翻訳ベスト50候補名訳とは
 

名訳の選択基準

山岡洋一


名訳とはもちろん、すぐれた翻訳である。では、劣った翻訳や並みの翻訳とすぐれた翻訳の違いはどこにあるのか。言い換えれば、翻訳の善し悪しを判断するときの基準はどこにあるのか。

たぶん、こう考えたときにすぐに頭に浮かぶ基準は、2つあるはずだ。ひとつは、誤訳が少ないことという基準だ。もうひとつは、読みやすいこと、分かりやすいことという基準だ。

だが、この2つの基準はどちらも、明治以来の伝統である「後進国型の翻訳」を前提にしたものであり、いまの時代には相応しくないと思う。いまの時代に相応しい基準は誤訳が少ないことでも読みやすいことでもない。「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思えるものになっているか」だと考える。

誤訳が少ないこと、読みやすいことという2つの基準がいかに根強いかは、どういう形で翻訳が話題になるかを考えればすぐに分かる。雑誌記事や本などで目につくのは、「あなたも翻訳家になれる」といった学習者向けのものを除けば、誤訳の指摘だ。たぶんいちばん有名なのは『翻訳の世界』に20年にわたって連載されていた別宮貞徳の「欠陥翻訳時評」だろうが、ごく最近でも『文藝春秋』に誤訳指摘に記事が掲載されたり、資本論の誤訳を指摘した古い本が復刊されたりしている。誤訳指摘はつねに一般読者の関心を集めるようだ。

もうひとつの読みやすさという基準は、雑誌の記事や本のテーマになることはまずない。しかし、たとえば翻訳書の書評で翻訳の質が取り上げられるとき、誤訳の指摘でなければ、たいていは「訳文はこなれていて読みやすい」といった申し訳程度の一文が最後に付け加えられる形になっている。それに、仲間うちで本の話をするとき、翻訳物のときは、「読みやすかったよ」が褒めるときの決まり文句、「難しくてね」か「読みにくかったよ」がけなすときの決まり文句になっている。

後進国型翻訳とは

この2つの基準がどちらも「後進国型の翻訳」を前提にしているというと、いったいなぜなのかと疑問になるだろう。なぜそういえるのかを論じだせば、大論文になってしまうので、かいつまんで説明するに止めておこう。

明治以来、日本は翻訳によって欧米の進んだ知識や技術を取り入れる方法をとってきた。外国語で学ぶのではなく、翻訳によって母語で学ぶ方法をとった。欧米各国を除けば日本が世界ではじめて近代化を達成できたことと、やはり欧米各国を除けば、日本が世界でもめずらしく、母語で高等教育をすべて行える国であることが無関係だとは思えない。日本は欧米列強の植民地にならなかったごく少数の国のひとつであり、この点で、翻訳はきわめて大きな役割を果たしたといえるはずである。

だが、欧米の進んだ知識や技術を取り入れようと必死になっていた時期、欧米と日本の文化の差は極端に大きかった。欧米は理解などとてもできないと思えるほど遠い存在だった。そして、言語の違いも極端に大きかった。理解などとてもできないと思えるほど遠くむずかしい知識を、しかも極端に構造や性格が違う言葉で書かれた知識を、どうすれば取り入れることができるのだろうか。

この難問にぶつかったとき、日本にはすでに異質な文明、進んだ文明から学ぶ伝統があった。日本は中国や朝鮮半島の進んだ文明から1000年以上にわたって学んできた伝統があった。そのときにとられた漢文訓読の方法を応用して作られたのが、いわゆる翻訳調である。

その後、翻訳調が通常の日本語に影響を与えて近代日本語とでも呼ぶべきものが形成され、翻訳で作られた語によって日本語の語彙が豊かになったうえ、翻訳に使われる文体や語彙も近代日本語に近づいてきた。このため、翻訳の日本語と普通の日本語の違いはかなり薄れてきたといえる。だが、翻訳が漢文訓読に近い方法で行われてきたことの影響は、いまでも随所に残っている。

なぜ誤訳に関心が集まるのか

影響のひとつは、翻訳というものの役割に関する見方にみられる。

理解などとてもできないと思えるほど遠くむずかしい知識を、しかも極端に構造や性格が違う言葉で書かれた知識を、ほんのわずかでも理解できるようにすることが明治以降の翻訳の役割であった。翻訳者に期待されていたのは、理解することなどとてもできないはずの原文を、原文の表面を、忠実に訳すことであった。

漢文訓読について考えてみると、正解はひとつしかないと思えるはずである。言葉というものはそれほど簡単なものではないので、漢文訓読でもじつはいくつかの答えがありうる部分が少なくないはずだが、少なくとも英文和訳と比較すると、正解はひとつと考えられる部分がはるかに多い。これと同様に、漢文訓読に似た方法で翻訳を行っていたとき、正解はひとつしかないと考えられたのはそれほど不思議ではない。

