翻訳ベスト50候補名訳とは
 
 

出版翻訳は十分間一本勝負


山岡 洋一


 出版翻訳は10分で勝負が決まる。最初の10分で一本がとれれば勝ち、とれなければ負けだ。

 とんでもない、1冊の本を訳すにはいくら短くても1か月、長ければ1年以上かかると反発するだろうか。甘い甘い、そんなものは作り手の側の事情だ。読者は鼻にもかけてくれない。

 年間に7万点の新刊がでてくる世界、大きな書店なら数十万点のなかから本を選べる世界、新古書店に行けば1冊100円で本が叩き売りされている世界、そのなかで何か月かかけて、何年かかけて作った本を読んでもらうのは容易ではない。勝負は10分で決まる。10分読んで、読みつづける価値があると判断されなければ、どんなに時間をかけた本でも、新古書店に直行するかゴミになる。

 最初の10分間が勝負。ここでひとつの世界を作りだし、読者をその世界に招き入れることができなければ、残りの数百ページは読んでもらえない。

 並みの翻訳は、最初の10分間に読者を飽きさせるか、混乱させるか、不信感をもたせる。暇がよほどあるか、義務感があるか、原著者がよほど好きか、そういう読者でなければもう読んでくれない。

 名著の名訳なら、最初の段落の最初の文だけで、読者をとらえる。最初の一文を読めばもう本をおくことができない。例をあげておこう。
 

  電話が鳴った。聞こえるか聞こえないかの音だった。わたしはたまたま、バンガローの真っ暗な廊下をうろうろしていた。電話機の底には工夫がしてあって、ブザーだかベルだか知らないが、とにかくなかに入っているものの音量をしぼることができる。わたしは、ほとんどなにも聞こえないくらい、音量を最小限にしぼっていた。(芝山幹郎訳プリンプトン著『遠くからきた大リーガー』)
 

 私の名はフランク・パーマ。私は船で空を飛ぶ。空を読み、天候の変化を察知し、風に逆らわず、波の間に間にただようことができる。(芝山幹郎訳バフェット著『ジョー・マーチャントはどこにいる?』)


 言葉の魔術師、芝山幹郎の名訳だが、どちらも売り切れ・絶版になっていて、古書店でしか入手できない。