辞書とコーパス


翻訳のインフラストラクチャー

新しい英和辞典の構想


1. 辞書はありがたい

 英和辞典がなかったら、翻訳という仕事は成り立たない。わたしはそう考えている。

 そんなことはない。辞書なぞなかった時代に翻訳に取り組んで、すばらしい仕事をした人が何人もいるではないか……。そう反論されるだろうか。

 たしかに。辞書の歴史はせいぜい数百年、翻訳の歴史は数千年である。だから、少なくとも今のような辞書がなかった時代に、翻訳史にのこる業績がいくつも生まれている。

 しかし、そうした翻訳をのこした人たちは、わたしのような凡人ではなかった。翻訳史に名を連ねるような天才なら、どの時代でも、辞書なぞに頼ることはないだろう。こういう人たちはごくごく一部の例外である。少なくとも凡人にとって、英和辞典がなかったら翻訳という仕事が成り立たないのは事実である。

 辞書がなかったら、凡人が翻訳の仕事をできるとは思えない。こういうと、別の方向からもお叱りを受けそうな気がする。翻訳というけど、そんなことより、そもそも外国語を学習することができたのか……。

 こうお叱りを受けたら、素直に頭を下げるしかない。英語圏に住んだことも、旅行したことすらもなく、「ネイティブ」の友人すらろくにいないくせに、英文を読めば理解できると、勘違いにせよ胸をはれるのは、わたしがこれまで辞書に頼りきってきたからだ。

 辞書がなければ、凡人には翻訳はおろか、外国語をなんとか学習することすらできない。

 だから、辞書はありがたい。だから、辞書は貴重である。
 

2. 英和辞典に文句をつける理由

 だったら、お世話になりっぱなしの辞書には、ひたすら感謝、ひたすら崇拝かというと、そうではない。それどころではない。

 辞書なぞ引かなくても、外国語の言葉の意味をつかめる方なら、辞書に少々欠陥があっても、笑ってすませられるだろう。辞書に頼りっぱなしの凡人にとっては、辞書に問題や欠陥があると、ことが深刻になる。

 辞書には欠陥があり、問題がある。とくに、英語学習者にとって、平凡な英和翻訳者にとって頼りの綱である英和辞典には、欠陥があり、問題がある。

 いちばんの問題は、英和辞典が英英辞典の下手な翻訳にすぎないことだ。英英辞典と既存の英和辞典を何冊かずつ並べておけば、英和辞典は執筆できる。英英辞典に書かれている語義を読んで、それにあてはまる訳語を既存の英和辞典から選びだせばいい。これで「権威ある」英和辞典ができあがる。

 こうしてできあがる英和辞典には、根本的なところにいくつかの欠陥がある。

 第1に、参照したはずの英英辞典に書かれていた語義が抜け落ち、代わりに訳語だけが示されている。たとえば、periodicという形容詞を英英辞典のRandom Houseで調べると、1 recurring at intervals of timeと書かれている。これが語義である。日本語に訳せば、「間をおいて反復する」とでも訳せるだろうか。この辞書に基づいて作られたランダムハウス英和大辞典では、この部分は「周期的な、反復して起こる」となっている。これは訳語であって、語の意味ではない。

 外国語を学ぶとき、だれでもやれといわれた経験があるものに、単語カード作りがある。それが一歩進むと、単語帳になる。単語カードも単語帳も、外国語の単語を書いて、それに対応する訳語を書いていく。外国語の単語と日本語の単語を1対1対応で記憶することが目的である。

 既存の英和辞典をみて、単語帳を大きくしたものだという印象をもつのは、わたしだけだろうか。

 英英辞典は、英語の単語の意味を英語で解説している辞典である。だったら、英和辞典は、英語の単語の意味を日本語で解説してほしいとわたしは思う。現実の英和辞典はそうはなっておらず、英単語訳語辞典になっている。

 訳語辞典では役に立たないとはいわない。訳語辞典と銘打ってあれば、それなりに役に立つものになるだろう。もっとも、役に立つためには、あげられている訳語がしっかりしたものでなければならない。この点が第2の問題になる。

 第2の問題は、英和辞典にでている訳語が、古すぎたり、かたすぎたり、微妙に違っていたりすることが多い点だ。要するに、英語の単語のイメージには合わない訳語が示されているケースが多い。

 英和辞典というのはじつのところ、英単語訳語辞典であるのに、肝心の訳語に不適切なものが多い。これでは、英語学習者は英語の単語の意味もイメージもつかめないし、語彙が貧弱で辞書に頼りたくなるわたしのような翻訳者は、訳語の選択に四苦八苦することになる。