ごく最近まで、翻訳者はエリートであった。お国に選ばれて欧州に国費で留学し、帰国後には文字通り終身雇用の職を与えられ、十分な給与を保証されていた人たちが翻訳にあたっていた。社会的にも経済的にもきわめて恵まれた地位を保証された文字通りのエリートだったのだ。エリートには義務がある。その義務とは、欧米の進んだ知識や技術を日本語で伝えることであった。

だからこそ、誤訳はあってはならないことだったのだ。エリートなら、ひとつしかない正解をしっかりと示して義務をはたしてほしい。外国語を読む解く(つまり、欧文訓読の訳文を作る)ことができなくて、なんで恵まれた地位を得ているのだというわけだ。

だが、誤訳の指摘を喜ぶときの背景になっていた状況は、いまではほとんどなくなっている。いま、誤訳が話題になるのは、他人の間違いを指摘するのが面白いからだ。尻馬に乗って鼻高々になりたいという読者がいるからだ。要するに読者の醜い根性を刺激するからだ。

なぜ読みやすさが基準とされるのか

読みやすさに関心が集まるのは主に、後進国型、欧文訓読型の翻訳に対する拒否感からである。後進国型翻訳では、漢文訓読型の文体を使い、漢語を基にした難しい訳語を多用するので、訳文がどうしてもむずかしくなる。そのうえ、理解などとてもできないと思えるほど遠くむずかしい知識を学んでいるのだという自惚れがあるので、訳文が不必要に「難解」になる傾向がある。

翻訳書を読んでさっぱり理解できなかった本が、原著を読めば簡単に理解できたり、英訳を読んだらなんのことはなく理解できたという話はたくさんある。この結果、翻訳が「難解」なのは、もともとむずかしいことが書かれているからでもあるが、それ以上に、翻訳によって不必要に「難解」にされているからであることが理解されるようになってきた。そこででてきたのが、読みやすさへの要求である。

読みやすさを求める声が強まったのは「難解な」文章に対する拒否反応であり、当然のことだし、健全なことでもある。だが、これが当然だし健全だといえるのは、後進国型の翻訳が蔓延しているという条件があるからだ。いまでは、そのような条件は消えかかっている。欧文訓読型の翻訳、「難解さ」を売り物にする翻訳が少なくとも主流ではなくなったいま、それでも読みやすさを求めるのは、読者の知的好奇心、忍耐力、能力が低下しているためだろう。知らなかったことを学ぶ喜び、考えてもいなかったことを考える喜び、感じてもいなかったことを感じる楽しみを得るのがそもそも、読書の目的であることが忘れられているからだ。

原著者が日本語で書くとすれば……

誤訳が少ないこと、読みやすいことという2つの基準がどちらも後進国型の翻訳を前提に生まれたものであり、その条件がなくなったいま、どちらかといえばおぞましいものになっているとするなら、どのような基準で翻訳の質を判断すべきなのか。その答えが、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思えるものになっているか」である。

なぜこれが基準になるかは、2つの角度から論じることができる。第1は、読者として翻訳書を読むときに何を期待するかという角度である。第2は、翻訳者の使命という少々理屈っぽい角度である。

第1の点は、簡単に理解できるはずだ。奇妙なことをいうようだが、いまでは翻訳書を読む理由はそれが翻訳書だからではない。面白そうな本だから、興味のあるテーマを扱った本だから、話題の本だから、好きな作者の本だからなど、理由はさまざまだろうが、翻訳書だからではない。いまでは翻訳書も翻訳ではない本も、読者は同列に考えている。同じものとして比較している。同列に考えて比較したうえで、本を選択する。後進国型の翻訳の時代には、翻訳書だというだけでありがたがられていたのだが。

翻訳書もそうでない本も同列に考えて比較するのだ。翻訳書だから……という考え方は成立しない。翻訳書だから内容がすぐれているとはだれも思わないし、翻訳書だから文章が少々おかしくても我慢して読もうとはだれも思わない。翻訳書もそうでない本もおなじ基準で判断する。

もちろん、本の価値を考えるときの基準はひとつではない。たとえば小説の値打ちを判断する際の基準は何かと質問されれば、だれでも答えにつまるはずだ。だが、翻訳書の値打ちを翻訳という観点で評価する際の基準なら、たぶん、ひとつに絞り込むことも可能だろう。日本語としての質が高いかどうかである。

日本語としての質が高いとは、たとえば小説の翻訳であれば、小説として喜んで読める日本語になっていることである。経営書なら経営書として喜んで読める日本語になっていることである。日本語としての質が低い本は、読む気がしない。類書がない本など、いまやないに等しいので、日本語としての質が低い本を読むくらいなら、類書を探そうと考える。

