳文 になるかどうかは、かなりの部分、これで決まる。原文の構文や語句を正確に把握し、間違いのない訳文が書けたとしても、それだけで出版品質の翻訳になるわ けではない。翻訳とは執筆であり、読者に何かを伝えることが使命なのだから。

(2011年2月号)