翻訳とは何か―研究としての翻訳(その8)
河原清志
文化翻訳論(1)

「翻訳」という言葉はさまざまな意味合いで使われる。102号では通常の意味での「翻訳」(ある言語テクストを別言語テクストに訳す営為)を取り上げて、 「翻訳とは○○である。」というテーゼの探究を「翻訳の社会的役割論」として論じた。本稿では、「翻訳」という概念をメタファーとして使って世の中の事象 を説明する諸理論を検討し、それらが通常の意味での翻訳を論じるうえで有効かどうか探ってみたい。

翻訳とは何か―翻訳概念の多義性
 翻訳とは実に多義的な概念で、その定義を専門的に規定することも、翻訳(研究)の対象を特定することも難しく、結局のところ、人間の営為はすべて翻訳で ある、とさえ言うこともできるかもしれない。

人間存在そのものが、本質的に「異領域間」的であり「翻訳」的だともいえる。
(大橋 1993, p. 32)

とは極端な見解であるが、その背後には「異文化間」の出会いおよび交流を、広義の「翻訳」と捉えて翻訳概念の脱構築を行う企てがある。そして、

一般に「文化の翻訳」は、芸術や思想のそれであれ制度や技術のそれであれ、「同じ次元 内」での水平的な移し−置きである。それに対して異領域間でなされる翻訳は、「異次元間」の移し−置きである。ふつうの意味での翻訳においては、原書と訳 書とでは言語は異なっているが、あくまでも同一性の保持が基軸となる。しかし異領域間の翻訳に際しては、むしろ作品の差異化がより重要な眼目となる。           (大橋 1993, p. 31)

とあるように、異領域間・異次元間を行き来することも翻訳であり、その意味で人間の「生死」そのものが翻訳であると大橋は言う。
 このように「翻訳」概念はメタファーとして使う限り、果てしない可能性を秘めているし、その可能性を追求して本来の意味での「翻訳」へ逆照射することで 見えてくるものがあるのかもしれない。
 そこで本稿ではもともと人類学の営為として提唱された<文化翻訳>を鍵概念として、メタファー(喩)としての「翻訳」を探ってみたい。

翻訳とは何か―翻訳の射程の可能性
 拙著「概説書に見る翻訳学の基本論点と全体的体系」(2011)で「何を翻訳とするか?」について「翻訳」概念の多様性を論じた。

翻訳の定義、射程(記号間翻訳・言語内翻訳をどこまで含めるか)、類似概念との峻別 (trans-literation、trans-creation、trans-editing、adaptation、localization、 appropriation等との区別)――何を以って翻訳とするかが争点となる。文学翻訳をプロトタイプとして、同心円状に非典型的な翻訳形態が布置さ れる。その外円には文化(の)翻訳と言われる、記号間翻訳が存在し、他方で翻訳類似概念(adaptation、localization、 appropriationなど)もそこに布置され、隣接領域と境界画定を明確化すべきか、接点領域を拡大すべきかが問題となってくる。さらにその外円に は翻訳をメタファーとして捉える見解、つまり社会的事象を翻訳と看做したうえで当該社会現象を分析する学派が存在することになろう。いずれにしても、翻訳 学がその射程をどう(トゥーリーのいうように規範的ではなく記述的に)定めるのか、今後の動向に注目したい。   (河原 2011)

 これを敷衍してさらに細分化した図で示すと以下のようになるだろう(但し、これはあくまでもモデルであって、境界線は極めて曖昧であるし、クリアーに割 り切れるものではない)。

翻訳概念図

(a) 翻訳     :テクスト → テクスト
(b) ローカリ   :商品   → 商品
(c) 文化翻訳   :文化現象 → テクスト
(d) 喩としての翻訳:社会現象 → 翻訳への見立て


 これを概念規定すると、異論もあろうが、ひとつのモデルとしては以下のようになるだろう。
(a)翻訳:
翻訳者が元の言語(起点言語)での原語書記テクスト(起点テクスト)を他の言語(目標 言語)で書かれたテクスト(目標テクスト)に変えること。(Mundayによる定義)
(b)ローカリゼーション:
ある製品を、それが販売され使用される目標となる場に持ち込み、言語的かつ文化的に適 切なものにすること。(LISAによる定義)
(c)文化翻訳:
特定の文化の「意味」を解釈し、それを他者へ伝達すること。(Geertzによる定 義)
(d)喩としての翻訳:
翻訳を比喩として使うことで、社会現象を分析し説明すること。

