名翻訳家


仁平和夫訳『ディズニー7つの法則』

山岡洋一  

  仁平和夫が力を発揮した分野のひとつに、物語性のあるビジネス書がある。この分野での代表作はトム・コネラン著『ディズニー7つの法則』(日経BP社)だろう。1997年に出版され、いまでも増刷されていて、経営書としては異例のロング・セラーになっている。5人の経営幹部がディズニー・ワールドで3日間をすごし、顧客満足度で世界一とされるディズニーの経営の秘密を学ぶツァーに参加する。その過程を小説仕立てで描いた作品である。

 仁平和夫の訳の特徴は細心にして大胆なことにある。例として、7つの法則のうち第3と第4をあげておこう。原文はTom Connelan, Inside the Magic Kingdom, Bard Pressによった。
 

レッスン3 すべての人が、語りかけ、歩み寄る(50ページ)
Lesson 3   Everyone walks the talk. (p. 40)
レッスン4 すべての物が、語りかけ、歩み寄る(71ページ)
Lesson 4   Everything walks the talk. (p. 59)


 このwalk the talkは慣用句だが、慣用句のつねとして意味が曖昧だ。辞書を引いても、この文脈にぴったりの語義が見つからない。たとえば「言ったことを実行する」という意味だと書かれているが、この文脈には部分的にしか合わない。とくに、レッスン4に合わない。インターネットなどで検索すれば用例が大量にでてくるが、意味範囲がきわめて広いことが確認できるだけだ。「語りかけ、歩み寄る」は原文の表面から大胆に飛躍し、しかも、原文の意図をみごとに表現した名訳だ。

 もうひとつ、今度は少し長い文章を引用しよう。登場人物のひとりが高校のころ、フットボールのコーチに活を入れられたときの言葉を回想する場面だ。
 

『そうか、それじゃいいことを教えてやろう。勝ちたいと思うだけじゃダメだ。勝ち負けがあるゲームなら、誰だって勝ちたいと思う。俺はな、ボストン・マラソンに出て勝ちたいと思っている。でも、わかるだろ。絶対に勝てっこない。本気で勝とうとは思っていないからだ。マラソンに情熱をもっていないからだ。いいか、意欲と情熱がなけりゃ、お遊びで終わる。お前らの練習にはな、意欲も情熱もひとかけらもない。情熱がひしひしと伝わってくるのは、ひとりしかいない。ドンだけだ』(203ページ)

'Well, I've got bad news for you.,' he said. 'Being interested is not enough.  A lot of people are interested in a lot of things.  I'm interested in winning the Boston Marathon.  But you know what?  I'm never going to win the Boston Marathon.  I'm not committed in it.  I'm not passionate enough about it.  That's what it takes--passion and commitment!  And you guys are about as far from being passionate and committed as anyone I know of.  In fact, there's only one player that I can see who's showing any passion at all, and that's Jenkins'  (p. 177-178)


 この台詞を読んでみるといい。高校生に活を入れる台詞として気持ち良く読めるのではないだろうか。ごく自然で、これしかないと思える台詞だ。

 ところが、原文をみるとおどろく。たとえば、I've got bad news for youは頻繁に使われる表現だが、これを「それじゃいいことを教えてやろう」と訳した翻訳家がいたとは思えない。また、翻訳者泣かせのcommitの意味を見事にとらえて、I'm not committed in itを「本気で勝とうとは思っていないからだ」と訳した翻訳家もいたとも思えない。どのセンテンスをみてもおなじことがいえる。ごく自然だと思える訳文がじつは、大胆な飛躍によって原文の意図を表現したものなのだ。

 分かるだろうか。これが翻訳なのだ。

 これだからこそ、読者に感動を与えられる。断言するが、仁平和夫訳を読んで感動した読者のうち90%以上は、原著からはそこまでの感動が得られない。情報の吸収だけなら、外国語でも十分に可能だ。だが感動となると、母語でなければいけない。意欲と情熱をもった名人による名訳でなければいけない。