翻訳ベスト50候補




上田公子訳『将軍の娘』

山岡洋一

 

 上田公子訳ネルソン・デミル著『将軍の娘』(文春文庫)は名訳である。物語は猟奇事件の犯人探しという形をとっている。だが、そんな物語は敬遠したいと思う人、とくに女性にこそ読んでもらいたい小説だ。

『推定無罪』と同様に暗い物語だが、原著の文章はまるで違う。やりきれない物語を軽妙な文章で読ませる仕掛けになっている。そして、上田訳はこの特徴を見事に活かした訳文だ。第1章から例をあげよう。
 

 ここフォート・ハドリーの将校クラブの建物はどこかスペイン風--ムーア風か--で、おそらくそのせいで私の頭に映画"カサブランカ"のことがうかんだのだろう。わたしは口の隅から警句を吐いた。「世界にゴマンとある酒場のなかで、彼女がよりによってうちに来たとは」

  The O Club at Hadley is vaguely Spanish in architcture, perhaps Moorish, which may have been why Casablanca popped into my mind, and I quipped out of the side of my mouth, 'Of all the gin joints in the world, she walks into mine.'


 たとえばvaguelyを「どこか」と訳し、which may have been whyを「おそらくそのせいで」と訳している。何でもないように思えるかもしれない。しかし、ためしに自分で訳してみると痛感するはずである。こうは訳せないものなのだ。そして、名訳と稚拙な訳の違いは、些細な点だと思えるほどの細部にこそある。神は細部に宿るのだ。

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