そして、日本語としての質が高い翻訳とは、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」と言い換えられるはずである。

第2の翻訳者の使命という観点について簡単に記しておこう。

翻訳とは何か、翻訳はどうあるべきかを示す理論がないのか、さまざまな翻訳論を検討してきたが、いまのところ、どうやらそんな理論はないのではないかと考えるようになっている。欧米で書かれた翻訳論のほとんどは、印欧語族という近親関係にある言語の間の翻訳を前提に書かれているようで、欧米語と日本語の間のように違う語族の間の翻訳には役立たないように思える。日本人が書いた翻訳論の方がはるかにすぐれていると思えるが、それでも翻訳理論と呼べるようなものがあるとは思えない。

そこで、翻訳とはどういうものか、翻訳者の使命は何か、日頃の仕事のなかで感じている点を基に考えるしかない。大雑把な印象として以下のような図式を思い浮かべる。
 

      原著者と原著読者が共有する文化

原著者  →  原著  →  原著読者
         ↓             
              訳者  → 訳書 →  訳書読者

            訳者と訳書読者が共有する文化
 

書くという行為は、すべて読者を想定して行われる。実務文書はもちろんだが、どのような本も記事も、どのような論文も、読者に向けて書かれている。詩であれ、純文学であれ、どのような純粋芸術であれ、この点に違いはない。例外的に読者を想定しない文書がないわけではないが、そのような文書は翻訳の対象にはならない。だから、読者という観点、受け手という観点がない翻訳論は読むに値しない。

送り手と受け手の関係は、言語というものの本質にかかわるものであり、翻訳にかぎられたことではない。だが、翻訳では、送り手と受け手の関係が二重になっているという特徴がある。この二重性という特徴を考えると、翻訳に比較的近いものは演劇や音楽などの舞台芸術ではないかと思える。翻訳者は、作曲家が書いた楽譜を音という形で表現して聴衆に伝える演奏家や、劇作家が書いた戯曲を演技して観客に伝える役者に似ているといえる(ちなみに、翻訳と一括りにされることが多い通訳は、一部の例外を除いて、この関係が二重にはなっておらず、したがって、本質的な違いがある)。

演奏家や役者との類似から、「すべての翻訳は解釈である」という原則が導き出される。翻訳は解釈である。翻訳者は原著の読者であり、原著を読み、解釈した結果を母語で表現する。したがって、唯一の正しい翻訳というものはありえない。ひとつの作品を10人が翻訳すれば、10通りの訳ができる。そして10人がすぐれた翻訳家であれば、10通りの訳のすべてが正解である。
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だが、演奏家や役者とは違っている点もある。たとえば演奏家なら、作曲家が書いた楽譜を音に転換する。楽譜と音では、伝達手段としての性格に大きな違いがある。これに対して翻訳者は、外国語で書かれた文書を母語で書かれた文書に転換する。外国語と母語にももちろん違いがあるが、楽譜と音の違いほど大きくはない。そして、現在の著作権法の制約(後進性というべきだろうが)から、古典を除けば、翻訳は1回限りという性格をもっている。ひとつの原作で何通りもの訳がでることは通常はない。

このような事情から、翻訳者は訳書の読者にとって、原著者の代わり、代理人という性格を色濃くもつことになる。このため、「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」が要求されている。

翻訳の難しさ

「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」とは、たとえば小説の翻訳なら小説として読める日本語でなければならないことを意味する。当たり前だし、簡単ではないかと思えるかもしれない。だが、これは簡単なことではない。

「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうと思える翻訳」とは要するに、翻訳書と日本語で書かれた本とが、日本語の質という点で、対等な立場で競争関係にある事実を認識したものである。たとえば小説の翻訳なら、作家と日本語の質の高さを競争しているのである。一流の小説の翻訳なら、一流の作家と比較して遜色のない日本語になっていなければならない。

ところが、翻訳者は作家と比較して、圧倒的に不利な立場にある。作家なら、自分が感じたこと、知っていること、調べたこと、書きたいことを、自分の語彙の範囲で書けばいい。ところが翻訳者は、原著者が感じたこと、知っていること、調べたこと、書きたいことを、原著者の語彙で書いた結果を訳さなければならない。翻訳者は、感情や感覚や認識や知識が違い、語彙が違う原著と格闘する。これが翻訳の楽しむなのだが、苦しみでもある。

もうひとつ、原著で使われた言語と訳文に使う言語の性格の違いという問題がある。この違いによほど敏感になっていないと、外国語の影響を受けて、母語の言語感覚が狂ってくる。翻訳には、外国語の世界と母語の世界との間で、意識的な二重人格を作りだす必要がある。意識的な二重人格が破綻しないようにするのは、容易ではない。だから、翻訳はむずかしい。名訳と呼べる作品はそれほど多くはないのだ。