翻訳批評
美しい日本語としての翻訳
矢川澄子訳『不思議の国のアリス』
「声に出して読む」というのは、ほんとうはどこかおかしい。「読む」というのは本来「声に出す」ことなのだから。
いつしか、音読は幼稚で黙読が正しい読み方だという考えが力を得て、常識にすらなった。だが、何といわれようと、人間の本性はそう変わりはしない。
黙読をしているときにも、唇や喉が無意識のうちに動いているものだし、動いていなくても、頭の中では音が聞こえているものだ。
本は見るものではない、読むものだ。目で文字を追い、声に出し、耳で聞く。これではじめて理解できる。覚える。身につく。これが読書の本来のあり方だとす
るなら、声に出し、耳で聞いて理解でき、記憶できる文章が理想だといえる。
そう考えると、翻訳は分が悪くなる。声に出すことができない文章、耳で聞いたらとても理解できない文章、記憶などとてもできない文章、たいていの翻 訳はそういう文章の典型だといえるものだからだ。しかし、どの翻訳もそうだというわけではない。声に出して読みたくなる文章を書く翻訳家もいる。その典型 が矢川澄子だ。
☆ ☆ ☆
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は何種類もの訳が出版されているので、翻訳の特徴や質を比較するのに適している。矢川澄子訳(新潮文庫)
と高橋康也・迪訳(河出文庫)、柳瀬尚紀訳(ちくま文庫)を比較してみよう。冒頭部分はこうなっている。
矢川訳13ページ
アリスはそのとき土手の上で、姉さんのそばにすわっていたけれど、何もすることはないし、たいくつでたまらなくなってきてね。姉さんの読んでる本を一、二 度のぞいてみたけれど、挿絵〔さしえ〕もなければせりふもでてこない。「挿絵もせりふもない本なんて、どこがいいんだろう」と思ってさ。高橋訳10ページ
アリスは、お姉〔ねえ〕さんと並〔なら〕んで土手にすわっていましたが、なにもすることがないので、たいくつしてきました。お姉〔ねえ〕さんの読んでいる 本をちらっとのぞいてみたのですが、その本にはさし絵もないし、会話のやりとりもありません。アリスは思いました。「絵がなくて、おまけに会話もない本な んて、いったいなんの役に立つっていうの?」柳瀬訳11ページ
アリスは姉とならんで川べりにすわって、なにもしないでいるのがそろそろ退屈になっていた。一、二度、姉の読んでいる本をのぞいてみたけれど、絵もなけれ ば会話もない。「読んでもしようがないのに」とアリスは思った。「絵も会話もない本なんて」
わずかこれだけでも、三つの翻訳の特徴がわかる。柳瀬訳はあきらかに黙読用だ。高橋訳はたぶん音読用だろう。そして矢川訳はあきらかに朗読用だ。お父さん
かお兄さんが女の子に読んであげる、そういう文章になっている。
この点をもっとはっきり示すのが言葉遊びの訳し方だ。アリスが井戸のような穴に落ちていく場面から引用しよう。
矢川訳17ページ
またもやひとりごとのはじまりだ。「このまま地球をつきぬけちゃうのかしらん? 頭を下にしてあるいてる人たちのなかへ、ひょっこりあたしが出ていった ら、さぞこっけいだろうな。たしかツイセキチュウとかいうのよね――」(ヒヤヒヤ、こんどばかりは誰にも聞かれないでよかった。このことばはどうみても怪 しげだもの。地球の正反対側のことなら対蹠地〔タイセキチ〕じゃないか)……高橋訳14ページ
アリスはひとりごとのつづきをしました。「もしかしたら、地球をつきぬけて落ちていくんじゃないかしら! 頭を下にして歩いている人たちの中にひょっこり 出たりしたら、さぞおかしいでしょうね! 反対人〔はんたいじん〕っていったと思うけど――」(こんどはだれも聞いていなくてアリスはほっとしました。少 しちがっているような気がしたからです。ほんとうは反対人ではなくて対蹠人〔たいせきじん〕*というのです)。* 日本とアルゼンチンのように地球の反対側に住む人間。antipodesは「蹠(あしうら)が向かいあわせ」の意。「反 対人」(antipathies)という言いまちがいは、これから多くの「なじめない」人物に出会うはずのアリスの不安のせいか。
柳瀬訳14ページ
やがて彼女はまたしゃべり出した。「あたし、このまま落っこちて、地球を通り抜けてしまうんじゃないこと! 頭を下にして歩いている人たちのなかにひょい と出ていったりしたら、とってもおかしいじゃない! 退席地〔たいせきち〕っていったかしら――」(今度は誰も聞いていないのでほっとして、というのもこ の言葉はどうも正しくなさそうだった)……
柳瀬訳が黙読用だというのは、「退席地〔たいせきち〕っていったかしら」を読んでみるとすぐにわかる。ひとりごとで「対蹠地」を「退席地」と言い間違える
ことなどありえない。どちらも読みは「たいせきち」なのだから。黙読でなければ、何の意味ももたない訳語である。音読には適さないし、まして、朗読して十
歳の女の子に聞いてもらうことはできない。
高橋訳は「反対人」という訳語を使っていて、音読ができる。だが、訳注はまったくいただけない。これでは、せっかく楽しむために読んでいるのに、お 勉強の雰囲気になる。なぜこのような訳注をつけるのか。答えははっきりしている。原書講読で『不思議の国のアリス』を読む英文科の学生を想定読者にしてい るからだ。だから、お勉強の雰囲気というと叱られるかもしれない。勉強の雰囲気か研究の雰囲気というべきだろうか。
矢川訳が朗読に適していることも、「ツイセキチュウ」という訳語を読んでみればすぐにわかる。小学校中学年の女の子なら、耳で聞いて楽しんでくれる 訳文だ。
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以上の二か所を比較しただけで、三つの訳の特徴がかなりよくわかる。
柳瀬訳は英語の先生らしく、英文和訳の伝統をしっかり受け継いだ訳だ。机に向かってひとり静かに読む。そういう読者を想定している。これが基本だ。 この基本の上に言葉遊びを少々散りばめた点が柳瀬訳の特徴である。
高橋訳は東京大学名誉教授、英文学とくにシェクスピアとキャロルの研究の第一人者にふさわしく、何よりも研究成果の披露を目的にしているように思え る。この訳書を読むときは、原著を真ん中におき、左右を権威ある英英辞典と研究書でかため、そのかたわらに訳書をおいて読まなければいけない。読書を楽し むなんぞと考えるべきではないのかもしれない。
矢川訳はまったく違う。十歳の女の子にせがまれて話し、書いた原著を、十歳の女の子に読み聞かせる、そういう読者を想定して訳されている。何よりも 原著そのままに、楽しいお話にするように訳されている。
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文章をうまく書けるようにするには、何よりも名文を読むべきであり、そして、間違っても翻訳物を読んではいけないと助言する人がいる。前半はもちろ ん、正しい助言だが、翻訳を職業にしている立場から、後半には少々参る。たしかに、読んではいけない(少なくともよほど用心しながら読まなければならな い)翻訳が多すぎる。
だが、翻訳はみなそうだとは、だれにもいわせない。矢川澄子の訳をみてほしい。文句なしの名文、まさに美しい日本語ではないだろうか。原著者が日本 語で書いたとしたら、こういう文章になったのではないかと思えるのではないだろうか。
準備号 (2002年7月)より