私的ミステリ通信 (第6回)
仁木 めぐみ
「時
の娘」の母
あけましておめでとうございます。「私的ミステリ通信」は、2004年も細々と続けさせていただくつもりでおります。本年もどうぞよろしく
お願いいたします。
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さて、「歴史的事実」という言葉があります。しかし、現在生きている人間が誰もその目で見たはずのないことは、実際は「伝聞」の形でしか知ることができ
ません。当時の文書が残っていたとしても、書き手が嘘をついていないとは誰が保証できるでしょうか? ましてや政治的大事件の場合、どちらサイドの人間が
書いたのかを検証することはとても大切になります。そしてどんなに検証を重ねたとしても、100パーセント確実だとは言い切ることは難しいのです。
こういう「歴史を疑う」姿勢というのは、今でこそさほど新鮮ではありませんが、今から五十年以上前の1950年代の初めに歴史の固定概念をひっくり返し
てみせた一冊のミステリがあります。ジョセフィン・テイの歴史ミステリ『時の娘』(小泉喜美子訳・ハヤカワミステリ文庫)です。
『時の娘』は薔薇戦争時代の悪役、リチャードV世の「汚名をそそぐ」ミステリです。この本はあまりにも有名で、テイ=『時の娘』というイメージがありま
すが、実はテイの魅力はこの一作に限られたものではありません。今回はその多彩な魅力に富んだテイの作品を紹介してみたいと思います。
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ジョセフィン・テイ(Josephine
Tey)は本名をエリザベス・マッキントッシュといいます。劇作家でもあり、ゴードン・ダヴィオットという名前でも作品を発表しています。名作『時の娘』
を発表した翌年の1952年、まさにこれからという時に56歳でなくなっており、その作品の完成度や多彩さを考えると、本当に惜しいことでした。
Scribner社から出ているテイの作品のペーパーバック版には、冒頭に推理作家であり、ミステリ評論家でもあるロバート・バーナードの序文がついてい
ますが、その中でバーナードも、もしテイがその後も生きていたら、どんな作品を残していただろうと考えると本当に惜しいとしかいいようがないと書いていま
す。
テイのミステリは8作あり、原書は現在どれもScribner社のペーパーバック版で入手することができます。邦訳は『時の娘』はもちろん入手可能です
し、近年『ロウソクのために一シリングを』(直良和美訳・ハヤカワポケットミステリ)、『魔性の馬』(堀田碧訳・小学館)と未訳だった作品が相次いで翻訳
されるなど朗報が続いています。
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リチャードV世といえば、シェイクスピアの歴史劇で有名です。兄のエドワードW世の亡き後、自らが王位につくために、兄の息子である二人の王子、つまり
自分の甥にあたる幼い王子たちを、ロンドン塔に幽閉した挙句に殺させたといわれている人物です。『時の娘』は、イギリスの「国民的悪役」でもあるこの王
は、果たして本当に王子殺害の黒幕なのか、という謎を提起し、解明しているのです。
この謎に挑むのはロンドン警視庁の敏腕警部アラン・グラントです。犯人を追跡中にマンホールに落ちて足を骨折するという、かなり敏腕ならざる状況で入院
する羽目に陥ったグラント警部は、友人である女優マータ・ハラードのすすめで、退屈しのぎに歴史上の人物たちの肖像画を眺めていました。ベッドの上でその
中の一枚、リチャードV世の顔を眺めていたグラントは、この絵に描かれた人物は犯罪者には見えないと思いました。そこで現職の警察官ならではの手法、つま
り出来事を「殺人事件」として扱うことによって、資料の中から真実をつきとめていきます。グラントが導き出した推論は、鮮やかであると同時にショッキング
で、少し悲しいものでした。
この『時の娘』は歴史ミステリの草分け的存在であり、また発表されてから五十年以上たった今でも、このジャンルの最高峰であると言えるでしょう。日本で
はこの作品に触発され、高木昭光が『成吉思汗の秘密』(角川文庫ほか)を書いたことが有名ですし、その後、現在に至るまで、歴史上の謎を現代の登場人物が
探るミステリがたくさん書き継がれています。
同時に『時の娘』は安楽椅子探偵(この場合はベッド探偵ですが)ものとしても重要な作品です。もちろんバロネス・オルツィの『隅の老人』などのように、
実際には現場にいかずに推理をする探偵はテイ以前にもいましたが、いつもイギリス全土をまたにかけ、縦横無尽に活躍しているグラント警部が、入院中という
特殊な時間の中で、歴史上の謎を解き明かしたこの作品は、とても鮮烈な印象を残しています。