 そして、ヤコブソンの翻訳3類型は以下のとおりである。

(1) Intersemiotic Translation: 記号間翻訳(ある記号を別の記号で表現する)
(2) Interlingual Translation: 言語間翻訳(ある言語を別の言語に翻訳する)
(3) Intralingual Translation: 言語内翻訳(ある言語内で言い換えをする)
(Jakobson 1959/2000, p. 139)

 これに照らして(a)〜(d)を分析すると、以下のようになるだろう。

(a)(狭義の)翻訳:(2)言語間翻訳
  translating “text” as “text”
(b)ローカリ:(2)言語間翻訳、または(1)記号間翻訳
  translating “product” as “product”
(c)文化翻訳:(1)記号間翻訳
  translating “culture” as “text”
(d)喩としての翻訳:(1)記号間翻訳(?)
  explaining “social reality” as “translation”

 まず、(a)(狭義の)翻訳は(2)言語間翻訳と言える。精確にはtranslating “text” in one language as “text” in another language となる。翻訳のプロセスに着目すれば、translating “text” into “text”と言えるが、ここでは翻訳とは解釈したものを表現する等価構築行為と考え(英語の“as”は「等価」を中核的語義とする)、 translating “text” as “text”としている。
 (b)ローカリゼーションは、言語面に着目すれば(2)言語間翻訳であるし、広く新たなロケール(locale;製品の最終的な使用における言語的、経 済的、文化的な要素の集合)に向けた製品の準備ととらえれば、(1)記号間翻訳であるとも言える。
この(a)と(b)はいわゆる「翻訳学」がその研究対象にしているものであり、本稿ではこれ以上詳述しない。本稿では、人類学や社会学に端を発する(c) や(d)に着目したい。

翻訳とは何か―文化の翻訳について
 草稿ではあるが、拙著「文化の通訳・翻訳」(2012年刊行予定『異文化コミュニケーション事典』春風社)に、以下のように記した。

 「文化の翻訳」とは、特定の文化の「意味」を解釈し、それを他者へ伝達するという、 文化人類学における研究営為を指す言葉として使用されてきた。クリフォード・ギアツ(Clifford Geertz)は、様々な文化的事象は、共同体の成員にとっての「意味」を運ぶ「象徴」であり、「文化」とは、そうした象徴の結束性を持った連なり(広義 の「テクスト」)であるとした。人は、生についての知識や生に対する態度(すなわち「意味」)を、そのような象徴の中に読み取り共有し、それを通して生を 意味付けしていると捉えた。「文化の翻訳」とは、そうした特定の共同体の成員が織り出すテクスト、言い換えれば、彼ら彼女らが書いたテクストの中に、彼ら 彼女ら自らがどのような「意味」を読み取っているかを読み取る行為、解釈を解釈するという多層的な解釈の過程自体を指している。
 つまり、このような学説に依拠すれば、特定の文化的意味を解釈し、それを言語によって記述・説明することも「翻訳」となる。記述・説明のための言語は、 その文化の言語であっても、他言語であってもよいことになるし、即時性を重視するならば、記述・説明を口頭や手話で行うことを「文化の通訳」と解しうる。 このように広義に捉えると、外国文化などの記述、説明、展示といった日常的な実践も、広く文化の通訳・翻訳に含めることができよう。異文化コミュニケー ションの円滑な実現という文脈で捉えなおすなら、文化の翻訳とはバイ・カルチュラルな媒介活動のすべてとも考えられ、今後、メタファーとしての文化の「通 訳・翻訳」の議論が多分野で展開されるだろう。
 ところが、ある言語で書かれた固定したテクストを別の言語に変換すること(言語間翻訳)を典型的な「翻訳」だと考える翻訳学の学説のなかには、起点テク ストが不在で目標テクストも固定しない「文化(の)翻訳」を、翻訳に類似した概念である翻案などと同様、翻訳研究の対象から一線を画して考えるべきだとい う主張もある。しかし、翻訳を言語テクストから解放した文化翻訳の研究は、翻訳者の仲介的位置、文化的異種混淆性、異文化形成作用、文化的越境性などを扱 い、文化的プロセスや翻訳主体に注目した翻訳研究の新たな潮流にもなっている。

 「文化翻訳論」を議論してゆくうえで、このような流れが、人類学に依拠しつつ異文化コミュニケーション学へ敷衍し、かつ翻訳学へ落とし込むひとつの論調 になると筆者は考えている。
 加藤(2010)によると、「文化の翻訳」はE. E. エヴァンス=プリッチャードが1950年のレクチャーでこの語を使用したことが最初だという。

