本物と偽物
リンドバーグ夫人著吉田健一訳『海からの贈物』
吉田健一訳『海からの贈物』 (新潮文庫) は文句なしの名訳である。訳者は吉田茂の長男、生まれたのは1912年というから、漱石の「こころ」の先生が自殺した年、明治から大正に年号が変わった年である。ケンブリッジ大学中退、批評家、随筆家、翻訳家であり、古き日本の典型的な知識人だといえる。『海からの贈物』を読むと、知識人のなかでもっとも上質な人たちがどれほどの力をもっていたのかを実感できる。
知識人の訳だというと、七面倒くさく、難解で、頭が痛くなるような文章なのだろうと思えるかもしれない。吉田健一訳の『海からの贈物』はこういう先入観を見事に裏切ってくれる。明快で、明晰で、明瞭な名文である。原文はきわめて読みやすい文章だが、たぶんたいていの読者にとって、原文よりさらに読みやすい訳文になっている。
「浜辺」と題された第1章をみてみよう。訳文で2ページと2行の短い章であり、わずか4つの段落で構成されている。第1段落の冒頭はこうだ。
浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。私は前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、ほんとうに頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのにはい心地がよ過ぎる。…… (13ページ)
この翻訳がいかに素晴らしいかを伝えるには、ほんとうはそういうことはしたくないのだが、原文を引用するしかない。高校生が十分に読める程度の英語なので、引用しておこう。
The beach is not the place to work; to read, write or think. I should have remembered that from other years. Too warm, too damp, too soft for any real mental discipline or sharp flights of spirit. ... Ann Morrow Lindbergh, Gift from the Sea, Pantheon Books, p. 15ここでたとえば、for any real mental disciplineが「ほんとうに頭を働かせたり」と訳され、sharp flights of spiritが「精神の飛躍を試みたりするには」と訳されていることに注目したい。試しにmental disciplineをどう訳すか、考えてみるといい。たぶん、途方に暮れるはずである。
もちろんmentalなら知っている。「精神の」「知的」などの訳語がすぐに思い浮かぶ。では、disciplineはどうだろう。辞書を引くと「訓練」「規律」「しつけ」などの訳語が並んでいる。では、この2つを組み合わせるとどうなるのか。まさか「精神の訓練」ではあるまい。「知的しつけ」でもない。
このように考えていくと、学校で教えられた訳語や辞書に書かれている訳語が頭のなかで空転するだけで、mental disciplineという言葉で原著者が何をいおうとしたのかが、じつはさっぱり分かっていないことに気づくはずだ。訳語なら教えられてきたし、英和辞典にも書いてあるので、何とか分かる。だが、これらの訳語が使えそうもない文脈だと、もう何も分からなくなるのだ。要するに、訳語が分かっているだけで、肝心の意味が分かっていないのである。
途方に暮れたところで吉田健一訳をもう一度みてみると、なんと「ほんとうに頭を働かせたり」と訳されている。訳者はmental disciplineが「頭を働かせること」だといっている。これをみて、もう一度前後を読み直し、辞書を引き直すと、なるほどそういうことだったのかと納得できる。形容詞のmentalは要するに「頭」に関係することを示す言葉だし、英和辞典のdisciplineの項には「専門分野」などの訳語も掲げられている。こうした点を確認すれば、ほんとうの意味で、「分かった」と思えるはずだ。そして、mental disciplineというむずかしそうな言葉が、だれにも分かる言葉で訳されていることに感激するはずだ。
このfor any real mental disciplineがたとえば、「何らかの実質的な精神的専門分野にとって」になっていたとしても、「誤訳」だとはいえない。文句のつけようがない正訳である。だが、これでは読者は何も理解できない。そしてこう訳したとき、じつは訳者も何も理解できていない。何も理解しないまま、難解そうな言葉を操っているだけなのだ。何も理解しないまま言葉を操るのが偽物の知識人、吉田健一のように、しっかりした理解に基づいてだれにも分かる言葉で原文の内容を伝えるのが、本物の知識人である。