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日本の読者が幸せなのは、この『時の娘』がとてもよい翻訳にめぐまれていることだと思います。テイ自身、とても筆力があり、ベッド探偵でしかも扱うもの
が歴史的な事柄という、冗漫になりがちな設定のこの作品でも、読者を飽きさせずに引っ張っていっているのはさすがです。そして小泉訳はさらにその味をよく
引き立てていると思います。小泉喜美子は自身も推理作家であり、『ダイナマイト円舞曲』(光文社 私はこの本が大好きでした!)、『弁護側の証人』(集英
社)などを書いていますが、クレイグ・ライスなどをはじめ、多くの海外ミステリの翻訳もしています。私事で恐縮ですが、ライス『スイートホーム殺人事
件』、P.D.ジェイムス『女には向かない職業』、そしてこの『時の娘』。ミステリを読み始めた頃の私のお気に入りであり、またその後のミステリ観に多大
な影響を与えてくれたこの三冊は、気づけばみな小泉喜美子訳でした。何よりも読者を楽しませるということを知っている訳者だったような気がします。
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テイの歴史ミステリは『時の娘』の他にもう一冊あります。『フランチャイズ事件』(大山功訳・ハヤカワポケットミステリ)です。第2回で紹介したリリア
ン・デ・ラ・トーレが『消えたエリザベス』で扱ったのと同じ、18世紀に実際に起こった少女誘拐事件を書いています。デ・ラ・トーレと違ってテイは、この
事件をそっくりそのまま20世紀に移し変え、グラント警部に捜査をさせました。そのおかげでより臨場感が出ていると思います。『時の娘』よりも上に推して
いる人も多いぐらいです。残念ながら邦訳は現在、新刊では手に入りません。復刊あるいは新訳が望まれます。
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さて、グラント警部とはいったいどんな人物なのでしょうか。テイはミステリを8冊書いていて、グラントはそのうちの6冊に登場するシリーズ探偵です。こ
こでは第一作The Man in The Queueと共にグラント警部を紹介してみましょう。
The Man in the
Queueはロンドンの劇場の前で始まります。大ヒットミュージカルの当日券のための行列の中で、一人の男が倒れます。力なく横たわったその男は息絶えて
いて、背中にはイタリア風の短いナイフが突き刺さっていました。グラント警部は捜査を開始します。男のポケットには拳銃が入っていて、不思議なことに服の
ラベルなどがはがされている上に、身元のわかるようなものを一切身に着けていませんでした。行列の人々は誰も犯人を見ていません。また凶器のナイフはとて
も特徴のある品だったのですが、ミュージカルの主演女優(グラント警部は顔見知りです!)がふと興味を示した以外、あとは誰もが見たことがないと言いま
す。やがて警察に5ポンド入りの封筒が送られてきて、添えられたメモには「このお金で彼を葬ってください」と書いてありました。このメモからグラント警部
は捜査を進め、被害者がソレルという男であり、手紙を送ってきたのは同居人のラモントという男だといういうことをつきとめます。逃亡したラモントを追い、
グラント警部はスコットランドへと向かうのですが・・・・・・。
登場の時からグラントは、ハンサムで上品で生まれもよい紳士であり、上司にも部下にも信頼されている敏腕警部。おしゃれで女優とも知り合いの警察官とし
てはかなり華やかな雰囲気を持つ男性です。優しい人柄をしのばせる部分も随所にあり、スコットランドの警察署長の娘エリカ(風変わりな少女なのですが、事
件解決に大変な貢献をします)にも一目で気に入られてしまうというモテモテぶりです。
ここまでは黄金期のミステリの探偵役としてはあまり珍しくないキャラクターですが、グラントは素人探偵ではなくプロの警察官ですので、逮捕の前に必ず、
「これからあなたの発言はあなたの不利に使われることもある・・・・・」という決まり文句を読み上げる場面がちゃんと描かれているのが新鮮です。
また、私は最近気づいてしまったのですが、グラント警部は作中で何度もその優秀さやスマートさを讃えられているにもかかわらず、実はかなりの頻度でドジ
をふんでいます。このThe Man in the
Queueでは、その優しさが災いしてミスを犯しています。容疑者を女性の前では逮捕しないという配慮をしたために、顔にコショウをふりかけられ、目が見
えなくなったすきに逃げられたのです(結末にかかわることなので詳しくは書けませんが、実はもっと大きなミスも犯しています)。また『ロウソクのために一
シリングを』では容疑者が物入れにたてこもっていると思っていたら、実はその物入れの奥には階段があって、容疑者はとっくにそこから逃げていました。それ
に『時の娘』の冒頭では、犯人追跡中にマンホールに落ちたと書かれているではありませんか!