人類学者は……彼ら[未開民族]の言語を学び、彼らの観念によって考え、彼らの価値観 に従って感ずることを学び取ります。そこで、人類学者は、自分の文化の、概念上のカテゴリーや価値観によって、また人類学の全般的な知識によって、未開人 との生活体験を、批判的に捉え、これに解釈を加えていくのです。言いかえますと、人類学者は、一つの文化を別の文化に翻訳するわけです。      (エヴァンス=プリッチャード 1971, p. 22)

 小泉(1984)をまとめると、以下のようになるだろう。つまりクリフォード・ギアツ(Clifford Geertz)によると、「意味」とは、知覚・認識・感情・情念・理解・判断・道徳などを含む思考一般である。そしてギアツは意味の運び手を表す「象徴」 という概念と結びつけ、「文化」を象徴と意味のシステムであるとした。象徴とは人が生についての知識と生に対する態度を伝達し存続させ展開する手段で、そ の象徴に表現される概念が歴史的に継承されて作るシステムが文化である。そして、象徴によって導かれ組織された行動というダイナミックに創出される象徴 (広義のテクスト)を読み解くことが文化の翻訳である。つまり、特定の文化で行動する人々が自ら書いたテクストを自らどう読み取っているかを読み取るこ と、理解を理解し、解釈を解釈するという構築行為が解釈人類学における「解釈」である。
 このように、荒っぽく言えばギアツは、「文化」を「テクスト」と看做し、その広義のテクストを(狭義である)言語テクストで記述・説明することが文化の 翻訳であるとしている。

特に近年はテクスト(text)という語が使われるが、これは文化を解釈することが、 ある暗号的コードの裏に隠され固定された意味を、あたかも考古学者が遺跡を見つけ地質学者が地層を掘り出すように、あらかじめそこに存在する「なまの事 実」として再発見することではなく、あたかもテクストを読みとるように、そこにダイナミックに創り出されつつある意味を再構築することであるということを 主張している。つまり文化の分析とは、テクストという「何かについて何かを言っている」(saying something of something)ものを、解釈を構築するという意味で読取ろうとするようなものである。ただしこのテクストは文字や言語ではなく行動によって書かれて いる。この「行動によって書かれたテクスト」というのは、必ずしも比喩ではない。というのは言語や文字ばかりでなく行動も、それが意味を運ぶかぎりにおい て象徴だからである。そこでこのテクストは、象徴によって導かれ組織された行動というダイナミックな象徴によって書かれていることになる。
(小泉 1984, pp. 249-250)

 ここで、「テクスト」を「記号」、すなわち「人間が『意味あり』と認めるものすべてのこと」と読み替えてしまうならば、狭義の翻訳も文化翻訳に包摂され うるし、文化翻訳も記号の意味づけ行為(という構築行為)として捉えることができる(翻訳通信105号拙著「カセット効果論(1):無限更新的意味生成の 営み」参照)。このことは、

喩としての翻訳。[...]情報伝達にさいして情報の発信者と受信者が個別に遂行する のは、つねに一種の翻訳行為―自己の「内面」の翻訳、および情報媒体の翻訳―である以上、いかなる言表、伝達、解釈であれ、それは一種の「翻訳」と解され てきた。(真島 2005, p. 10, p. 34)

とも相通じる「翻訳」概念の捉え方ともいえるだろうし、小山(2008)の社会記号論系言語人類学による翻訳の理解(小山 未刊行)とも合致するだろう。この点において、「文化翻訳:translating “culture” as “text”」の“culture”を“text”と捉えなおすことで狭義の「翻訳」と連続した地平で議論ができることになるし、文化翻訳における解釈の 構築性を狭義の翻訳に逆照射し、構築行為としての等価のダイナミズムを捉えた翻訳理論の展開も可能となる。では、その実益はいかなるものだろうか。