 英単語訳語辞典なら訳語辞典らしく、しっかりとした訳語を集めて欲しいと思う。

 第3に、英和辞典と銘打つなら、英語の単語と日本語の訳語の間に、どのような意味の違いがあるのかを教えてほしい。外国語を学ぶとき、これは決定的な点である。

 たとえば、brotherにあたる日本語はない。「兄」や「弟」はbrotherとは意味範囲が違う。英語のbrotherでは考えもしない「年上か年下か」という判断基準が加わっているからだ。

 これに似た点は、基本的な言葉にはすべてある。専門用語の一部には、英語の単語とその訳語で意味範囲がまったく同じ(はず)と考えられるものがある。しかし、日常的に使う言葉なら、1対1対応になっているはずがない。

 語感の違いという問題もある。この点になると、辞書はまったくお手上げ状態になる。
 

 語義や語感を知りたければ、英英辞典を使うとか、英語を大量に読むとか、もっと骨身惜しまず努力しろという見方もあろう。英和辞書の訳語に不満なら、もっと日本語の語彙を増やすよう努力しろというお叱りもあろう。

 しかし、これでは辞書がなかった昔に戻れというに等しいと思う。もっといい辞書があれば、英語学習も翻訳もうんと楽になるだろう。英語学習者にとっても、翻訳者にとっても、英語というのは道具にすぎない。道具を使いこなすのに一生かかるようなことでは、何の意味もない。
 

3. 新しい辞書の構想
 

 そういうわけで、これまでにない新しいコンセプトの英和辞典が欲しいと思っている。誰も作ってくれそうにないから、自分で作ってみようとまで思っている。

 わたしがいま考えている新しい辞書は3種類ある。第1が本格的な英和辞典、第2が英和語義・訳語辞典、第3が英和用例訳語辞典である。ひとつずつ簡単に紹介していこう。

 第1の本格的な英和辞典は、要するに、「基本語の意味を考える」でやっている作業をもっと精密にして積み重ね、辞書にするものである。

 「基本語の意味を考える」は、方法がまだ幼稚だし、用例の数は少ないし、出典も1つしかないが、それでも、英語の単語と日本語の単語の間に、どのような意味範囲の違いがあるのかを探ろうとしている。

 分析方法をもっと練り、用例と出典を増やし、語数を増やしていけば、辞書になるだろう。

 この方法にはたったひとつだけ問題がある。それは、時間である。

 いまの幼稚な方法ですら、1つの語義を考えるのに、1日以上かかっている。かりに、もっとスピードがあがって、1日に1語を処理できるようになるとしよう。1年間かかりきりで365語、10年で3650語、100年で36,500語、300年でほぼ10万語になって、辞書らしい形ができあがる計算になる。300年はいくらなんでも長すぎて、まともに取り組む気にはなれない。100人がかりなら3年でできる計算になるが、現実性があるとは思えない。

 第2の語義・訳語辞典は、要するに、英英辞典のまともな翻訳版を作ろうという発想である。定評のある英英辞典の翻訳権をとり、語義を全訳する。語義の後に、まともな訳語を並べていく。

 この方法だと、3年から5年で一応まともな辞書ができると思われる。しかし、これには、版権の問題があるので、出版社の全面的な関与が必要になりそうだ。つまり、この案を実現させるためには、出版社を説得しなければならない。1枚にもならない企画書をもって、肩書も権威もないどしろうとが出版社をまわってみても、のってくる出版社があるとは思えない。だから、比較的簡単な方法にみえるこの第2案は、実際には実現不可能だと思える。

 第3の英和用例訳語辞典は、用例を集め、まともな訳語を集めて、辞書を編纂する方法である。この案の核は、用例を大量に集めることにある。100万の用例を集めることができれば、かなり役立つ用例辞典ができる。

 いまの楽観的な計算では、ほぼ10年をかければ、この辞書が完成するだろう。もちろん、ひとりで用例を100万も集めることはできないので、何人ものに助力をお願いすることになる。用例集めの基準がしっかりし、マニュアルが整備できれば、数十人で一度に用例収集に取り組むこともできるだろう。

 問題はふたつある。用例収集のコストを負担できるか、集まった用例の品質を一定以上に維持できるかである。

 この2つの問題を解決するためには、用例収集に年月をかけるしかないように思う。10年を目標にするのはこのためだ。これなら、用例収集に8〜9年かけられる。年間のコストも、品質管理に必要な労力も、負担できる範囲内に納まりそうだ。

 というわけで、当面、現実的な案として追求できるのは、第3の案だけである。
 

 現時点ではまだ、用例を数千集めただけにすぎない。用例集めの基準をいま、固めているところである。もう少したてば、収集の作業を何人かにお願いするつもりだ。1年もたって用例収集が軌道にのれば、人数を増やしてペースをあげることができるようになるだろう。

『翻訳通信』第1期1995年3月号より

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