本物の知識をもった本物の翻訳家がどのように原著を読んでいるかは、ここに引用した3行足らずの訳文からだけでも、いくつもの点で確認できる。たとえば、from other yearsを「前からの経験で」と訳しているし、too softを「い心地がよ過ぎる」と訳している。訳文を読んだあとに原文をみると、これ以外にはありえないと思えるほどぴったりの訳だが、原文から訳そうとすると、こういう言葉はまずでてこない。
もちろん、翻訳書を読むときは、原著を並べて読んだりはしないので、以上のような分析は邪道だともいえる。それよりも、吉田健一の訳文だけをじっくりと味わってみるべきだろう。明快で、明晰で、明瞭な名文である。翻訳によくみられる七面倒くさく、難解で、頭が痛くなるような訳文にはなっていない。吉田健一が原著をよくよく消化したうえで、原著者が日本語で書けばこう書くだろうと思える文章を書いていることに気づくはずである。
『海からの贈物』の吉田健一訳と落合恵子訳
吉田健一訳『海からの贈物』 (新潮文庫) は文句なしの名訳だが、同じ原著からもうひとつ、落合恵子訳『海からの贈りもの』
(立原書房) が1994年に出版されている。吉田健一訳は初版が1967年だから、30年近くのちに新訳がでたわけだ。落合訳をみていくと、吉田訳の素晴らしさが実感できると思える。同じ部分を引用して比較してみよう。
吉田健一訳
浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。私は前からの経験でそのことを知っているはずだった。温か過ぎるし、湿気があり過ぎて、ほんとうに頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするのにはい心地がよ過ぎる。…… (13ページ)落合恵子訳
海辺は、本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに、決して適当な場所ではない。何年にもわたる経験で、わたしはそのことを知っているはずだった。
温かすぎるし、湿気がありすぎる。それに、頭を働かせたり、精神の飛躍を試みたりするには、あまりにも居心地よすぎる場所でもある。 (11ページ)
この4行の訳文を読むだけで、落合訳の特徴がはっきりと分かる。極端にいうなら、吉田健一訳を書き写して、いくつかの変更を加えているだけだとすらいえる。前述の「ほんとうに頭を働かせたり」「精神の飛躍を試みたり」「い心地がよ過ぎる」で、吉田訳をほぼ書き写しているのだ。原文から訳せばこういう訳文にはならないはずなので、落合恵子は翻訳をしていないとすらいえるかもしれない。
だが、既訳があるものの新訳をだすときに、既訳を参照するのは、訳者にとって当然の責務だともいえる。既訳の良い部分を採り入れ、問題がある部分を修正して、既訳よりも良い訳にすることが責務だともいえるのだ。だから、落合訳が吉田訳とそっくりだからといって、とくに非難されるべきではない。
おそらく、落合恵子は吉田訳を書き写すつもりで新訳をはじめたわけではないのだろう。吉田訳とそっくりでは、盗作ではないかと疑われかねないからだ。だが、たとえば、too softを訳そうとすると、「い心地がよ過ぎる」以外の訳文がありうるとは思えなかったはずだ。前述のany real mental disciplineも「ほんとうに頭を働かせたり」以外の訳し方があるとは思えなかったはずだ。吉田訳を参照せず、原文を読んで、辞書を引き、脳の襞の奥深くに収められている語彙を懸命に探るだけの方法で訳せば、こういう訳文になるはずがないことには、気づきもしなかった。吉田訳はそれほど原文に忠実で、それほど日本語として自然な訳なのだ。
もちろん、吉田訳をそのまま引き写すわけにはいかないから、いくつかの点を変更するしかない。ほんとうにすぐれた書き手なら、吉田訳を参考にして、それをさらに超える名訳を作りだせただろう。だが、落合恵子にはそこまでの力がない。いくつかの点で、逆に悪い方向に変更してしまっている。