翻訳とは何か―文化の翻訳と言語の翻訳
 加藤(2010)は、人類学の難しさを、大きく2つの側面に分けている。

 一つには、ある言語体系内で初めて成り立つ思考を、他の言語体系に「移し変えて」表 現することの難しさである。[...]この種の「翻訳の問題」は、「言葉」というものに依拠する学問(人文・社会科学)一般と文芸活動に広く見られるもの であり、特に文化人類学的とはいえない。
他方で、リーンハートは、「ペリカンは私の兄弟だ」といった「未開人」の発言を、どんなに辞書的に正しく翻訳しても意味はないという、人類学に独特の「翻 訳」事情も指摘する。そして肝心なのは、このような一見とっぴな等式を、「〜のようなもの(アナロジー)」の関係としてではなく、まず現地人のように「同 一のもの」の関係として肯定することだという。これは言い換えれば、慣れ親しんだ論理をいったん離れ、現地人の思考を直感的に理解せよということのようで ある。 (加藤 2010, pp. 114-115)

 この点を筆者なりに敷衍してみたい。前者の難しさは言語表現全般にあてはまることだと言える。これは文化フィルター(Katan1999/2004)が モデル化を通して機能するのと同じであると考えることもできる。

すべてのフィルターは同様にモデリングを通して機能する。モデルは通常、例えば「現 実」のような複雑なことを単純化しその意味を理解するうえで役に立つ方法である。あらゆるモデルはBandler and Grinder (1975) によれば、3つの原理から成り立っている。削除、歪曲、一般化である。人間がモデル化を行う場合、われわれは現実に行われていることすべてを知覚すること はできない(削除)。またわれわれが目にするものを選択的に焦点化し、それを既知のものや目を引くものへと適合する傾向がある(歪曲)。そして細部は自分 自身のモデルから埋め合わせをしたり、突出した差異をなだらかにしたりして(一般化)、結果として出てくる「世界の地図」を有益なものにするのである。 (Katan 2009、翻訳は筆者による)

 つまり、ある現実(reality)を言語によって表す場合(翻訳対象たるテクストもここにいう「現実」と考えることもできる)、すべてをそのまま(別 の)言語に移し変えることは原理上不可能であって、文化フィルター(ないしモデル)を通して何らかの削除・歪曲・一般化が起こる。また、語られること(翻 訳物も含む)はその現実の一部であり(言語はパートノミーである、という言い方ができる)、その現実は話し手(書き手)が現実として把捉したことの構築結 果でもある。さらに語られたこと(言説)がコミュニケーション行為を通して伝達されたり伝播し、それが反作用的に現実を規定することで、その現実も無限更 新的に意味の改変が行われる(翻訳の対象たる原テクストの意味解釈の改変を含む)、という構築主義的な捉え方に立つと、翻訳を含む表現行為の一般論とし て、学問一般の問題意識を共有することもできよう。
 また、前者のうち「他の言語体系に移し変えて」という箇所に着目すれば、サピア・ウォーフ仮説の言語相対性の問題も浮上する(加藤の前半の指摘はこの点 だといえる。但し、同仮説の本義は言語構造・語用論的無意識・使用者の言語意識という三者間の相関と齟齬に関する一般理論を言う。小山 2011, pp. 10-15)。さらに、ここにいう「言語」を国民国家=民族言語=文化という近代主義的捉え方から解放した考え方を基盤にすれば、言語的多様性の今日的な 議論とも接合可能であろう(しかし、この点は本稿では立ち入らない)。
 以上、前者の問題に関しては、およそ言語表現一般が抱える根深い論点を深く追究することで、翻訳に伴う難しさをさらに深く議論することが可能になると思 われる。
 後者の難しさに関しては、青木保が『文化の翻訳』のなかで詳述している。

ロドニー・ニーダムが引き出す問題は次の3点に集約される。すなわち、
(1)英語のbeliefが外国語に逐語的に翻訳されるとき、それらの語に与えられる意味の多様さは驚くばかりで当惑せずにはいないこと、
(2)他の言語と比較する場合、その語に含まれるさまざまな意味の組み合わせの中から一つだけ特別の意味を引き離して捉え、それを英語beliefの等質 語として示すことは一見可能なようにみえても、それらの意味に対して英語による一つの解釈が根本的に異なるような言語もあって、翻訳に相当するとされた語 のもつさまざまな含意の中の一つだけを決定的なものとして取り上げることは不適当であること、
(3)ヌアー人の場合にみられるように、英語のbeliefに相当する言語概念がまったく存在しない言語があること、の三点である。
[...]ここに引用した検討から推量しうることからみても、翻訳の問題が人類学的認識の根幹に横たわる問題であることは理解される。
(青木 1978, pp. 57-58)