グラント警部の推理はいつもかなり試行錯誤を繰り返しています。The Man in the
Queueはグラント警部の独白めいた部分が多いだけに、その印象が強く残る気がします。読んでいて私はコリン・デクスターのモース警部ものや、ウィリア
ム・L.デアンドリアの『ホッグ連続殺人事件』(真崎義博訳・ハヤカワミステリ文庫)を思い出しました。「華麗なる推理の迷宮」というのは、たしかモース
警部もののミステリにつけられたキャッチフレーズだったと思いますが、なかなかどうして「迷宮」ぶりではグラント警部も負けていないと思います。
しかし、試行錯誤の末に、結局グラントが事件を解決するのは、自説や自分のプライドに固執しない素直さのせいだと思います。The Man in
the
Queueでは、ある人物がグラントの推理をひっくり返しますが、彼はそれを恨むどころか自分の過ちを正し、本当の失敗を防いでくれたと感謝します。また
結末近くで、事件の鍵を握る女性が突然現れた時も、グラント警部の上司は耳を貸そうとしませんが、グラント警部は彼女の言葉をまじめに聞き、真実を知るこ
とになったのです。
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テイにはノン・シリーズのミステリも2作あります。Miss Pym Disposesと『魔性の馬』です。
まずMiss Pym
Disposesは、ある全寮制の女子体育学校が舞台になっているミステリです。ふとした思いつきで書いた心理学の本がベストセラーになり、一躍有名人に
なってしまったミス・ピムは、女学校時代の同級生が校長を務める体育大学から依頼を受け、講演のためにその学校を訪れます。最初は一泊の滞在のつもりでし
たが、ロンドンでの暮らしに飽きていたミス・ピムは、請われるままに卒業試験と発表会が終わるまで、学生たちと過ごすことになります。育ち盛り、食べ盛り
で、刺激に飢え、好奇心でいっぱいの学生たちと楽しく過ごすミス・ピムでしたが、教師に頼まれて試験監督を務めた時に、ローズという生徒がカンニングをし
ていたのではないかという疑惑を持ちます。それを校長に告げるべきか否か。ちょうど就職斡旋の時期でもあり、告げれば間違いなくその生徒の将来に影響する
でしょう。正義感と、その生徒を思いやる心の狭間で思い悩んだミス・ピムは、結局その件を心の内にしまっておきます。しかし校長が、イギリス一の名門校の
体育教師の職に、誰もが優秀だと思う生徒メアリをさしおいて、あのローズを推薦したことを聞き、ミス・ピムは校長に事実を告げに行きます。しかし校長はミ
ス・ピムの言葉を信じようとはしません。やがてローズが不可解な事故に遭い・・・・・・。
ミステリでありながら、殺人は全体の四分の三ほど過ぎるまで起こりません。そこまではカンニングや、校長がなぜローズを推薦するのかという謎はあるもの
の、体育学校での生活を中心に描かれています。そしてその部分が文句なく面白いのです。細部がとてもいきいきと描かれ、教師や生徒など個性的な人物たちが
多数登場します。また、今読んでも全く古さを感じません。テイの筆力のすばらしさの賜物だと思います。
事件の真相の方は、本当に最後の最後でどんでん返しがあります。Miss Pym
Disposes、つまり「ミス・ピム裁きを下す」という題名はとても皮肉で、前半ののどかな雰囲気とは裏腹に、ラストでミス・ピムが知る真実は意外で、
かなり冷酷です。
『魔性の馬』の方は、大きな牧場を持つアシュビー家が舞台です。アシュビー家の長男パトリックは八年前、十三歳の時に、遺書のような手紙を残して失踪し
ています。家督はパトリックの双子の弟サイモンがまもなく相続することになっていました。しかしそこに、アシュビー家の親類の男にそそのかされ、サイモン
と瓜二つのブラットという男性が、パトリックになりすまして、入り込むことになるのです。妹や伯母はブラットをパトリックとして暖かく迎えてくれたのです
が、サイモンだけは不可解なほど敵意を見せ、パトリック失踪の秘密を何か知っているようでした・・・・・・。
偽者であるブラットの正体がばれないのかというスリルと、8年前、パトリックに何が起こったのかという謎、そしてサイモンの対決の息詰まるサスペンスと
併行して、牧場の風景、家庭内のいきいきとした会話、伯母や無邪気な妹たちとの交情が、孤児であるブラットの心を癒していくさまがしっかりと描かれ、読み
応えがあります。
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テイは固定概念を覆すことが好きな作家だったのだと思います。リチャードV世は悪人だというイメージを覆し、平和そのものに見える女学校の中にひそむ悪
を暴き、グラントの活躍を通して何度も何度も読者をあっと言わせました。ラスト10ページ足らずのところでどんでん返しが待っていることも珍しくないの
で、テイのミステリは本当に最後まで気の抜けません。
「真理は時の娘」というのは『時の娘』の冒頭に掲げられていることわざですが、死後五十年以上経った今も、その作品が色あせず、世界中で高い評価を得て
いるということが、テイの作品の時を越えた真価を証明していると言えるでしょう。
ジョセフィン・テイの作品リストを翻訳通信のサイトに掲載しました。URLは以下の通りです。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/my/dt/tey.html