読者からの投稿
 山岡洋一

大野一訳『闇の奧』第1章について

 
「翻訳通信」第98号(2010年7月号)で読者に投稿を呼び掛けたところ、すでにいくつもの投稿があり、心強く感じています。河原清志さんの連載は 100号記念号に依頼した寄稿の続きですから、読者投稿とは少し性格が違いますが、福田知美さんの「おすすめしたい韓国の本」という連載は読者から寄せら れたものです。11月号で福田さんが紹介した『わたしの英語勉強法』には出版社が関心を示していますので、今後、翻訳出版される可能性もあります。

 そして今月号では大野一訳、ジョゼフ・コンラッド著『闇の奧』の第1章を紹介できることになりました。中野好夫訳(岩波文庫)や藤永茂訳(三交社)、黒 原敏行訳(光文社古典新訳文庫)など、いくつもの既訳がある名著ですが、既訳にはない魅力があると判断して掲載することにしました。

 大野さんは『最強の経済学者ミルトン・フリードマン』(日経BP社)などの訳書がある若手翻訳者ですが、経済、政治といったノンフィクション分野から フィクションの分野に進出したいと考えているようです。

 コンラッド(1857〜1924年)はポーランド出身のイギリスの作家であり、20世紀初めに出版された『闇の奧』は代表作であり、傑作です。死後62 年以上が経過して著作権の保護期間が切れていますので、翻訳を自由に発表できます。そのため、「翻訳通信」で新しい訳を発表するにはまさにぴったりの作品 だと思えます。

 大野訳の『闇の奧』に関心をもたれた編集者には、山岡まで連絡いただけるようお願いします。大野訳の批評などの投稿も歓迎します。また、原著者の死後 62年を経過している著作の翻訳の投稿を歓迎します。大野一訳の『闇の奧』を読むと、ハードルが高いという印象をもたれるかもしれません。ですが、出版翻 訳は本来、ハードルがとても高い仕事です。ハードルが高いからこそ挑戦のしがいがあると考えてくださる方の投稿を歓迎します。

『闇の奧』は当然ながら縦書きになっていますので、以下に一部を紹介し、第1章全体は別ファイルとします。第1章全体(20ページ)はここをクリックしてください


闇の奥
ジョゼフ・コンラッド
大野一
 一
 小型帆船(ヨール)、ネリー号は錨を下ろし、あげた帆に音もなく、静かにたゆたっていた。潮が満ち、風はほとんどなく、河を下るなら、停泊して潮の変わ りを待つしかない。
 われわれの眼前には、果てのない航路のはじまりのようにテムズの河口が展がっていた。沖は継ぎ目なく空に連なり、まばゆい水面には上げ潮にのる艀(はし け)の灼けた帆、あかねの帆影の鋭く尖ったのがじっと群れているようで、ニスを塗った斜檣(スプリット)が光を返す。霞の立つなぎさは海原を匍い、どこま でも平らかにきえていく。グレイブズエンド上空は暗く、さらに奥に向かって影が寄り集まるようで、あの世界一の大都市は、そこだけ動かない重苦しい闇に包 まれているようにみえた。
 招待してくれたのは、船長を務める会社役員。舳先に立って海のほうを眺めるその後ろ姿を、われわれ四人はほれぼれと視つめていた。この河のどこを探して も、これほど船の似合う男はいない。船乗りにとって信頼の代名詞とも云える水先案内の風格を備えていた。この男の仕事場が、まばゆい水面ではなく、背後に けぶるあの闇のなかにあるとは、信じがたい思いがした。
 以前にもどこかで書いたが、われわれには海と云う絆がある。どれだけ会わなくても心が通じるだけでなく、相手の長話や説教さえも寛(ゆる)しあえる気持 ちになる。弁護士は昔気質の好い男、年長者の威厳と人柄でデッキにひとつのクッションをとり、船にひとつの敷き物に寝そべっている。会計士は早くも骨牌 (ドミノ)の箱を取り出し、重ねた牌をまさぐっていた。マーロウは船尾に胡坐をかき、後檣(ミズンマスト)に凭れている。