仁平和夫訳『トム・ピーターズの起死回生』
翻訳が日本語の文体に影響を与えた例はいくつもある。古くは二葉亭四迷の『あひびき』が有名だし、最近でもたとえば野崎孝の『ライ麦畑でつかまえて』がある。何十年かたって、経営書の文体を大きく変えた翻訳として、仁平和夫の『トム・ピーターズの起死回生』(TBSブリタニカ、1998年)をあげる人が出てきても、不思議だとはいえないように思う。
そう思えるほど、新鮮な訳文で衝撃を与えたという点ですぐれた翻訳だといえる。この訳書を「暴走だな」と評した人がいたが、だからこそ、すぐれた翻訳なのだ。暴走しているのは原著者のトム・ピーターズであり、仁平は原著者の暴走ぶりを日本語で見事に表現しているのだから。
たとえば、第9章にこうある(訳書263ページ)。
ありふれ化にノーと言え
この本で一番言いたいのは、このことだ。
ありふれたものをいくら作っても、しようがない。
イノベーションか死か。
ありふれたものを捨てるか、自分の命を捨てるか。
真剣に聞いてくれ!
お願いだから。ワーオ!にイエスと言え
ワーオが答えThis is ... THE WHOLE DAMNED POINT ... of this book. "Commoditization" will not do. I.e.: INNOVATE OR DIE. Just say no to
COMMODITY
L-I-S-T-E-N UP!!P-L-E-A-S-E. (Tom Peters, The Circle of Innovation, 1997, p.308-309)Say
yes
to
WOW!WOW! is the answer.
ここで使われているcommoditizationは翻訳者泣かせの言葉だ。「他社製品と区別がつかなくなること」を意味し、「差別化」の反対語である。「市況商品化」という訳語があるが、どうもよくない。これを「ありふれ化」と訳したのは、たぶん仁平和夫がはじめてだ。
こういう造語の能力は、じつは翻訳家にとって不可欠なものなのだが、この能力をもたない翻訳者が多すぎる。片仮名にすればいいと思っている翻訳者が多すぎる。日本語を豊かにする義務があることを知らない翻訳者が多すぎる。
ありふれた言葉で翻訳してもしようがない、真剣に聞いてくれ! お願いだから。この訳文がそう叫んでいるように思う。
ついでに触れておくと、この章のタイトルは「欲しくて悶える」だ。経営書の章のタイトルにこんな言葉を使えるのは、仁平和夫だけだ。原著ではCreate Waves of Lust.である。この章だけではない。第10章はTommy Hilfinger Knows.を「ブランドや、ああブランドや、ブランドや」と訳し、最後の第15章はWe're Here to Live Life Out Loud.を「一期は夢よ、ただ狂え」と訳している。各章の内容をとらえた見事な訳だ。
「一期は夢よ、ただ狂え」の最後の部分は、こう訳されている(訳書407ページ)。
騒々しい時代に負けないくらい、声を限りに叫んで生きるガッツがあるか? 勇気があるか? 根気があるか? 熱き心があるか?
私たちのキャリアのために、私たちの部署のために、私たちの会社のために、私たちの家族のために、私たちの社会や国のために。これはカネに換えられる問題じゃない。だから……けたたましく生きろ!
Will we have the guts, the nerve, the persistence, the PASSION to live our life as loudly as these very loud times demand?
For your and my careers, for our units, for our organizations, for our families, for our communities, for our nation ... it's the $64-trillon question. So .....??(Ibid. p.491) LIVE LOUD!
生きた日本語表現を経済・経営関係のノンフィクション出版翻訳にもちこんだ天才翻訳家、仁平和夫の面目躍如たるものがある訳文だ。