たとえば、「本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをするのに」の部分がそうだ。「たり」という言葉は、こうは使わない。「本を読んだり、ものを書いたり、考えごとをしたりするのに」でなければならない。これが正しい使い方だが、うっかりと間違えることは少なくない。親切なワープロ・ソフトだと間違いを指摘してくれるほどである。だから、落合恵子が「たり」の使い方を間違っていても、それだけなら、幼稚な文章だというだけの話だ。だが、ここで落合恵子は、正しい使い方をした文章を書き写したうえで、それを間違った方向、幼稚な方向に修正している。少々気の毒になる。
第2の例はもう少し複雑だ。落合訳を読んだとき、なんとも分かりにくい文章だという印象を受けた。よくみると、吉田訳を書き写しただけと思えるほどそっくりなのに、印象が違う。吉田訳は明快で、明晰で、明瞭な名文という印象なのに、落合訳は分かりにくく読みにくいという印象なのだ。なぜ、そのような印象を受けるのかを説明していこう。
前述のように、第1章は4つの短い段落にわかれている。これを文章の構成という観点からみてみると、日本人にはきわめて馴染みの深く、分かりやすいものになっている。吉田訳の各段落の最初の文と第4段落の最後の文をみていくと、構成が簡単に分かる。
第1段落
浜辺は本を読んだり、ものを書いたり、考えたりするのにいい場所ではない。第2段落
初めのうちは、自分の疲れた体が凡〔すべ〕てで、……何もする気が起こらない。第3段落
そして二週間目の或〔あ〕る朝、頭が漸〔ようや〕く目覚めて、また働き始める。第4段落
しかしそれをこっちから探そうとしてはならない……我々は海からの贈物を待ちながら、浜辺も同様に空虚になってそこに横たわっていなければならない。
この構成が少なくとも日本人にとってきわめて分かりやすいのは、もちろん偶然にではあるが、日本語の文章構成でよく使われる「起承転結」に近いからである。起で起こし、承で説明し、転で転換し、結で結論を述べる。起承転結の説明によく使われる俗謡を引用しておこう。
起 浪速花町糸屋の娘
承 姉は十八妹は十五
転 諸国大名は弓矢で殺す
結 糸屋の娘は眼で殺す
『海からの贈物』の第1章は、このように、偶然にではあるが起承転結に似た構成になっているので、吉田訳を一読すると、全体がじつによく理解できる。ところが、落合訳では、全体像がみえてこない。何を言おうとしているのかが分かりにくい。個々の言葉は幼稚ではあっても、とくに分かりにくいわけではないのに、全体としては分かりにくく読みにくい文章になっている。それはかなりの部分、原著のパラグラフをいくつもの段落に分割し、逆にパラグラフを超えて段落をつないでいて、起承転結に似た章の構造がみえなくなっているためだ。
落合訳は原著のパラグラフを以下のように切り刻んでいる。
第1パラグラフ 第1段落〜第4段落前半
第2パラグラフ 第4段落後半〜第6段落
第3パラグラフ 第7段落〜第8段落
第4パラグラフ 第9段落〜第12段落
第1章はわずか37行だが、これを12の段落に切り刻んだ。平均3行、長いものでも5行しかない。吉田訳は29行、4段落であり、各段落は6行から8行の長さになっている。
落合恵子はたぶん、こう考えたのだろう (あるいは、編集者がそう考えたのかも知れない) 。吉田訳との違いをだしたい。たぶん、吉田訳は文が長いし、段落も長い。文を切り、段落を細かくわける方法を採ったらどうだろう。いまの読者は昔の読者と違って、段落が短く、文が短いのを好むから……。その結果、なんとも分かりにくい訳文ができた。気の毒なことだ。だれにとって。もちろん読者にとって。
それにしてもなぜ、段落が短い方がいいと考えるのだろうか。おそらく、読者は馬鹿だという思い込みがあるのだ。長い文章は歯が立たない、長い段落には耐えられない、むずかしい言葉があればもう読めない、そういう馬鹿だという思い込みがあるのだ。馬鹿による馬鹿のための馬鹿な本しか売れないという思い込みがある。こういう恐ろしいまでの傲慢さが、出版業界の一部にはびこっている。たぶん、落合訳で段落を切り刻んだのは、そうした一部の風潮から影響を受けたからだろう。
念のために付け加えておくが、落合恵子訳が世の中の翻訳書と比較して、とくに悪いというわけではない。それどころか、名訳だと推奨する人が少なくないほどであり、全体として質の高い訳であることはたしかだ。だが、落合訳がすぐれているのは、吉田訳にかなりの程度まで忠実に従ったからだ。
落合訳をあえて取り上げたのは、吉田健一の訳がいかに素晴らしいかを逆の方向から示しているからである。吉田訳は、新訳を試みてもかなりの程度まで忠実に従うほかないほどの名訳なのだ。ほかの訳文や訳語が考えられなくなるほど原文に密着していて、しかも自然な日本語になっている。翻訳が明快で、明晰で、明瞭な名文になりうることを示す名訳である。
第2期第1号より