 この指摘は狭義の翻訳にも当てはまるのではないだろうか。つまり、青木(1978, p. 51)も言うように、異質の言葉・概念を母国語におけるそれによって「読み込んで」しまったり、人類学者(あるいはこの場合、翻訳者)それ自体が自分の文 化的偏向をすでに有しているという事実がある。言語が「象徴による文化への手引き」(サピア)であるならば、この手引きには常に両刃の剣が隠されていると いうべきなのだろう。
 そして、このことは加藤(2010)によると、大塚和夫のいう、フィールドワーク中に「明確な言葉での整理ができないまま、『なんとなくそんなものか』 といったかたちで、納得してしまう『理解』」、あるいはアルフレッド・シュッツのいう、論理的というより身体感覚的な「異文化の第一次的理解」、または青 木保のいう、「論理的−構造的な理解」に対する「直感的−メタファー的理解」といった、言語体系外の「生活実感」と呼べるものに依拠する割合が高い文脈で は特にそうであろう。コミュニケーションの重要な手段である五官による言語的・非言語的活動も、文化による型づけを受けていることによって、総体としての 文化が果たして他の総体へ翻訳されるものなのかという根本問題は、人類学だけでなく、翻訳学も常に自ら突きつけなければならない剣なのであろう。

翻訳とは何か―喩としての翻訳など
 文化人類学(アメリカ)ないし社会人類学(イギリス)におけるメタファーとしての「翻訳」=「文化翻訳」の考え方の典型は、文化自体を解釈可能なテクス トと見立て、それを言語テクストによって記述・説明すること、また解釈を解釈し記述するという複層的構築行為であり、この学問領域が問題意識として有して いる論点を共有することは翻訳学にとっても実益があることを以上で少し検討した。
 次号では異領域間の翻訳(大橋良介編『文化の翻訳可能性』)、翻訳社会学(ピム『翻訳理論の探求』)、ポストコロニアリズム(スピバク、バーバ、ニラン ジャナなど)を検討した上で、これらの「喩としての翻訳」の諸理論を翻訳学から総括する試みを行う予定である(Baker and Saldanha 2011 所収の“cultural translation”も参照)。「人間の営為はすべて翻訳である」という冒頭に掲げたテーゼが「翻訳とは何か」の探究に資し、延いては異文化理解や異 文化コミュニケーションに貢献することを期待したい。(但し、異文化コミュニケーションが孕むドグマは脇へ置くとして…。)
 最後に青木(1978)が文化翻訳者の使命について述べている箇所を引用したい。

ベンヤミンにならっていうならば、人類学者の使命は、異文化のなかに鎖されているあの 純粋文化を翻訳固有の文化のなかに救済すること、異文化のなかに囚えられているこの純粋文化を翻訳のなかで解放することにあるといってよいのである。
(青木 1978, p. 171)

参考文献
青木保(1978)『文化の翻訳』東京大学出版会
Jakobson, R. (1959/2004). ‘On linguistic aspects of translation’. In L. Venuti (ed.). (2004). The translation studies reader. 2nd edition. London & New York: Routledge.
Katan, D. (1999/2004). Translating cultures: An introduction for translators, interpreters and mediators. Manchester: St. Jerome.
―――(2009). Tranlsation as intercultural communication. In J. Munday (ed.). The Routledge companion to translatin studies. London & New York: Routledge, pp. 74-92.
加藤恵津子(2010)「自文化を書く―だが、誰のために?『文化の翻訳』をめぐるネイティヴ人類学徒の挑戦」山本真弓(編著)『文化と政治の翻訳学:異 文化研究と翻訳の可能性』(109-143頁)明石書店
河原清志(2011)「概説書に見る翻訳学の基本論点と全体的体系」日本通訳翻訳学会・翻訳研究育成プロジェクト(編)『翻訳研究への招待』第5号:53 -80頁
http://honyakukenkyu.sakura.ne.jp/shotai_vol5/03_vol5-Kawahara.pdf
小泉潤二(1984)「解釈人類学」綾部恒雄(編)『文化人類学15の理論』(243-262頁)中公新書
小山亘(2008)『記号の系譜:社会記号論系言語人類学の射程』三元社
―――(2011)『近代言語イデオロギー論:記号の地政とメタ・コミュニケーションの社会史』三元社
―――(未刊行)「社会言語学的多様性と翻訳不可能性:メタ語用、言語変種/接触、社会指標性と記号論的全体」
真島一郎(編)(2005)『だれが世界を翻訳するのか:アジア・アフリカの未来から』人文書院
大橋良介(編)『文化の翻訳可能性』人文書院